倭国の大乱、吉備と出雲

January 2020 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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後漢書「東夷伝」に 「後漢の桓帝・霊帝時代(147~189)に倭国は大いに乱れ,互いに戦い,何年もの間,主とな…

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コメント

  • January 2020 編集されました
    大倭王

    卑弥呼は共立されて王になり邪馬台国に国都を置いたのだ。そうであれば、高天ヶ原の元来の神はタカミムスビということになる。タカミムスビが大倭であれば大倭は元来の邪馬台国王ということになる。『後漢書』倭伝には次のようにある。

    倭在韓東南大海中。依山島爲居。凡百余国。自武帝滅朝鮮。使譯通於漢者。三十許国。国皆称王。世世伝統。其大倭王居邪馬台国

    武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置すると倭の30ばかりの国が漢と接触するようになるが、その大倭王は邪馬台国に居るとある。この大倭王が卑弥呼でないことは明らかで、別天つ神の最初の天之御中主神を大倭王と見て、タカミムスヒを倭人伝の大倭とすると辻褄が合ってくる。

    戸数七万の邪馬台国は幾つかの部族国家が統合されたものだと考えられるが、イザナギは那珂(筑前の住吉海人)海人族の国の王だった。大倭もそうした部族国家時代の邪馬台国の王の家系であることが考えられる。

    —-
    漢書と後漢書の記述を纏めると、次の様になります。

    「倭の地には100以上の小国が分立し、(個別か集ってかは分からないが)時々、衛氏朝鮮に使節を派遣していた」
    (衛氏朝鮮は戦国時代の燕国の末裔が建国しているので、前漢からすれば中国扱いです)

    「紀元前108年、前漢武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、その故地に楽浪郡を含む四郡を設置した」


    「その時点で倭に存在する小国は30程度に減り、それらが前108年以降、代替わり毎に、楽浪郡に遣使した」
    (楽浪郡が倭の外交窓口、通常はそこで事務処理します)


    この後に漸く、「大倭王」が登場します。


    「大倭王」は、「倭の諸王の中の王」と言う意味になります

    中国は過去の例に義理堅く、国家連合(一種の連邦国家)の政体を採用し、尚且つ盟主的存在の国家がある場合は、この様な表記を用います。

    裏を返せば、当時の倭は、大倭王を盟主とする連邦国家で、その盟主国が「邪馬台国」だと記述しているのです。


    それでは、大倭王が統べる邪馬台国が、盟主的存在となったのは何時か、前108年の段階では別途、楽浪郡に朝貢していますから、それ以降、そもそも後漢書は紀元25年から同220年までが記録範囲ですから、どんなに早くとも紀元25年です。


    紀元50年頃ではないかと推測されます、盟主国としての邪馬台国の出現は、抜きん出た存在としての大倭王の誕生は。
    その傍証が、紀元57年の倭奴国の朝貢、奴国は北九州の地域国家でしたが、大倭王と邪馬台国の圧力が増しつつある情勢を憂い、賭けに出ます
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