国生み、大八洲、天族

December 2019 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image国生み、大八洲、天族

天つ神に言問いをして誤りを正し、島々が次々に生まれた。  1.淡道の穂の狭別島…淡路島  2.伊予の二名島(伊…

Read the full story here


コメント

  • 古事記に
    伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の夫婦神が淡路や伊予、筑紫などの大八州に続いて六つの島を国生みし、その六島の二番目に「小豆島(あづきしま)」別名「大野手比売(おおぬでひめ)」を国生みしたとあります。

    また日本書紀によると、応神天皇は、皇妃兄媛(えひめ)が吉備の国へ里帰りするに際し、難波から出帆する舟を高台から見送りながら瀬戸の島々を望み見て「阿波施辞摩(あわじしま)・弥二並び阿豆枳辞摩(いやふたならびあづきじま)・・」と詠んだとあります。

    小豆島のことです。

     日本書紀によると、応神天皇は淡路島に狩りに行き、ついで吉備の国に行ったとあります。
    さらに、阿豆枳辞摩(あづきしま)で「あそびたもう」て、吉備の葦守宮に入ったそうです。
    応神天皇の小豆島行幸に関する伝説は、島内のあちこちに残されています。

     応神天皇が小豆島を遊幸したコースは、

    四海の伊喜末(いきすえ)(現在の土庄港の北方)に上陸
    渕崎の塩土山(富丘)に登った
    しるしの森で柏樹をお手植えし
    「伊喜末」の地名は、天皇が鷹尾山に登り息をすえて休息したことから“息すえ”と呼ばれる
    お手植えした柏樹が宝生院(ほうしょういん)のシンパクだそうです。

    また、池田半坂で小豆島の島魂神(しまたまがみ)である大野手比売(おおぬでひめ)を祀っています。
    島魂神を祀った場所は、現在の孔雀園に向かう道の途中にある道を、10mほど上ったところ
    その後、小豆島の人たちの手によって、銚子渓お猿の国の頂上に大野手比売神社として、
    次いで、星ヶ城の山頂に阿豆枳島神社として移され、今に至っています。

    池田半坂で島魂神を祀った後、海路で西村へ向かい、水木に
    その後、苗羽の馬目木山(馬木)、草壁の神懸山(寒霞渓)に登りました。

    寒霞渓は、応神天皇が岩角や樹に鉤(かぎ)を懸けて登ったことから“かんかけ”と呼ばれるようになったと言われています。

    その後、橘(たちばな)から船に乗り吉備に向かいましたが、風雨のため福田(ふくだ)に避難した、
    ということです。「橘」の地名は浜に立ったことから“立ち浜”と呼ばれるようになったそうです。
    また、「福田」の地名は稲で屋根をふいた行宮(あんぐう)で休んだことから“葺田(ふきた)”と呼ばれるようになったといいます。

     「小豆島八幡宮五社由来記」に

    塩土山(富丘)は、応神天皇巡幸の跡地と伝え
    その際、同じく巡幸の跡地4ヶ所へも八幡神社を勧請し、これら五社の八幡神社を「小豆島五社」と称している、とあります。
    この伝説の地に応神天皇ゆかりの五社の八幡神社、
    すなわち
    「塩土山」に富丘八幡神社、
    「池田の里」に亀山八幡神社、
    「内ノ海の里」に亀甲山八幡神社、
    「葺田の森」に葺田八幡神社、
    「伊喜末」に伊喜末八幡神社

    が祭られたと伝えられています。
  • December 2019 編集されました
    何故か、建日方別

    イザナギ、イザナミの二柱が生んだ島の一つに、「生吉備児島。亦名謂建日方別」と書かれている吉備の児島があります。ここに見られる“建日方別”というのは文字通り「吉備の児島」の別名です。神様ではありません。人では、勿論、ありません。

    それを神様として神格を与えて、お祭してあるのが吉備津神社にあるあの岩山宮です。此処の御神体はと言っても、元々は神様ではないのですから本当はないのでしょうが、神官の話によりますと大きな岩をご神体としてお祭しているのだそうです。


      吉備津彦と建日方別は記紀上では全く関わりないが、吉備津神社に祀られていることから、吉備津彦(or温羅)が瀬戸内海の制海権(児島が拠点)に深く関わっていたことが伺われる。
    吉備津彦神社にも、建日方別命を祀る岩山神社(石祠)が遺っている。

     そんな意味でも、まことに不思議な社なのです。是も吉備津神社七不思議の一つに数えられそうです。
    ーー

    本国総社神名帳の国津神社。

    山本氏本に従五位下国津明神と記してある旧杜である。古事記に「然後還座之時生吉備児島亦名謂建日方別」とある。古伝のまま国魂建日方別命と称して斎き祭っている。往古は神嶺の絶頂に御鎮座であったが、現在はこの山麓の陸という所に御鎮座になっている。
  • 肥国…令制国の肥前と肥後北部を併せた領域。
    亦の名を一般には「建日向・日豊久士比泥別」と区切り、日向国が入り込んでいる―と解釈するが、

    私見では「建日に向かい、日豊かなる奇日(久士比)の根(泥)分け(別)」とし、建日すなわち熊曽国に相対しており、神霊の豊かな大王の分国―と解釈する。
  • December 2019 編集されました
    天忍男???? 地名が見つからない

    天忍男の父が、天村雲命。

    天五多底。天五多手。
    =天村雲命 また天五田根(あめのいたね)、 天五多手(あまのいたて)とも。
    タカクラシタとユリ姫 (イスキヨリ姫) の子。 
    アメオシヲの父。
      

    新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦、彌彦神社摂社、武呉 (タケクレ) 神社
    香川県高松市一宮町、田村 (タムラ) 神社
    徳島県吉野川市山川町村雲、天村雲 (アメノムラクモ) 神社
    京都府城陽市水主宮馬場、水主 (ミズシ) 神社

    天村雲(天牟良雲)は父の天香語山と共に、饒速日の東遷(185年頃)に従って、大和国にやって来た。天村雲の子孫は伊勢に移り、度会氏(わたらいし)となり、伊勢神宮外宮の神主を世襲した。
     天村雲神社が徳島県吉野川市山川町村雲133と山川町流32に二社鎮座している。

     天香語山は大和国から尾張国に行き尾張国の基礎を造り、越国まで行って開拓した。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2)に祀られ、奥の宮に妃神の塾穂屋姫命(うましほやひめのみこと)と共に埋葬された。
     祭神の天香語山命(伊夜比古大神)は越後国開拓の祖神として信仰されており、神体山の弥彦山(634m)に奥の宮(神廟)がある。

  • 「大島」は、瀬戸内海に位置する、周防国の大島(山口県大島郡周防大島町の屋代島)に比定されている。この島は、『万葉集』の天平八年六月の遣新羅使の歌に、「周防国玖河郡の麻里布の浦を行く時に」詠んだ歌「筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ」(15・3634)、また「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に」詠んだ歌として「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」(15・3638)があり、瀬戸内海航路上の重要な寄港地であった。他に、同じく瀬戸内海の芸予諸島の大三島に比定する説もある。
     大多麻流別の名義は、「多麻流」を「溜る」に解して、瀬戸内海の鳴門の渦潮を乗り切るために、多くの船舶が集まり留まることから「大溜る」といったかとする説や、「多麻流」を船の停泊の意に取り、同じく渦潮を乗り切るのにこの島に船を停泊させたことによるかとする説、また、水が大いに溜まる港湾の様子を表したものかとする説がある。
     神名の「麻」字には上声の声注が附されているが、音仮名に附された声注の働きは、音調の表示によって読者の理解を一定の方向に導くものとする説があり、ここは、「多麻」を「玉」に解するのでなく「多麻流」ひとまとまりで「溜る」の意に解すべきことを示しているとする説がある。

    大島は、『古事記』の伝および『先代旧事本紀』の二種の伝では大八島に含まれていないが、一方で、『日本書紀』四段本書・一書六・九では、大八島の一つに大島が誕生しており、一書一・七・八・十には誕生自体が語られていない。『日本書紀』の諸伝のうち、大島が大八島の一つとして誕生しているものは、淡路島が「胞」となって大八島から除外されている伝であることが指摘されていて、大島が大八島に編入された原因は、そうして除かれた淡路島の分、一島を新たに加えて大八島の島数を八に合せるためとする説がある。伝承成立の前後関係としては、『日本書紀』で、大島が大八島として誕生する伝は、大島の誕生が語られない伝よりも新しいものとし、さらに、そこからやがて大島が大八島にふさわしくないと見なされるようになった結果、『古事記』『先代旧事本紀』の、大島が大八島に含まれずに誕生する伝が発生したとする説がある。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。