銅鐸鋳型、坩堝など

09/25編集されました カテゴリ: 出土品/交易

コメント

  • 2017年6月5日に、南あわじ市より松帆銅鐸の付着植物遺体の放射性炭素年代測定調査について評価がありました。4号銅鐸は測定結果は紀元前4世紀から紀元前2世紀のものとなり、年代にある程度まとまりが認められ、従来想定されてきた使用から埋納までの期間がより短くなる可能性があります。過去の銅鐸は実年代を決定できる要素を伴っておらず、松帆銅鐸が埋納されるときに入ったと考えられる遺体植物の年代は、重要なデータとなりました。

    松帆銅鐸の鐸7点と、舌7点に使用された青銅の発光分光分析と鉛同位体比分析の調査を実施して測定結果が明らかになりました。ICP分析結果により、松帆銅鐸の青銅の成分が、銅70%~81%、錫10%~16%、鉛4~18%でした。古い銅鐸の青銅の成分比率と類似していました。

    鉛同位体比分析の結果により、松帆銅鐸の鐸と舌は朝鮮半島産の鉛がしようされていることがわかりました。3次元計測結果と実物比較から、舌4号と舌7号が同じ鋳型から鋳造されていることがわかりました。

    2018年6月27日に、南あわじ市より松帆銅鐸の鐸7点と、舌7点に使用された青銅の発光分光分析と鉛同位体比分析の調査について評価がありました。

    古い型式の銅鐸には錫と鉛が多く含まれていました。新しい型式の銅鐸には、銅の比率が高くなり、錫・鉛が10%以下になる傾向がありました。松帆銅鐸では錫と鉛の比率が比較的高く、古い銅鐸と似た成分比率となりました。

    鉛同位体比が朝鮮半島産の領域に収まり、鐸と舌が一体で出土したことから、松帆銅鐸の鐸と舌が近接した時期に採掘された鉛で鋳造された可能性が高くなりました。

    松帆銅鐸が朝鮮半島産の鉛を使用していることは、同時期の他遺跡出土の菱環鈕式・外縁付鈕1式銅鐸の鉛同位体比分析の結果とも一致しています。

    島根県荒神谷出土の菱環鈕式・外縁付鈕1式銅鐸の鉛は、朝鮮半島産の領域に含まれいます。それ以降の新しい銅鐸は中国前漢鏡の領域となることが従来の研究で判明しています。

    全国で12点の青銅の舌が発見されているが、舌の同じ鋳型から鋳造された兄弟舌が発見されたのは全国で初めてとなります。2号銅鐸と4号銅鐸と7号銅鐸の鐸と舌が近似した時期に、同一の工人集団によってセットで製作された可能性が高くなりました。

    松帆銅鐸の発見は、世紀の大発見として国宝級の資料とされています。銅鐸が舌を伴った状態で確認できたのは全国で初めてとなります。紐の発見は全国で初めてとなります。松帆銅鐸の発見により、銅鐸に舌を紐で吊り下げて使用していたことが証明されました。

    松帆銅鐸は、島根県の加茂岩倉銅鐸や荒神谷銅鐸と同じ鋳型から鋳造された兄弟銅鐸であることが判明しました。松帆銅鐸に付着した植物遺体の放射性炭素年代測定調査から、紀元前4世紀から紀元前2世紀のものと判明しました。

    松帆銅鐸の青銅の発光分光分析と鉛同位体比分析では、古い型式の銅鐸の成分比率と似ていました。朝鮮半島産の鉛が使用されていることが判明しました。松帆銅鐸が朝鮮半島産の鉛を使用していた結果は、兄弟銅鐸である島根県の荒神谷銅鐸の菱環鈕式・外縁付鈕1式銅鐸の鉛同位体比分析の結果とも一致しています。

    鐸と舌が一体で出土したことから、松帆銅鐸の鐸と舌が近接した時期に採掘された鉛で鋳造された可能性が高くなりました。

    これまで、日本最古の書物となる「古事記」では、淡路島は国生み神話で最初に誕生した島として、出雲は国譲り神話で大国主が国を譲った場所として有名でした。神話では日本の国家形成に重要な位置を占めていました
  • 奈良の大仏の銅を献上した長登銅山
    長登には「奈良の大仏の銅を献上したので、奈良上りが なまって長登(ながのぼり)になった。」という地名伝 説が伝えられていましたが、古文書に長登銅山を示す資 料は全く見当たらず、信憑性のない伝説とされてきまし た。ところが、昭和47年9月美東町史編纂の調査で、長登 字大切の山中から数編の須恵器が採集され、長登銅山跡 が古代に遡る日本最古の銅山であることが判明。また、 化学分析の結果、奈良の大仏創建時の材銅は長登銅山産 であったことが明らかとなり、伝説が実証されました。
  • 10/14編集されました
    日本で初めて銅 が使われたのは紀元前300年頃(弥生時代)といわれています。日本における銅の歴史は、中国大陸から渡来したもので、当時は北九州を中心に銅剣・銅鉾・ 銅鏡など青銅器文明が栄え、その後、東日本に向けて広まっていきました。国内で銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年)で、因幡国(鳥取県) から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられています。また708年(慶雲5年)に武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)がつくられ、年号も和銅と改められたとなっています。最近、7世紀後半の飛鳥池遺跡から発見された「富本銭」はその鋳造が700年以前に遡ることが確認された他、遺跡からの溶銅の大 量出土は7世紀後半の産銅量が既に一定の水準に達していたことを物語っています。

    中国では、紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて甘粛省や青海省といった黄河最上流部に栄えた馬家窯文化において青銅の物品が発見されており、この時期に青銅器時代に移行したと考えられている。その後、黄河中下流域に栄えた龍山文化や二里頭文化を経て、紀元前1600年頃には二里岡文化に代表される中国最古の王朝である殷(商)が成立した。殷代の青銅器は、饕餮(トウテツ)文と呼ばれる複雑な文様が青銅器の表面に鋳造されていることで知られる。その後周代を経てから春秋時代(紀元前770年〜紀元前400年ごろ)までが青銅器時代に相当し、鼎に代表されるさまざまな特異な青銅器が生まれた。こうした青銅器の表面にはしばしば文字が鋳造されるか刻まれ、金文と呼ばれて貴重な資料となっている。

    石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。サハラ砂漠以南のアフリカにおいても青銅器時代は存在せず、銅の使用自体も鉄器伝来後、しかも装身具などわずかな使用にとどまっていた
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