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神代上 第六段 「其の十握剣は、是素戔嗚尊の物なり。故、この三の女神は、悉くに是爾が児なり」とのたまいて、便ち…
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その祖を国背別命とする記事が『旧事本紀』天皇本紀の景行段に見える。
この者がその兄弟にあげられる同書に見える伊与宇和別の祖・国乳別命と同人とみられている
景行紀には国乳別皇子が水沼別の始祖と見える。その実体は確認しがたいが、建緒組命かその子弟ではないかと推される。
国乳別命以下の水沼別の系譜が、中田憲信編『皇胤志』に見えており、
「国乳別命-伊波狭賀命-倶低比古命-石尾命-赤目別直-田島直-古麻見直」
と記される。伊波狭賀命を「石佐賀命」の意と解すれば、この者は肥前の佐賀(佐嘉)県主・佐賀君の祖ともみられる。
なお、景行紀十八年条には景行巡狩のときの「水沼県主猿大海」が見えるが、上記系譜の誰に当たるのかは不明である。
「美奴売と称するは神の名で、この神は元能勢郡の美奴売山にいた。
昔、神功皇后が筑紫の国においでになった時、諸々の神を川辺郡の神前(カムサキ)の松原に集めて、幸いあらんことを御祈願された。
その時、この神が『私も守護しお助けしましょう。・・・私の住む山の杉の木で、私が乗る船を造り、之に乗って行幸されれば、無事であらせられるでしょう』と教えたので、皇后は教えのままに船を造らせた。この神の船は遂に新羅を征伐したので、皇后は帰還後、この神をこの浦に鎮座させて祀り、この船を神に奉納した」(大意)
とあり、
ここでいう川辺郡・神前とは現尼崎市神崎のことで、当社の辺りを指すことから略記に記されたのであろうが、元はミヌメ神を祀っていたというかすかな記憶があったからとも思われる。
一番これに近い例としては、神功紀・住吉神出現の段「日向の国の橘の小門のみな底に居て、水葉稚之出居ミツハモワカ(?)ニイデヰル神。名は表筒男うわつつのお・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。
この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。
みぬま・みつはと言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。
水沼の字は、おなじ風土記仁多郡の一章に二とこまで出ている。
三津郷……大穴持命の御子阿遅須枳高日子命……
大神夢に願ネぎ給はく「御子の哭なく由を告ノれ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞コト通カヨふと見ましき。かれ寤さめて問ひ給ひしかば、爾時ソノトキに「御津ミアサキ」と申まおしき。
その時何処いずくを然しか言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖ミオヤの前を立去於坐タチサリニイデマして、石川渡り、阪の上に至り留り、此処ここと申しき。
その時、其津の水沼於而ミヌマイデ(?)テ、御身沐浴ソヽぎ坐マしき。
故、国造の神吉事カムヨゴト奏まおして朝廷みかどに参向まいむかふ時、其水沼出而イデヽ用ゐ初むるなり。
上記美馬郡(旧)の郷名の一つが「三津郷」です。
事代主命が居た阿波国の葛城の海岸一部も「三津」といいます。
折口信夫が、水の神からその名が起こった可能性を指摘するミマ郡の式内社に、式内社弥都波能賣(みつはのめ)神社は在るのであり、同じ美馬郡に式内社鴨神社も鎮座するのです。
式内大社、天石門別八倉比売神社の御祭神、大日孁貴(おおひるめむち)は、日の神であると同時に水の神とも指摘され、古事記における阿波国の別名「オオゲツヒメ」と合わせて、阿波全域で「水と食の国」を表しています。
国乳別命以下の水沼別の系譜が、中田憲信編『皇胤志』に見えており、「国乳別命-伊波狭賀命-倶低比古命-石尾命-赤目別直-田島直-古麻見直」と記される。伊波狭賀命を「石佐賀命」の意と解すれば、この者は肥前の佐賀(佐嘉)県主・佐賀君の祖ともみられる。佐賀郡に巨勢郷があったことは先に述べたから、巨勢・雀部両氏の祖の星川建日子は石佐賀命の子孫にあたるのではなかろうか。なお、景行紀十八年条には景行巡狩のときの「水沼県主猿大海」が見えるが、上記系譜の誰に当たるのかは不明である。
水間・水沼は三瀦とも書き、もとは筑後国三瀦郡三瀦郷の地で、いま久留米市西部の三瀦町(佐賀利の地名もある)一帯であるから、筑後川を渡って肥前に入り、西に行くと巨勢・佐賀に至り、川の北には三根郡(雄略紀に嶺県主泥麻呂が見える)が位置するから、筑後川下流域の一帯を押さえる県主はみな同祖同族ではないかとみられる事情にある。