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大和と河内の出現期の古墳の特徴 1.主要な土器が庄内式土器であ ること 2.東海系土器が周辺 の遺跡 よ…
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日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条。
五十瓊敷命(いにしきのみこと)が茅渟の菟砥川上宮にいらっしゃって剣一千振を作られた。
よってその剣を名づけて川上部(かはかみのとも)という。またの名を裸伴(あかはだがとも)という。石上神宮に収めた。
こののち、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を管掌させた。
同条の異伝も注記されている。
あわせて十の品部を皇子に授けられた。
春日臣は、平安初期にまとめられた氏族の系統書『新撰姓氏録』に、
大春日朝臣。
孝昭天皇(*第五代天皇)の皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)が出自である。仲臣令(なかのおみ・のり)の家が千金を重ねたので、糟を積んで垣と為した。
その時、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと。仁徳天皇)がその家に行幸され、
詔して、糟垣臣(かすかきのおみ)と名づけられた。後に改めて春日臣となさった。
桓武天皇の延暦二十年に大春日朝臣という姓を賜わった。
とある皇別氏族で、石上神宮社家の物部首はその傍流。
布留宿禰。
柿本朝臣(大春日臣同祖、天足彦国押人命の後)と同祖、天足彦国押人命の七世の孫、
米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。
息子は木事命(こごとのみこと)、
その息子市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇の御世に倭(やまと)に出てきて、
布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を布留村の高庭の地に斎い祀って、市川臣は神主となった。
そのため、臣の姓を失って、物部首となった。
息子の正五位上日向は天武天皇の御世に、社の地の名に依って布留宿禰の姓に改めた。
日向の三世の孫は、邑智(おほち)等である。
2002年10月26日京都府立山城郷土資料館で古代史学の第1人者・門脇禎二氏の講演を拝聴する機会があり、この中で椿井大塚山古墳の被葬者は開化天皇の孫・大筒木垂根王(おおつつきたりねおう)だというという発言があった。古事記の系譜では、大筒木垂根王の娘に垂仁天皇の妃・迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)がいる。又、大筒木垂根王の子か弟と推定される大筒木真若王(おおつつきまわかおう)という人物が出ているが、その大筒木真若王の子に迦迩米雷王(かにめのいかずちおう)、その子に息長宿禰王(おきながすくねおう)、その子に有名な息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)という具合に実在が疑われている人も含めて興味深い人の名が連なっている。
由緒
祭神の豐城入彦命は崇神天皇の皇子であり、その子孫である阿利真公がこの地におり、旱魃に見舞われた際、孝徳天皇の豊崎宮に高樋を通して垂水の水を送ったので、その功を賞して垂水公の姓を賜ったという。 それが祭神を豐城入彦命として由縁であると、『日本の神々3』で小林章氏は記述している。
垂水を詠んだ万葉歌
一一四二 命を幸(さき)くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ
一四一八 石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも(志貴皇子)
三〇二五 石(いは)走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から
千里山を背に何面して鎮座、かっては摂津一の薬水と称えられた清らかな泉からの滝があった。 北大阪の開発の波で地下水脈が隠れ、今ではわずかに千里山からの水が流れているに過ぎないが、修行の場として残っている。
当社は泉を祀る水神として古来より祀られてきたものであろう。神社の境内地の山には、弥生時代の集落遺跡が発掘されている。竪穴住居4棟が調査され、2棟には中央に炉が設けられていた。また高床式住居跡、焼土抗、多数の弥生式土器や石鏃、鉄鏃、石槍などが出ている。古社の中の古社と思われる。
『延喜式』では摂津国豊島郡の名神大社となり、祈雨祭に預かる八十五社の一座、また住吉、丹生川上、貴船、賀茂などの各社とともに朝廷からもたびたび祈雨祈願の要請を受けている。 また、八十島祭にも住吉神、大依羅神、海神、住道神とともに垂水神として幣帛をさずけられている。
このあたりには土着の豪族「垂水君」一族が住んでおりました。
垂水君の祖は、この神社のご祭神・豊城入彦命の四世孫である賀表乃真稚命(かほのまわかのみこと)と伝えられています。
この賀表乃真稚命の六世孫にあたる阿利真公(ありまこう)がお話の主人公です。
時は、 孝徳天皇の御代、
全国的な干ばつが続き、河川も井泉も枯渇してしまいます。
そこで阿利真公は高樋を作って垂水の岡もとから宮中にまで水を導き、
天皇のための飲料水を供給。天皇はその功を賞して「垂水公」の姓を賜り、また垂水神社を司らせました
『新撰姓氏録』より
※豊城入彦命…第10代崇神天皇の皇子
※孝徳天皇…大化の改新のあと、皇極女帝の譲りを受けて皇位につく。
皇極女帝の弟。 中大兄皇子の叔父にあたる。
山城国(別名:山背・山代・開木代等)の南西部(現・京都府南部)を支配した国造は2つ(山背国造・山代国造)あり、北部に山代国造、南部に山背国造が並立したとする説もあるが、1つとする説も多く、一説に定めることが困難なので諸説採り上げることにした。 山背国造は成務天皇(13代)の時代、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の裔孫・曾能振命が山背国造に任じられたことに始まり、山背国を改め山城国と名称が定まったとされる。凡河内氏と同族であり、後裔は摂津広田神社年預家となって現在するという。 山代国造は、神武天皇(1代)の時代、天津彦根命の子で金工鍛冶の神である天目一命(天目一箇命、あめのめひとつのみこと)を山代国造とする伝承、又は九州系の阿多振命(阿多根命)を山代国造に任じたことに始まるとする伝承がある。いずれも山代直(やましろのあたい)の先祖であり、山代(山背)氏、後の山氏に繋がるが、別系として魯の白竜王を祖とする渡来系氏族、火明命を祖とする系統もあるという。
清和源氏頼清流【粟田氏】が豊城入彦命裔若麻積部裔、【大綱氏】が賀表真稚命の裔、
【佐自努氏】【広来津氏】【聟木氏】が大荒田別命の裔、【珍努県主】【葛原氏】が御諸別命の裔、
【軽部氏】が八網田命の裔、【茨木氏】【丹比部氏】が豊城入彦の裔
御諸別命の兄弟が、夏花命(後裔が物部公)
大荒田別命の兄弟が市入別(播磨鴨国造)
それらの古墳群から想定される四つの勢力は、消長を見せながら佐紀古墳群の時代にはほぼ一つにまとまったように見える。
初期ヤマト政権が最初から一つにまとまった強い勢力ではなく、「四群があることは少なくとも四つの小勢力の合同体であったことを意味する。」という考え方もあり、このことは日本書紀が主張するような従来のヤマト政権に対する見方の変更を迫るもの。
前山A地区円墳群
岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)は、和歌山県和歌山市岩橋に所在する古墳時代後期後半の古墳群である。国の特別史跡に指定されている。
概要 編集
紀伊国造集団の関係する古墳群である。約600基の古墳からなり、北方の鳴神地区には花山支群が、南方の岡崎地区には井辺八幡古墳支群がある。また、西方の宮地区には紀国造家が祀る日前神宮・國懸神宮がある。
本古墳群は前方後円墳・円墳・方墳で構成されており、円墳が一番多く、前方後円墳は一パーセントである。 そのうちの一番大きな前方後円墳の天王塚古墳が紀伊国造の紀直(きのあたい)の古墳である。6世紀後半頃に造営されたと考えられ、それより1~2世代を下ると群集墳が造られなくなっている。その後の追葬や祭祀があまり行われていない。しかし、支群の井辺八幡山古墳群中に方墳の井辺1号墳が築造されている。つまり、族長だけがなおしばらく盟主墳的な古墳を造営しており、資料性がきわめて高い。なお、これらの群集墳の造墓は、6世紀末を下限としており、7世紀中葉の大化の薄葬令よりも約半世紀前に終わっている。
埋葬施設としては本古墳群築造の初期から5世紀中頃までは粘土槨(ねんどかく)や箱式石棺が用いられ、5世紀末以降から6世紀前半にかけては竪穴式石室や横穴式石室が造られるようになる。石室に用いられている石材は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、本古墳群周辺で採取される。この石材は板状に剝離できるのが特徴である。板状に割った石材を床面から持ち送りながら積み上げ、石棚や数本の石梁を架構し、天井部は大きな板石で覆う。このような特色のある石室は、紀ノ川流域では紀の川市竹房にある竹房古墳、南側では有田川流域の有田市宮原にある宮原古墳などが分布範囲である。
和歌山市の秋月1号墳
和歌山市太田に所在する、県立向陽高校の敷地内の地下に、和歌山県最古の古墳ともいわれる、秋月1号墳を含む、秋月遺跡が存在する。
本1号墳は、全長約31m・墳長約26.8m・後円径15.5m・前方幅10m・長さ11.3mほどの前方後円墳で、葺石は見つかっていない。
和歌山県で最初の前方後円墳・秋月1号墳は、紀ノ川下流の微高地上に造られた古墳時代前期(4世紀)の古墳。この古墳に近い音浦遺跡では、弥生時代末の大規模な用水路(現在の宮井用水の前身)が発見されている。
紀伊国の“一の宮”(諸国において由緒の深い神社・信仰の篤い神社)とされる日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の由緒は古墳時代にさかのぼると云われが、天照大御神の御鏡・前霊(さきみたま)を日前・國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されていると云う。
日前・国懸神宮が、和歌山平野一帯を潤す宮井用水を奉るものであったと云われているが、宮井用水は今も現役の水路で、昭和の発掘調査では古墳時代の初期のものとされる大溝が発見された。
この水路は幅7~8m・深さ3~5mという巨大なもので、当時、すでに全国のどこにも引けを取らない、大規模な水田開発がなされていたことが証明された。
紀ノ川南岸平野を潤す、宮井用水の古墳時代前期の開発時に、取水口が日前・国懸神社に隣接しており、水利分配を司る神社の要素もあったと云う。
この宮井用水を切り開き、名草平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。今日でも、日前宮には農耕や水にかかわる祀りが多い。
又この時期は、開墾道具や農具の鉄器化が進み、大規模な水田開発が行われた。秋月1号墳に葬られた人物は、大規模水田開発の指導者であったと考えられる。
391年、高句麗の“広開土王碑”が建てられた年には、紀氏は紀ノ川流域に勢力をはり、“紀角宿彌命”(“きのつののすくね”は応神・仁徳朝時代に対朝鮮外交で活躍した紀氏同族の祖)は、朝鮮半島に攻め込んだと云う。
5世紀末には、大阪府泉南市地方の豪族である、“紀小弓宿禰”とその子・“紀生磐宿彌”が新羅を攻めたという記録もあるそうだ。