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橘は、常世国の非時香果である。 タチバナは、ミカン科ミカン属で柑橘類の一種である。別名はヤマトタチバナとも言う…
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三書のうち、『丹後国風土記』「逸文」と『日本書紀』の二書が、説話成立を「長谷朝倉宮御宇天皇」つまり「雄略天皇」の治世としており、その時代に馬養は生まれてはいない。
水野氏は「『丹後国風土記』に、浦嶼子伝説の筆録者として、その氏名を明記されている伊預部馬養連は、往事の国守であり、彼が記録した浦嶼子伝説は、風土記の編纂の際、時の国司が国内での伝承者にあたってみたところ、相異するところがなかったので、そのまま馬養の記述を借用して成文したと述べられている。この伝説が、和銅時代よりもっと古くから丹後国の与謝郡内の浦々の浦人たちの間に、民間伝承として伝えられていたことと、馬養がそれに興味をもって、伝承者の語るところを記録していたということが推定できるし、また馬養の記録が、後になって改めて伝承者の伝承と照合してみても、誤りがなかったということは、馬養が相当文筆に熟達し、漢字・漢文学の知識に通達した人物であったことを思わせるものがある」(p66)としている。
689年6月、撰善言司に任命されている(『日本書紀』「持統紀」3年(689年)6月2日条)。撰善言司については、書物編纂官という見方がなされている。水野氏は「『善言』という題目の書を編纂するために、新たに設置された官司として任用されたというのであるが、その『善言』というのは何かというと、中国の南朝の宋の范泰が編纂したといわれる、『古今善言』三十巻にならって、わが国の物語や、中国古典の中から、古来の「善言」を集成しようというものであるらしく思われる」(p68)という見解を示している。いずれにしても、その役職の果たすべき使命として、軽皇子(後の文武天皇)の教育に資するということが挙げられよう。水野氏は「いわば皇太子に対する帝王学教育のテキストの編纂ということであるから、これは国家としてはきわめて重要な仕事である。そういう仕事に馬養が抜擢されて、編纂者の一員として任命されたのであるから、持統朝において早くも彼は漢学の素養に頭角を現わしていたものと推定される」(p68)と触れている。
また、書物編纂に関わるという意味でいえば、この職務が、国史編纂事業にも資するという目的をも担っていた可能性は高いと思われる。
馬養は皇太子学士に拝命されてもいる。水野氏は、馬養が皇太子学士として任ぜられていた期間について「持統天皇の五年(691年)頃から、軽皇太子が即位する持統十年(696年)まで、五、六年間ほどその職にあったと思われる」(p70)と推論している。皇位継承を嘱望された軽皇子の教育係としての重責が課せられていた。該博な学識はもちろんのこと、優れた人格が高く評価されていたのであろう。軽皇子の祖母である持統天皇と、皇子の母・阿閇皇女(後の元明天皇)等の信任は厚かったであろう。
馬養は「大宝律令」撰定作業にも加わっている(『続日本紀』文武4年6月17日条)。彼は中国の律令制度・法体系などにも通じていたのであろう。当時、彼は従五位下(「直広肆」)であった。「大宝律令」は大宝元年8月3日に完成をみた。この功績によって、馬養は禄を賜わっている。
馬養が書いた漢詩が『懐風藻』に収載されている
六部郷は、「和名抄」丹波国天田郡十郷の1つ。高山寺本・刊本とも訓を欠く。六人部氏の居住地であろうとされる。郷名として六部が見えるのは当地だけである。
向日神社の宮司であった六人部是香という国学者、坂本龍馬を何度もかくまったという尊皇攘夷派の人が知られるが、六人部氏は古代氏族で、ムトベ・ムトリベ、同族に三富部(ミトベ)がある。六人部(身人部)の氏名は、部としての六人部、もしくはその伴造氏族であったことにもとづくという。連姓・無姓の氏族もあり、諸国に分布する。
『新撰姓氏録』山城国神別に「六人部連。火明命之後也」、「伊福部。同上」「石作。同上」「三富部。同上」
河内国神別に「身人部連。火明命之後也」
摂津国神別に「六人部連。同神五世孫建刀米命之後也」
無姓の六人部氏は、『新撰姓氏録』右京神別下に「六人部。同上(火明命五世孫武礪目命之後也)」とみえる、ほかにも美濃・伊勢・越前・紀伊・讃岐の諸国にも、その存在が知られるという。
「建刀米命」=「武礪目命」は丹後海部氏系図にはない、天忍人命の子で早く分かれた別系統になるようであるが、古くを言えば火明命系尾張氏一族同士ということになる。大きく言えば葛城系氏族の裔で、近くの宗部や雀部とは近い関係になる。
川上の旧三和町菟原下鎮座の梅田神社は、中央に紀氏の先祖と春日大明神、左側に恵美須大明神(西宮大明神)を祀っている。三和町から峠を越えた兵庫県南丹地区にかけては、紀氏の祖先を祀る梅田神社の信仰が厚いと言われるが、この紀氏も葛城氏と古くからの同族である。
これらとは別に、和泉国諸蕃に「六人部連。百済公同祖。酒王之後也」とあり、渡来系の六人部氏も見られる。
ことがこの記述から窺えることである。なぜなら、本人が帰ってきているという前提がなければ、物 語は記されないはずだからである。本人が帰還し、自らの身に起きたことと蓬莱での出来事を語らな ければ(語ったという前提がなければ)、物語は結末を迎えず完成しない。
書物としての成立は 720 年に完成した『日本書紀』よりも後ではあるが、『万葉集』巻 9 の 1740 番 歌に高橋虫麻呂による浦島子を詠んだ歌が収録されている。この長歌には帰還した浦島子が玉手箱開 封後に急速に老化して亡くなる描写があり、虫麻呂の時代には「浦島の物語」が成立していて、現在 最もよく知られている老化の後に死亡する結末も存在していたことがわかる。虫麻呂は万葉集巻 6 に
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天平4(732)年に詠んだ歌が収録されており 、『日本書紀』の成立時期と歌人としての活動時期が重
なっている。 浦島子が向かう先は蓬莱山ではなく「常世」となっていて、仙女は「わたつみの神の女」と表現さ
れており、言葉の選び方は和歌と『古事記』的な古代物語の世界を背景とした長歌に見える。「浦島 の物語」が海幸山幸物語と共通する海底世界訪問譚の 1 つであり、一見すると日本土着の伝承されて きた伝説が背景にある物語だと認識できてしまう。だがこの長歌については『遊仙窟』などの神仙思 想の影響が指摘されてきており、慎重な判断が求められる。
同時代には『釈日本紀』所引の『丹後国風土記』逸文にも「浦島の物語」が記録されている。この 『丹後国風土記』が和銅 6(713)年の官命を受けて書かれたものであるなら、遅くとも 8 世紀には成 立していたと推定され、『日本書紀』が編纂される頃には蓬莱への渡航とそこからの帰還までを語っ た物語内容が固まっていたことは間違いないだろう。さらにここに記録された「浦島の物語」の冒頭 には、「こは旧宰、伊預部の馬養の連の記せるに相乖くことなし。故、所由の旨を略陳べむとす」4と いう一文があり、風土記が編纂された時点ですでに伊預部馬養による「浦島の物語」が存在していた ことを主張しているのである。むろん逸文という性格上、これが間違いなく 8 世紀に編纂された風土 記の内容とは言い切れない。しかしながら逸文が記録される以前の段階で、伊預部馬養による「浦島 の物語」の存在が、現物はともかく知識として伝わっていた可能性までは否定できない。
『日本書紀』には浦島子の帰還が記されていないが、『丹後国風土記』逸文には帰還までのおおよ その年数が記されている。浦島子の質問に里人が「今に三百余歳を経しに何にそ忽にこを問ふや」と 答えていて、浦島子が蓬莱から帰還するまで、現実世界では 300 年以上が経過している設定になって いる。これより前に「旧俗を遺れ仙都に遊び、既に三歳のほどを逕ぬ」とあるので、現実世界の時間 経過は仙境の 100 倍という認識である。
興味深いことに浦島子が蓬莱へ渡ったのは雄略天皇の時代(長谷の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の御代)とされており、少なくとも浦島子が雄略天皇の時代の人物という認識は早い時期に固ま っていたようである。『日本書紀』で浦島子が蓬莱に渡った年は雄略天皇の 22 年と記録されているが、 これを機械的に西暦に直すと 478 年である。この 300 年後となると、778 年、宝亀 9 年である。現実 の歴史に照らし合わせるなら、称徳天皇崩御後に即位した光仁天皇の時代で、皇后の井上内親王と皇 太子他戸親王が幽閉されて死去した 3 年後にあたる。むろん「三百余歳」はあくまで「浦島の物語」 を書き記した人物が、雄略天皇の時代を約 300 年昔と捉えていたことの証左となりうるだけで、正確 な年数を表しているわけではない。『丹後国風土記』の逸文が、風土記編纂の官命を受けて書かれた 内容であるなら、遅くとも和銅 6(713)年前後に伊預部馬養による「浦島の物語」は成立していたと みるべきだろう。
この雄略天皇の時代に蓬莱へ渡り、300 年ほどで帰還したという設定は後代の史書にも引き継がれ る。次に浦島子が史書に登場するのは『水鏡』で、鎌倉時代初頭の成立とされる。こちらには天長 2 (825)年に浦島子が帰ってきたという記述があり、雄略天皇の御代から 347 年たって帰還したと記 述されている。つまり、『水鏡』が記す浦島子帰還の時期は『日本書紀』成立よりも 100 年以上後の こととされているのである。そして雄略天皇 22 年(478 年)から 347 年後は確かに天長 2(825)年 であり、正確な年数表記とともに歴史上に位置づけられている
天香語山命ー天村雲命ー天忍人命ー天戸目命ー建斗米命-健宇那比命-健諸隅命
建斗米命【先代旧事本紀】(たけとめのみこと)
建刀米命【新撰姓氏録】(たけとめのみこと)
武礪目命【新撰姓氏録】(たけとめのみこと)
後裔は左京湯母竹田連、右京尾張連、右京伊与部いよべ・右京六人部、右京子部こべ・摂津国六人部連
父 天戸目命【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
母 葛木避姫【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
先祖 天戸目命 天忍人命天村雲命 阿俾良依姫 角屋姫 葛木避姫
配偶者 中名草姫【天孫本紀】
子
建田背命【天孫本紀】【母:中名草姫なかつなくさひめ】
建宇那比命【天孫本紀】【母:中名草姫】
建多乎利命(武田折命)【天孫本紀, 新撰姓氏録 第二帙 第十三巻 左京神別下 天孫 湯母竹田連条】【母:中名草姫】
建弥阿久良命【天孫本紀】【母:中名草姫】
建麻利尼命【天孫本紀】【母:中名草姫】
建手和邇命【天孫本紀】【母:中名草姫】
宇那比姫命【天孫本紀】【母:中名草姫】
建斗米命は、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造らの祖とされていますから、その末裔が丹波・但馬に大きく勢力を伸ばしたことは明らかです。
面白いことに、建斗米命の子・ 武田背命(建田背命)も、孫・建諸隅命も、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造らの祖とされています。
「丹後国熊野郡誌」には「海士の地は、往古、神服連・海部直を居住地にして、館跡を六宮廻(ろくのまわり)と云う。海部直は、丹後國造・但馬國造の祖にして、<扶桑略記>にも、丹波國熊野郡川上庄海部里爲二國府一とあり、されば、海部直の祖たる建田背命及其御子・武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の存ずる所」(矢田神社)とあります。
矢田神社(京丹後市久美浜町海士)式内社 丹後國 熊野郡
第8代には海部直命と倭得玉彦命とが登場します。この頃、原物部は発展的に分かれ、尾張氏と物部氏の流れが固まっていくように見受けられます。これも別項でじっくり見ていきたいところです。
(7) 六人部ムトベ連は丹波国天田郡に拠点を置く
「尾張氏の系譜」(天孫本紀)には、妙斗米命は、六人部連らの祖とされています。
「新撰姓氏録」でも、右京(神別・天孫)武礪目命(火明命五世孫)の後(末裔) に六人部、摂津国(神別・天孫)に建刀米命(火明命五世孫)の後(末裔) に六人部連、山城国にも六人部あり、です。
・同族:尾張連・伊福部・石作(石作連)・水主直・三富部・伊与部・摂津・津守宿祢(尾張宿祢同祖)・蝮部・刑部首等を挙げています。
武礪目命は建斗米命・建刀米命と同音ですので、同一人でしょう。尾張氏系譜では建斗米命と妙斗米命との二人を挙げ、妙斗米命を六人部連の祖としていますが、古伝承ですから、大まかに「良し」とします。
六部郷は、「倭名類従抄」丹波国天田郡十郷の一つで、六人部氏の居住地だったと推定されます。郷名として六部が見えるのは当地だけだそうです。
・天田郡六部郷:福知山市の土師川流域、六人部谷の一帯(長田・多保市・岩間・大内・田野・宮・岩崎・生野・三俣・堀越・正後寺・ 板室・池田・上野・萩原)と考えられている。この地域は江戸期は、六人部下三箇と呼んだ。土師川上流域(三和町域)を六人部上四箇と呼び、上四箇の地域も古代の六部郷に含まれていたと思われる。
(出所)丹後の地名
・福知山市多保市付近は平安期から地名・六人部が遺っており、「六部」の遺称地は1955年4月1日に福知山市に合併される迄、
上六人部村、中六人部村、下六人部村として存続していた。 (出所)古墳と神社
・現代地図に見る六人部:福知山市立六人部中学校・福知山市立下六人部小学校・福知山中六人部(郵便)局・中六人部保育園
土師川流域は、河内降臨に向かう天火明命集団が川舟に乗り、南下通過した可能性がある地域で、「六人部谷」とも云われていたようです。
後世、天田郡六部郷に、天火明命の末裔の「六人部連」が展開していたことは興味を惹きます。天火明命の河内降臨以前に、既に、この土師川流域の重要性が判っており、この地に天火明命の勢力が及んでいた可能性があり、但馬から河内への降臨経路の一候補に土師川流域ルートが指摘出来る