雄略天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
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雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられて いる。大…

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コメント

  • 武寧王

    書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。

    この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である
  • 雄略は皇位継承資格のある皇子をことごとく殺している。
      「八釣白彦皇子」
      「坂合黒彦皇子」
      「眉輪王」
      「市辺押磐皇子」
      「御馬皇子」
    の五指に達する。

    このうち、「市辺押磐皇子」・「御馬皇子」は前王朝である履中の皇子であり、「眉輪王」は仁徳の皇子で「大草香皇子」の子である。「八釣白彦皇子」・「坂合黒彦皇子」については、雄略の同母兄弟であるのだが、この両名は「眉輪王」に肩入れしていて「眉輪王」とともに殺されている。

    これら五名は仁徳朝直系の皇子であるか、「眉輪王」に心を寄せていた、雄略の兄弟であることになる。
  • 有力だが、悲劇の皇子 大草香皇子は、仁徳天皇の皇子。
    母は日向諸県君牛諸井の娘・髪長媛。「大日下王」「波多ヒ能太郎子」とも書かれる
  • 雄略天皇は、吉備と日向を敵にまわした。
  • 雄略天皇
    死期を悟られた時、『大伴室屋』と先祖の『東漢掬』に、次の2つの事を命じたそうです。

    「自分の死後は、吉備一族とは関係ない
    『葛城韓媛(『雄略天皇』の皇子時代からの妃)』の子『白髪皇子(白髪大倭根子命)
    (白髪武広国押稚日本根子天皇)』を即位させる事。

    その事に対して、『星川皇子』と吉備一族が、
    謀反を起こす可能性があるので、速やかに対処する事。」

    そして、『雄略天皇』崩御後、479年に『星川皇子』が、吉備(現在の岡山県)の豪族:『吉備上道臣田狭』と吉備一族の支援を得て、

    神宝が納められた『斎蔵』、皇室の財物が納められた『内蔵』、政府の財物が納められた『大蔵』を占拠し、『星川皇子の変(乱)』と呼ばれる謀反を起こしました。

    その為、事前に謀反対策をしていた『大伴室屋』と『東漢掬』は、速やかに鎮圧したそうです。

    『星川皇子』の援軍として、吉備一族が、吉備(現在の岡山県)より、40隻の軍船で進軍してきた。

    しかし、予想より早く鎮圧されたため、吉備一族は引き返した。

    そして、吉備一族の領地は、謀反に加担したということで、『ヤマト政権』に没収され、吉備一族の勢力は弱まった。

    そして、『白髪皇子』は即位され、『清寧天皇』になられた。
  • 使主 ねのおみ

    記・紀にみえる豪族。
    坂本臣(おみ)の祖。安康天皇が弟の大泊瀬(おおはつせの)皇子(雄略天皇)の妃に大草香(おおくさかの)皇子の妹草香幡梭姫(くさかのはたひひめの)皇女をむかえようとしたとき,使者として大草香皇子のもとにつかわされる。皇子が拒否したといつわって報告したため,皇子は殺された。のちにこのことが発覚し,雄略天皇に攻めほろぼされたという。「古事記」では根臣。

  •  河内王朝とも言われている仁徳系王朝と異なり、雄略は泊瀬の朝倉の宮、
    現在の奈良県桜井市に拠点を設けている。奈良県桜井市は、崇神天皇が都を定めた磯城とほぼ等しい。

    実は、雄略は「眉倭王」とともに、「坂合黒彦皇子」(さかあいのくろひこのみこ)と「八釣白彦皇子」(やつりしろひこのみこ)をも殺しており、「大草香皇子」も自殺していることから、允恭の皇子として残ったのは、わずかに雄略ただ一人になっていた。

    雄略は、天皇家の外戚として力を握っていた「葛城氏」である「円大臣」と、皇位継承資格を持ったライバル皇族らを倒して皇位に着いたとも言え、それを支えたのは「物部氏」・「大伴氏」であった。
    さらには、安康に皇位を伝えられていた、「市辺押磐皇子」(いちのべのおしわのみこ)をだまし討ちしている。

    皇室内にライバル不在となったものの、ヤマト政権は安泰となったのかと言えば、決してそうではなかったはずである。
    この時代、ヤマト政権と並んで強国であったのは「吉備国」であった。
    「出雲国」・「丹波国」も強国であったが、崇神王朝の頃までにヤマト政権に参加協力しており、対立はしていない。
  • 雄略天皇8年
    「高麗王が新羅に侵入した際、新羅王は任那王に対して、救援を求めた。
    任那王は、日本府の将軍、膳臣、吉備臣、難波吉士に、新羅救援に行かせた」
  • May 2016 編集されました
    「真清探當證」には、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着したとあります。億計王が真清田神社に来たとすれば、油田からはそれほど遠くありません。億計王が油田に至った可能性も否定できず、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により油田に埋葬された話と、当然ながらうまく繋がってきます。

    「真清探當證」によれば、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により大和町妙興寺字油田に埋葬したとされ、青桃丘松降御陵墓の名称が今なお残っているとのこと。そしてこの陵に皇后の春日媛が献灯したため、油田の地名が成立したとされます。持統上皇が東三河行幸の際、上皇に油を献上したので御油の地名が残ったのと似ていますね。

    「日本書紀」によれば、市辺押磐皇子の同母弟である御馬皇子(みまのみこ)が身の危険を察知して、親交のある三輪君身狭(みわのきみむさ)のところに逃げようとしたところ、三輪の磐井で待ち伏せしていた雄略天皇の軍に捕らえられ処刑されています。だとすれば、億計王と弘計王も三輪氏を頼って逃げた可能性があり、三輪氏の拠点である尾張国の美和郷に逃げ込んでもおかしくはありません。
  • 中国からの影響を受けて原三国時代の朝鮮半島で陶質土器の生産がはじまり、半島南部の洛東江流域で生産が盛んにおこなわれ、5世紀の前半には古代に陶邑(すえむら)と称された地域に須恵器生産の技術が伝わったとされる。

     日本書紀の雄略天皇七年に、「百済から手末(てなずえ)の手伎(てひと)来る」という記述があり、また垂仁天皇三年には、新羅系土器の伝播が、崇神天皇七年には、陶邑についての記述が見られる。これらの須恵器は、祭祀に用いられたと考えられ、大和朝廷直轄のもとで作られ、石津川付近に集約され、選別されて大阪湾から大和や各地の豪族などに送られたと考えられている。

     陶邑は、現在の大阪府南部の堺市・和泉市・岸和田市・大阪狭山市にまたがる地域で、現在は陶邑窯跡群という名称がつけられており、1000基を超す窯跡がある。特に信太山の大野池地区には、陶邑窯跡群でも最古の様式の須恵器が出土している(濁り池窯跡、大野西窯跡など)。また窯跡の遺跡地域ごとに信太千塚や陶器千塚などの群集墳が分布しており、須恵器生産に関わった豪族と配下の人々の墳墓と考えられる。
  •  泉北丘陵の周辺では、須恵器生産に関係する遺跡が発見されています。石津川流域では深田橋(ふかだばし)遺跡、陶器川・前田川流域では陶器南(とうきみなみ)遺跡・辻之(つじの)遺跡・田園(たぞの)遺跡があります。これらの遺跡に共通していることは、倉庫と考えられる建物跡や不良品の須恵器がたくさん見つかっていることです。このことから、焼きあがった須恵器を運び込み、良品と不良品に選別した後、倉庫で保管され河川などを利用して出荷する集積・出荷センターの役割があったと考えられています。工房(作業場)としての性格をもつ遺跡は今のところ報告されていませんが、集積・出荷センターの役割のほかに工房を備えていた可能性がある遺跡として石津川流域の大庭寺(おおばでら)遺跡、伏尾(ふせお)遺跡、豊田(とよだ)遺跡などがあります。また、西除川流域の丈六大池(じょうろくおおいけ)遺跡では、100基を越える粘土を採掘した穴が発見されています。こうした遺跡の近くには須恵器生産に関係した首長や集団の長クラスの人たちが葬られたと考えられる湯山(ゆやま)古墳・陶器千塚(とうきせんづか)・牛石(うしいし)古墳群・檜尾塚原(ひのおつかはら)古墳群などがあります。窯や集積・出荷センターと考えられる遺跡は、10から100年という期間でその働きを終えています。
  • 陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は、大阪府堺市中区に所在する神社で、和泉国大鳥郡の式内社。

    須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地に鎮座しており、別名、陶器大宮と呼ばれている。陶器のえびす様として有名で、1月の初戎祭には、技術・製造業・商売にかかわる業者達でにぎわう神社である。

    高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公
    摂社
    戎殿 「八重事代主命」
    弁天社 「市杵嶋姫命」
    山田神社 「活玉依姫命」 (太田田根子命)
    太田神社 「太田々弥古命」 (太田田根子の母)
    玉の緒神社 「天御中主命」
    由緒 編集

    崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田田根子が神主として選ばれた。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社が、当神社である。創建年は崇神8年前後であろうとされている。

    当時大規模な疫病がはやり、国土が荒廃した。ある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせた。
  • 『日本書紀』雄略紀に「高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)、吉備臣小梨(ヲナシ)、難波吉士(キシ)赤目子を勧めて、行きて新羅を救はしむ」とあるが、膳臣斑鳩の墓と想定されるのが福井県の5世紀末の前方後円墳「西塚古墳」である。
    副葬品は、位の高さを象徴する中国製の鏡、武将であることを示す甲冑(カッチュウ)、馬具、そして朝鮮半島製の金の耳飾り。墳丘には吉備(岡山)で作られた埴輪(ハニワ)が出土しており、副葬品から将軍として半島と関係を持ったこと、埴輪から吉備氏族と僚友関係があったことを示している
  • 雄略天皇は凄まじい


    坂合黒彦皇子(サカイノクロヒコ)
    ・生没年:不詳~安康天皇3(456)年
    ・続  柄:(父)允恭天皇、(母)皇后忍坂大仲姫命
    允恭天皇の第二皇子として生まれたが、皇位は弟の安康天皇が継いでいた。しかし、天皇が皇后の連子である眉輪王に殺されると、末弟の稚武皇子(後の雄略天皇)は兄である八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子を疑い武装蜂起した。
    白彦皇子は何も語らなかったため切り殺され、黒彦皇子も稚武皇子に疑われた。黒彦皇子は自らも殺されることを恐れ眉輪王と共に円大臣の宅に逃げ込んだ。大臣は稚武皇子を説得するも憤慨していたため聞き入れられず、黒彦皇子、眉輪王、円大臣は稚武皇子軍に宅ごと焼き殺された。


    この御方、上記の通り三人まとめて焼き殺され、御遺体も見分けがつかなかったため三人一緒に葬られたそうです。それがこの場所であり、日本書紀には「新漢(イマキ)の槻本の南の丘に葬った。」と記されています。

  • 波多の八代宿禰(ヤシロノスクネ)

     大日下王という名前は、日下(くさか)という土地に住んでいたことに由来するものです。そして、その別名は波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)とされているので、じつは波多の八代宿禰の子だったらしいのです。
     波多の八代宿禰という人物は、品陀和気(ホムダワケ)(応神天皇2)の治世3年(西暦374年)に、百済に派遣された一人とされています。そしてその支配地は、熊本県の八代郡だったのです。
     だから大日下王は、あの八田若郎女(ヤタノワキイラツメ、じつはハタノワキイラツメ)とは、おそらく母を異にする、姉弟にあたると思われます。
     八田若郎女はもともと、伝統王族の宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)の妃として、伊邪本和気(イザホワケ)(履中天皇)をもうけた女性です。子供のなかった大雀(仁徳天皇)はその伊邪本和気を養子にし、太子(ひつぎのみこ)とします。そして後には、その母親だった八田若郎女も、自分の妃にしてしまったのです。
     古事記によると大雀の治世中に、大日下王とその妹の若日下部王(ワカクサカベノミコ)のための御名代(みなしろ)として、それぞれ大日下部と若日下部が定められたということです。だから、おそらく波多の八代宿禰の逝去後に、その二人が大雀の養子になったと思われます。そこにはもちろん、異母姉にあたる八田若郎女の力添えがあったことでしょう。
  • January 2017 編集されました
    長日比売(ナガヒヒメ)

    大日下王と若日下部王の別名の、波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)と波多毘能若郎女(ハタビノワキイラツメ)は、「波多(ハタ)」という名前に「毘(ビ)」が加えられた形になっています。そして「毘(ビ)」のほうは、その兄妹の母親にあたる人物の名前に由来すると思われるのです。
     その母親の候補としては、若日下部王のもう一つの別名とされている長日比売(ナガヒヒメ)があります。その人物の出自は不明ですが、名前は日向との関係を推測させるものです。
     そして、その名前の「日(ヒ)」の部分が、「波多」のうしろにつけ加えられたわけです。しかし、長日比売は「日売」とは書かれていないので、皇統下にあるとは見なされていないことがわかります。そのため古事記は、「波多日」を「波多毘」と書いたのでしょう。

    年齢

     西暦437年に水歯別(ミヅハワケ)(反正天皇)が逝去したとき、大日下王は後継候補の一人でした。しかし、その年齢がまだ若いという理由で、郡卿は男浅津間(ヲアサヅマ)(允恭天皇)を擁立することにします。
     大雀(仁徳天皇)が逝去したのは西暦427年ですから、水歯別が逝去した437年には、大日下王はすくなくとも11歳にはなっていたはずなのです。
     したがって、穴穂御子(アナホノミコ)(安康天皇)の治世1年(西暦460年)に逝去したとき、大日下王は34歳以上の年齢だったことになります。

    若日下王(ワカクサカノミコ)

     大日下王の悲運の物語は、王位を獲得した穴穂御子(安康天皇)が、大日下王の妹の若日下部王を、弟の大長谷(オホハツセ)(雄略天皇)の妃として迎えようとするところから始まります。
     しかし、大日下王が逝去したときの年齢が34歳以上だったのですから、その妹とされる若日下部王はじつは、大長谷(雄略天皇)の妃になる若日下部王とは別人だったらしいのです。なにしろ大長谷はこのとき、まだ15歳にすぎなかったのですから。
     大長谷の妃になったとされる若日下部王というのは、じつは大日下王の娘で、その名前が若日下王(ワカクサカノミコ)と呼ばれていたようなのです。
     だから記紀では、若日下部王と若日下王の二人を混同して、同一人物としてしまったわけです。

    長田大郎女(ナガタノオホイラツメ)

     穴穂御子(安康天皇)は根臣の讒言を信じて、大日下王を殺してしまいます。そして、その娘の若日下王を大長谷(雄略天皇)に配し、大日下王の妃だった長田大郎女を自分の妃とします。
     長田大郎女はじつは意富本杼王(オホホドノミコ)の娘で、穴穂御子によって倒された木梨(キナシ)の軽太子(カルノヒツギノミコ)の、妹にあたる人物でした。つまり、その血統が皇統にあると見なされていた、伝統王族に属していたのです。だからこそ、皇統下にはないと見なされていた穴穂御子にとっては、じぶんの妃とするのにふさわしい女性だったわけです。

    ーーー

    日向の諸県の君の牛諸の娘 髪長比賣(かみながひめ)を妻としての、生んだ御子は波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)またの名は大日下王(おおくさかのみこと)、次に波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)またの名は長日比賣命(ながひひめのみこと)またの名は若日下部命(わかくさかべのみこと)の二柱じゃった。

    また大君の腹違いの妹の八田若郎女(やたのわきいらつめ)を妻にしたのじゃった。また腹違いの妹の宇遅能若郎女(うじのわきいらつめ)も妻にしたのじゃったが、このおふた方には御子は生まれなかった。
    その数を数えると、大鷦鷯命の大君の御子は合せて六柱での。男の子は五柱、女の子は一柱じゃった。そこで大江之伊邪本和気命が後を継いで天下を治めたのじゃ。(第17代履中天皇)次いで蝮ノ水歯別命が天下を治め(第18代反正天皇)次いで男浅津間若子宿禰命が天下を治めた(第19代允恭天皇)のでの、三柱の御子が相次いで天下を治めたということになる。
  • May 2018 編集されました
    身狭村主青は雄略天皇の寵臣で、『日本書紀』は雄略天皇8年(464年)と雄略天皇12年(468年)に呉の国(宋)に派遣されたと記す。しかし、この遣使の記事は「宋書」には記述されていない。

    牟佐坐神社
    奈良県橿原市にある神社である。式内大社で、旧社格は村社。
    所在地
    奈良県橿原市見瀬町718
    主祭神 高皇産霊神 孝元天皇

    『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事代主神と身狭社に居る生霊神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。その結果、大海人皇子の即位後、身狭坐生霊神に史上初となる神位が授けられている。延喜式神名帳では大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。
    旧社格は村社に列した。

    創建 安康天皇年代(454年~456年)

    『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事代主神と身狭社に居る生霊神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。その結果、大海人皇子の即位後、身狭坐生霊神に史上初となる神位が授けられている。延喜式神名帳では大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。

    孝元天皇の宮跡にあたる牟佐坐神社(奈良県橿原市見瀬町)の禰宜も宮道氏
  • 壬申の乱で大海人皇子側についた大友吹負は、6月29日に奈良盆地の南部、飛鳥の倭京で挙兵し、4日に北の及楽山で敗れてから、金綱井で敗兵を収容していた。同じ頃、盆地の西でも分遣隊が敗れ、北と西で優勢な敵を受けて不利にあった

    『日本書紀』によれば、金綱井にいたとき、高市郡大領高市県主許梅が突然口を閉ざし、ものを言えなくなった。3日後に許梅に神が着いて次のように言った。「吾は高市社にいる事代主である。また、身狭社にいる生霊神である。」「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」「吾は皇御孫命(天皇、この場合は大海人皇子)の前後に立って不破まで送り奉ってから還った。今また官軍の中に発ってこれを守護する。」「西道より軍衆が至ろうとしている。警戒せよ。」言い終わってから醒めた。そこでおそらく吹負が、許梅を神武天皇の陵にやって馬と兵器を奉った。また、幣を捧げて高市、身狭の両社の神を祭った。このあとで壱伎韓国が大坂(生駒山地を通過する道の一つ)から来た。人々は「二社の神が教えた言葉がこれだ」と言った。
  • 阿知使主(あちのおみ)・加使主(つかのおみ)父子の伝承として『日本書紀』は次の
    ように記しています。

     「(応神天皇)三十七年の春二月の戌午の朔日に、阿知使主・都加使主を呉に遣わして、
    縫工女を求めた。阿知使主らは高麗国を通って呉に行こうと考えた。そうして高麗国に
    入ったがその先の道程はわからなかった。そこで高麗の宮廷に案内人を付けてくれる請願
    したところ、高麗王は久礼波(くれは)・久礼志のふたりを案内人として副えてくれた。
     このおかげで呉に至ることができた。
     呉王は求めに応じ、工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あな
    はとり)の、四人の婦女を与えた」

     この四人の工女については『日本書紀』の中に異伝がふたつ載せられています。
     そのうちのひとつが『日本書紀』の応神天皇四十一年の記事としてある、次のようなもの
    です。

     「阿知使主らは呉より筑紫に至った。この時、胸形大神(宗像大社の祭神)が工女を求める
    神託があったので、兄姫を胸形大神に奉った。すなわち今筑紫にいる御使君(みつかい君)
    の始祖である。
     そうして三人の工女をつれえ摂津国の武庫(むこ)まで来たときに天皇が薨去した、
     そこで大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に三人の工女を献上した。この工女たちの子孫が呉衣縫
    (くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)の始祖である」

     さらに、『日本書紀』の雄略天皇十二年の記事には、身狭村主青(むさのすぐりあお。もしくは、
    むさのすぐりおう)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉に遣わした、とあり、
    雄略天皇十四年の記事には、その身狭村主青らが、呉の使者と漢織・呉織・兄媛・弟媛を
    つれて住吉津に帰国した、とあります。
     その後については次のように記されています。

     「衣縫の兄媛を大三輪の神に奉る。弟媛を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とする。漢織・
    呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の祖である」

     なお、この時身狭村主青らがつれてきた呉の人々を接待する席が設けられ、その責任者に
    選ばれたのが根使主だったのです。
     ところが根使主はこの席で大日下王から横領した玉縵を身に付けていたために、かつての
    悪事が露見してしまうのです。

     さて、『日本書紀』では、「応神紀」、「雄略紀」ともに、呉から日本に来た工女は四人と伝え、
    その名も「応神紀」が兄媛・弟媛・呉織・穴織、「雄略紀」が兄媛・弟媛・呉織・漢織と、ほぼ一致
    します。
     また兄媛が「応神紀」では宗像大神に、「雄略紀」では三輪山の神に捧げられたとあるのも
    似通っています。

    そうすると、「応神紀」と「雄略紀」に記された記事は元々同一の伝承だったと思われます。
  • 宮道氏(みやじし)は、日本の氏族の一つ。発祥地は三河国宝飯郡宮道郷ともいう。諸説あるが、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする物部守屋の後裔ともいう。山城国宇治郡を本拠とした宿禰(すくね)姓(かばね)の宮道氏が知られていた。平安時代、835年、宮道吉備麻呂、宮道吉備継らが朝臣姓を

    山科神社(駒札)

    日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)を祀る。  社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。  盛時には、社領を丹波、山城に持ち、社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は、三間社流造の本殿及び権殿、拝殿、神庫などが残っている。  また、元禄14、5年(1701~02)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して、大願成就を祈ったといわれている。  例祭は、「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。山科区西野山岩ヶ谷町
  • 【市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)】

    父: 履中帝
    母: 葦田宿禰の娘 黒媛(記では黒比売命)
       
    市辺押磐皇子は履中帝の第一皇子で、
    安康帝の後継者と目されていたらしい。
    「播磨国風土記」では『市辺天皇命』と表記され、
    即位していた可能性があるとも言われている。
    市辺押磐皇子は本人もさることながら、
    記紀のメルフェンのように語られる物語の主人公、
    億計(おけ)王、弘計(をけ)王の父親として知られる。

    日本書紀では、雄略即位前紀冬十月、
    雄略帝は、先帝の安康帝が市辺押磐皇子を
    後継者にしようとしているのを恨んで、
    皇子を猪鹿狩りに誘い出して弓で射殺してしまう。
    古事記ではさらにリアルな描写になっている。
    市辺押磐皇子(記では市邊忍歯王)は猪鹿がたくさんいると聞いて
    淡海の久多綿の蚊屋野に出向き、
    仮宮で一泊した後、翌朝早く起きて狩りに出た。
    行く道のついでに雄略帝(記では大長谷王)の仮宮に立ち寄り、
    「まだ寝てるのか。早くしなさい。もう夜は明けたぞ。」
    と声をかけた。
    その声のかけ方が気に入らないと言って、
    雄略帝は馬で追いかけて、追いつくと弓矢で市辺押磐皇子を射殺してしまった。
    さらに皇子の死体を切り刻んで馬の飼い葉桶に入れて、
    塚も作らずに埋めてしまった。
    この話を聞いた市辺押磐皇子の息子の億計(おけ)王、弘計(をけ)王は
    難が自分たちに及ぶことを恐れて播磨国へ逃げて行った。

    一般的に、後に即位する皇子が対立する相手を滅ぼすときは、
    相手に謀反の罪をかぶせたり、武装蜂起させるように仕向けたりして、
    攻撃の大義名分を作り、自らの行為を正当化するのが通例だが、
    雄略帝にはそのような気配は全くない。
    日本書紀では、何の罪もない相手を誘い出して射殺している。
    古事記では、声のかけ方が気に入らないと言ってやはり射殺している。
    王位を争っているという様相ではなく、単なる殺人事件でしかない。
    雄略帝は徳の無い天皇として描かれているように思える。

    殺害された市辺押磐皇子の息子の億計(おけ)王、弘計(をけ)王は
    後に二人とも天皇位についているが、
    天皇の息子でない皇子が即位することは滅多にないことだし、、
    二人も即位したケースは異例中の異例といえる。

    徳を失った天皇の後の異例の即位、(間に清寧帝が入ってはいるが)
    ここでも王朝交代があった気配が感じられる。

    即位を約束されていた市辺押磐皇子のあっけない死は、
    記紀では億計(おけ)王、弘計(をけ)王の物語の序章として描かれている。
  • この後のことです。淡海(オウミ)の佐佐紀山君(ササキヤマノキミ)の祖先で名前を韓帒(カラフクロ)が言いました。
    「淡海の久多綿之蚊屋野(クタワタノカヤノ=滋賀県愛知郡秦荘町上蚊野)にはたくさんの猪鹿(シシ=獣全般を指す)がいます。その立った足は(猪鹿が沢山いるから足も沢山あって)荻原(ウハギハラ=荻?林?)のようです。角は枯松(カラマツ)のようです」
    このときに(大長谷王は)市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)と一緒に淡海に行っていて、その野に到着すると各々で違う仮宮を作って宿としました。

    明くる朝のこと、まだ日が出ていない時に忍歯王(オシハノミコ)は穏やかな心で馬に乗りながら、大長谷王(オオハツセノミコ)の仮宮のそばに行って立ち、その大長谷王の御伴人(ミトモヒト=従者・お伴の人)に詔しました。
    「まだ目を覚ましていないのか。早く言いなさい。夜はすでに明け終わった。狩り庭に行こう」
    すぐに馬を進めて出て行きました。その大長谷王の御所に仕えている人たちは言いました。
    「宇多弖(ウタテ=極端なことを言って気に入らない)な物言いをする王子だ。慎むべきだ。また、身を堅めるべきです(=武装するべき)」
    すぐに大長谷王は衣の中に甲(ヨロイ)を着て、弓矢を取り、腰に佩(ハ=武器を身につけること)いて、馬に乗り出て行って、たちまちの間に馬で追いついて並んで矢を抜いて忍歯王(オシハノキミ)を射て(馬から)落として、すぐにその身を切り、馬樎(ウマフネ=飼い葉桶)に入れて、地面の高さにして埋めました。
  • 穂皇子は即位して安康天皇に。
    安康天皇の暗殺
    大日下王(オオクサカノミコ)の妹の若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷王子(オオハツセノミコ=後の雄略天皇)と結婚させようと、使者として根臣を送る。大日下王は快諾し、結納品として押木玉鬘(オシキノタマカズラ)を渡す。しかし、根臣はその押木玉鬘を盗み、天皇に
    「『わたしの妹を、同列の氏族の下働きにできるか』 と断られた」と報告した。安康天皇は大日下王を殺害。大日下王の妻の長田大郎女(ナガタノオオイラツメ=安康天皇の同腹妹)を安康天皇の皇后とした。安康天皇は大日下王と長田大郎女の間に生まれていた目弱王(マヨワノキミ)に殺される。
    目弱王(マヨワノキミ)は安康天皇殺害後に都夫良意富美(ツブラオオミ)の家に逃げ込んだ。
    大長谷王子の暴走
    大長谷王子は殺害のことを聞くと、対応の遅い兄の黒日子王(クロヒコノミコ)と白日子王(シロヒコノミコ)を殺害。大長谷王子は都夫良意富美の家を取り囲み、都夫良意富美の娘の訶良比売(カラヒメ)を娶る約束をし、都夫良意富美と目弱王を自害へと追い込んだ。
    市辺忍歯王の殺害
    大長谷王子は市辺忍歯王を久多綿之蚊屋野(クタワタノカヤノ)に誘い出し、狩の途中で言いがかりをつけて市辺忍歯王を殺害した。
    意祁王・袁祁王の逃避行
    市辺忍歯王の子供の意祁王・袁祁王が逃亡。針間国の志自牟(シジム)の家で、馬飼・牛飼として仕えた。
  • 10/07編集されました
    泊瀬の朝倉

    内外に示した強大な力が『古事記』『日本書紀』に語られる雄略天皇は、「泊瀬の朝倉」で即位し宮を定めたとある。文献からは桜井市黒崎または岩坂が宮の候補地とされてきた。ここに浮上したのが脇本地区だ。
    埼玉・稲荷山古墳出土の大刀銘は、ワカタケルが「斯鬼(しき)宮」にいたと記す。ワカタケルは雄略天皇のこと。シキは磯城地域のことで、このあたり一帯を指す。
    さて脇本では発掘調査の結果、縄文晩期〜飛鳥・奈良時代にいたる複合遺跡が明らかになった。5世紀後半の建物跡などはまさに「朝倉宮」を想起させる。
    東国への入口にあった倭王武・雄略天皇の宮跡には今、田畑が広がるばかり。兵どもが夢の跡、だ。
    桜井市脇本(春日神社前)

    十二柱神社
    境内に当地の地名・出雲にゆかりの野見宿禰(のみのすくね)の墓と伝えられる鎌倉時代の五輪塔が立つ。祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)など天神七代、国神五代の十二座。
    本殿向かって右に武烈天皇社が鎮座する。当社は小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)天皇こと武烈天皇の泊瀬列城(はつせのなみき・『古事記』では長谷之列木と書く)宮伝承地だ。
    小泊瀬は雄略天皇の名・大泊瀬と対になる。どちらも暴君として悪名を馳せたが、『日本書紀』に克明に描かれた武烈天皇の残虐性は限度を越える。住宅街に鎮座する静かなたたずまいからは、そんな悪夢は微塵も感じられない。
    桜井市出雲
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