飛鳥、明日香

09/20編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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飛鳥は現在の奈良県高市郡の明日香村付近一帯と考えて間違いはないだが、この飛鳥という地名が実は二ヶ所存在する。 …

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コメント

  • 『日本逸史』の天長6年(829)3月10日条に、『日本紀略』を引用した次の記事が載せられている。

       大和国高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社が、神の宅宣に依り、同郡同郷の鳥形山に遷された。

    飛鳥甘南備山の神とは、飛鳥大神の賀夜奈流美命である。その社は、「飛鳥社」と呼ばれていた。
    この社が遷された鳥形山は、飛鳥寺から北東へ300m程の距離にある小高い丘であり、現在、飛鳥坐神社が鎮座している。
    ここを、『延喜式』神名帳高市郡に載せられた名神大社の飛鳥坐神社(四座)に比定して、間違いないだろう。
    「鳥形山」は飛鳥寺の【寺号】ともなっており、この地と飛鳥寺の深い繋がりが窺える。
    なぜ、「甘南備山」から飛鳥寺近くの「鳥形山」へ遷せ、という神託が下されたのか?
    そもそも「飛鳥社」が在った飛鳥の甘南備山とは何処だったのか・・・その答えがヒントになるかもしれない。

    ここからは、飛鳥寺創建 に関わる話をしたい。

    『日本書紀』の崇峻天皇元年(588)是歳条に、次の記事がある。

       飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊ちて、始めて法興寺を作る。此の地を飛鳥の眞神原と名く。亦は苫田と名く。

    この読み下し文は、岩波日本古典文学大系『日本書紀 下』による。「名く」は、「名づく」と読ませている。
    私は、同意できない。文法上はともかく、「此の地の名は、飛鳥の眞神原。亦の名は、飛鳥の苫田。」と読みたい。
    この記事は、法興寺を造ったことに由って、この地を「眞神原」と名づけた事を意味しない。何故なら、わざわざ、みすぼらしい「苫田」などと名づける筈もないからである。
    元からこの地が「眞神原」であり、「苫田」という地名でもあったということであろう。
    同じ『日本書紀』の雄略天皇7年(463)是歳条に、

        是に由りて、天皇、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命せて、新漢陶部高貴・鞍部竪貴・畫部因斯羅我・錦部
       定安那錦・譯語卯安那等を、上桃原・下桃原・眞神原の三所に遷し居らしむ。
        或る本に云はく、吉備臣弟君、百済より還りて、漢手人部 ・衣縫部 ・宍人部を献るといふ。

    ここに「眞神原」の文字が登場する。
    新漢陶部高貴・鞍部竪貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らは、百済の献れる「今来の才伎たち」である。
    彼等は最終的に、上桃原・下桃原・眞神原の三ヶ所に分かれて住まわされたという。
    後に法興寺(飛鳥寺)が造られる場所が、雄略天皇の時代、既に「眞神原」と呼ばれていた可能性がある。
  • 飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である
  • 飛鳥寺は奈良県高市郡明日香村にあり、安居院と云われている。飛鳥寺は法 興寺であり、また元興寺でもあるという。岩波書店の『 日本書紀』の「補注」 は次のように書いている。
    飛鳥の地につくられた寺であるので飛鳥寺とよばれ、法号で法興寺 とも元興寺ともよばれた。 岩波書店『 日本書紀』補注
    大和の飛鳥に創建されたので「飛鳥寺」というとある。また「飛鳥寺=法興 寺=元興寺」であるという。これが歴史学や考古学の常識になつている
  • 09/20編集されました
    『 日本書紀』は蘇我馬子が法興寺を創建したと書いている。いわゆる「蘇我 氏と物部氏の争い」の時である。
    ■ (崇峻)即位前紀 (587年)七月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子 と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る。 (中略)蘇 我 馬 子 大 臣 、 又 誓 い を 発 し て 言 う 、 「 凡 そ 諸 天 王 。大 神 王 等 、 我
    を助け衛りて利益を獲しめたまはば願はくは営 (まさ)に諸天と 大神王との奉為 (ため)に寺塔を起立 (た)てて三宝を流通 (つ)たへむ」 という。 (中略)ここに述見首赤梼 (いちひ)、 (物 部守屋)大連を枝の下に射堕し、大連ならびに其の子等を誅す。 (中 略)蘇我大臣、亦本願に依り飛鳥の地に法興寺を起 (た)つ。

    ■ (崇峻)元年 (588年)是歳、飛鳥衣縫造の家を壊して始めて
    法興寺を作る。此の地を飛鳥の真神原と名づく。亦飛鳥の苫田と 名づく。

    「飛鳥」は「大和の飛 鳥」であると解釈して、「法興寺」は大和の飛鳥に建立されたので「飛鳥寺」ともいう。これが「飛鳥寺=法興寺」説である。
  • 09/20編集されました
    皇極四年 (645年)六月、中大兄、密かに倉山田麻呂臣に、蘇 我入鹿を斬る謀を陳べる。 (中 略)天皇、大極殿に御す。 (中略) 中大兄、佐伯子麻呂等と共に剣を以て入鹿の頭 。肩を傷つけ割る。
    (中略)佐伯子麻呂・稚犬養連網田、入鹿を斬る。 (中略)中大兄、 即ち法興寺に入り、城と為し、而して備える。 『 日本書紀』
    中大兄皇子は蘇我入鹿を伐ち、「法興寺に入り、城と為し、而して備える」 とある。中大兄皇子は蘇我入鹿を伐つと蘇我一族が反撃してくるのに対戦する ために「法興寺に入り、城として備えて」いる。蘇我氏と戦うために法興寺に
    入つている。 法興寺が蘇我氏の氏寺であるならば中大兄皇子は蘇我入鹿を伐って蘇我氏
    の氏寺に入るはずがない。法興寺が「蘇我氏の氏寺」というのは疑わしい。

    天智天皇は近江へ遷都 した後に病気にな る。その平癒を願い法興寺に祈願する。
    (天智)十年 (671年)九月、天皇、寝疾不豫。 (或る本に云う、 人月、天皇疾病。)
    十月、是月、天皇、使いを遣わし袈裟 。金鉢 。象牙 。沈水香 。施檀 香、及び諸珍財を法興寺の仏に奉る。 『 日本書紀』
    「671年 9月」に天智天皇は疾病する。「10月」に天智天皇は「使いを 遣わし袈裟・金鉢・象牙・沈水香・施檀香、及び諸珍財を法興寺の仏に奉る」
    とある。

    天智天皇は法興 寺に命乞いをしている。二ヶ月後の「671年 12月 」に崩御する。天智天皇は法興 寺に命乞いをしている。法興寺は天智天皇にとつてもっとも重要な寺であるこ
    とがわかる
    法興寺は天智天皇にとつてもっとも重要な寺であることがわかる。
    中大兄皇子 (天智天皇)は蘇我氏と戦うために法興寺に入り、備えている。
    「法興寺」は天智天皇家の寺ではないだろうか。
  • 09/20編集されました
    上宮法皇は実在の人物である。上宮法皇は「法隆寺金 堂の釈迦三尊像の光背銘」に出てくる。
    ○法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘
    ■ 法興元二十一年、歳次辛巳 (621年)十二月、鬼前太后崩ず。
    ■明年 (622年)正月二十二日、上宮法皇枕病して念 (よ)からず。
    ■干食王后、例りて以て労疾し、並びに床に著く。
    ■ 時に王后・王子等、及び諸臣と深く愁毒を懐き、共に相発願す。
    仰いで三宝に依 り、当に釈像尺寸の王身を造る。此の願いの力を
    蒙り、病を転じ、寿を延ばし、世間に安住されんことを。 (中略)
    ■二月二十一日、王后、即世す。
    ■翌日(二月二十二日)、 法皇、登週す。
    ■癸未年 (623年)二月中、願の如く釈迦尊像井びに侠侍及び荘
    厳の具を造り寛 (おわ)る。 (中略)
    ■使司馬鞍作止利仏師造る。
    (銘文概要を箇条書にした)

    「釈迦三尊像」は上宮法皇の病気平癒を祈願して造られている。それが法隆 寺金堂の中心に安置されている。法隆寺は「上宮法皇」を祀る寺である。
  • 09/20編集されました
    「法隆寺は聖徳太子の寺である」 といわれている。 しか し聖徳太子が建立 し たのは「斑鳩寺」である。法隆寺ではない。法隆寺は前述のように「623年3月」に完成している。
    聖徳太子は「621年 2月」に死去している。法隆寺は聖徳太子が死去した
    後に造られている。法隆寺は聖徳太子が造った寺ではない。 一般には「上宮法皇=聖徳太子」と解釈しているが間違いであろう。
  • 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。
  • 『日本書紀』は厩戸皇子 (上宮太子、聖徳太子)の死を「621年2月5日」と明記している。
    (推古)二十九年 (621年)二月五日、半夜に厩戸豊聰耳皇子命、
    斑鳩官に莞 (みまか)る。

    『 日本書紀』
    「厩戸豊聰耳皇子命」は厩戸皇子であり、聖徳太子である。 「621年 2月 5日」に莞去している。
    これは史実であろう。厩戸皇子 (聖徳太子)の師である高麗の僧慧慈 (え じ) はその死を聞いて「我、来年の二月五日を以て必ず死なむ」と言っている。
    (推古)二十九年 (621年)二月、是月、上宮太子を磯長陵に葬す。 是の時にあたりて高麗の僧慧慈は上宮皇太子の莞 (みまか)るを聞 いて大いに悲じむ。皇太子のために僧を請い設斎 (おがみ)す。例
    りて親 (みずか)ら経を説く日に誓願して曰く、「日本国に聖人有 り。上宮豊聰耳皇子と日う。 (中略)今太子既に莞る。我、国を異 にすると雖も心は断金 (友情が厚いことをいう)に在り。其れ独り 生きるとも何の益あらむ。我、来年の二月五日を以て必ず死なむ。 (後略)」 という。是に慧慈、期日 (二月五日)に死す。是を以て時 人の彼も此も共に言う、「其れ独り上宮太子のみ聖 (ひじり)に非ず。慧慈も亦聖なり。」という。 『 日本書紀』
    慧慈は「595年」に日本に来て、聖徳太子の師となり、完成したばかりの 「法興寺」に住み、 「615年」に高麗国に帰つている。
  • 09/20編集されました
    「法興」年号について

     「法興」年号は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』や『伊予国風土記逸文』『長光寺縁起』『上宮法王帝説』『聖徳太子傳私記』『太子像胎内納入文書』他に残る(後に詳述)。
     こうした資料では、「法興」は法興元世・法興元とも書かれ、その元年は辛亥(五九一)で崇峻四年にあたり、末年は三二年壬午(六二二)で推古三〇年となる。以降は仁王元年癸未(六二三)~十二年甲午(六三四)に続く。
     そして「法興」は『二中歴』他に記す九州年号「端政」から「倭京」までと以下の通り重複する。

    ■『二中歴』(  )は筆者注。
    (1).端政 五(年間・元年)己酉(五八九~五九三) (細注)自唐法華経始渡
    (2).告貴 七 甲寅  (五九四~六〇〇)
    (3).願転 四 辛酉  (六〇一~六〇四)
    (4).光元 六 乙丑  (六〇五~六一〇)
    (5).定居 七 辛未  (六一一~六一七) (細注)注文五十具従唐渡
    (6).倭京 五 戊寅  (六一八~六二二) (細注)二年難波天王寺聖徳造


    「聖徳」年号について 

     「聖徳」年号は『海東諸国記』『襲国偽僭考』『麗気記私抄』『茅[窗/心]漫録』『如是院年代記』や諸寺社の縁起等に広く記されている(後述)。これら資料によると聖徳は「聖聴・正徳・聴徳・宗朝・聖暦」とも書かれ、聖徳三年辛卯(六三一年『園城寺伝記』他)、聖徳六年甲午(六三四年『役行者本記』他)とあるから、元年は己丑(六二九)舒明元年で、末年は六年甲午(六三四)舒明六年となる。以降僧要元年乙未(六三五)~五年己亥(六三九)に続く。
         [窗/心]は、窗の下に心。JIS第3水準ユニコード7ABB

     この年号も『二中歴』の仁王と重複する。
    (7).仁王 十二 癸未(六二三~六三四) (細注)自唐仁王経渡仁王会始
  • 09/20編集されました
    押坂彦人大兄皇子

    敏達天皇の第一皇子として誕生。母は息長真手王の娘・広姫。

    蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えない。ただし、その後も非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。

    『延喜式』諸陵寮には「成相墓(ならひのはか)。押坂彦人大兄皇子。在大和国廣瀬郡。兆域東西廿五町。南北廿町。守戸五烟」とあり、記載のとおりとすればその規模は現在日本最大の大仙陵古墳(同じく『延喜式』に「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」とある)の10倍以上の広さがあったことになる。墓陵には現在の奈良県広陵町の牧野古墳を推定する研究がある。

    忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている
  • 09/20編集されました
    斑鳩寺
    姫路とたつの市にはさまれた太子町に位置する聖徳太子開基の天台宗寺院です 。法隆寺の荘園「鵤荘」(いかるがのしょう)があり、法隆寺創建から、一千年弱にわたり、法隆寺を経済的に支えてきました。現在は比叡山を本山にする天台宗の寺院です
    斑鳩寺は聖徳太子が天皇のために勝鬢経を講讃すると、天皇は大いに喜ばれ、播磨国の水田百町を太子に賜った。
    太子は大和国斑鳩宮よりこの地に足を運ばれ、斑鳩荘と名付けられて伽藍を営まれた。
    これがこの斑鳩寺である。
    仁王門を入ると正面に講堂、左側に聖徳殿、右側に三重塔がある。

    斑鳩寺の歴史

    聖徳太子が建てられた1400年の歴史をもつ寺院です。
    推古天皇十四年(六〇六)秋七月、聖徳太子は推古天皇のため、豊浦宮で勝鬘經のお話をされました。三日かかったといわれます。その夜、蓮華の花がその地に降りしいたと伝えられます。この年また太子は法華経のお話も岡本宮でされました。推古天皇は、たいへん慶ばれ、播磨国揖保の郡に於いて、水田百町を太子にさし上げました。聖徳太子はこの地を「鵤莊」(いかるがのしょう)と名付けられ、一つの伽藍を建てられました。これが播州斑鳩寺の始まりです。往古には、七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べ、真に華麗を極めていたが、天文十年(一五四一)尼子政久氏の播磨侵入後の混乱の中惜しくも堂塔尽く焼失をしてしまいます。その後篠山円勝寺(現たつの市)の昌仙法師により漸次再建されました。再建後天台宗となりました。

    法隆寺の別名
    飛鳥時代に聖徳太子が創建したとされる法隆寺(奈良県斑鳩(いかるが)町)の別名「鵤(いかるが)寺」が墨書された奈良時代(8世紀)の土器が見つかり18日、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が発表した。鵤寺の表記は文献にはみられるが、考古資料で見つかったのは初めて。同館で19日から開かれる速報展で公開される。

     同寺塔頭(たっちゅう)北室院の庫裏(くり)新築に伴う調査で出土。奈良時代に僧らが使った食器と考えられる土器の底部分に「鵤寺」と墨書されていた。

     法隆寺については、日本書紀推古14(606)年の記述に「斑鳩寺」の文字が登場。創建の由来などを記した「法隆寺伽藍(がらん)縁起并流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)」には鵤寺の表記がみられるが、考古資料で鵤寺の文字が見つかったのは今回が初めて。

     橿考研付属博物館は「当時は鵤寺と呼ばれていたことがわかる資料だ」としている。
    ーー
    「いかるが」、この奇妙で好奇心を沸き立たせるような響き、気になって調べてみた。
    それは鵤(いかる)という鳥に由来しているらしい。鵤は斑鳩(まだらばと)のことで、全長23㎝くらい。体は灰色で、頭・翼・尾羽は紺色で嘴は太くて黄色だそうだ。さえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから三光鳥ともいう。斑鳩の里は山裾には菩薩池、片野池、天満池、その他大小多数の池があって、中には仏教説話の舞台になっている池もあり、水のある風景も楽しめる。日本の国の黎明期に大きな役割を演じた聖徳太子もこの地に住み、この風景を見ていたのだ。
     太子は推古13年(605)、この地に斑鳩宮(いかるがのみや)を造営して飛鳥から移り住んだ。この地は龍田道と当麻道が交差しており、また、大阪湾に流れ込む大和川が流れていて飛鳥、難波、当麻を結ぶ交通の要衝というべきところである。
     太子がこの地を選んだのはそれだけの理由ではない。蘇我氏の影響力から逃れようとしたことと積極的に政治に関わろうという意思の現れからではないだろうか
  • 法隆寺の創建
    草創については法隆寺金堂の東ノ間に安置されている薬師如来の光背銘に以下の記述がある。『天の下治しめしし天皇(用明天皇)が自らの病気の平癒を願って寺の建設を誓願したが、その実現を見ないまま薨去された。
    その意志を継いで推古15年(607)に寺を完成させたのが大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)・・・』
     ところが「日本書紀」には推古14年(606)、『播磨国水田百町を斑鳩寺に納めた』との記述があり、また「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」にはこの『水田の施入を推古6年(598)のこと』と記載されており、さらには前述薬師如来の光背銘については「天皇」という当時まだ使用されていない称号が使用されていることもあって、後世の造作といわれるに至っては確信を持って創建時期を言いきることはできない。
     法隆寺や聖徳太子に関しては他にも奇説、珍説があって興味が尽きない。例えば梅原猛氏の著書「隠された十字架」では中門の中央に柱があることや、太子の化身である救世観音の頭部に釘が打ち込まれている事を取り上げ、聖徳太子の怨念を封じ込めるための寺だという。
     また、聖徳太子についても中部大学の大山誠一氏は『聖徳太子と日本人』の中で、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」、「天寿国繍帳」、「伊予国湯岡碑文」等の矛盾点を取り上げ、太子架空人物説を主張されている
  • 09/20編集されました
    三井の地名、法輪寺

    斑鳩の里でも北方の三井(みい)の地にあり、地名から三井寺ともよばれている。三井の地名は、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地に移したことに始まるらしい。
     創建については、推古30年(622)、聖徳太子が病気になった折、長子の山背大兄王が病気平癒を願って建立した(『寺家縁起』)というものと、天智9年(670)の法隆寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が協力して造寺した(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)というものがある。

    斑鳩の地
    地名の由来や正確な範囲については不明とされているが、法隆寺を中心とした矢田丘陵の南部・富雄川右岸(西側)地域を指して呼ばれることが多い。

    用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)は、父の遺命により法隆寺を建立するとともに、推古天皇9年(602年)には斑鳩宮を造営した。同12年(605年)に聖徳太子は斑鳩宮に移り住み、その2年後には法隆寺(斑鳩寺)が完成した。ただし、この時に建てられた法隆寺は今日「若草伽藍」と呼ばれる仏教遺跡で、現在の法隆寺は7世紀後期から8世紀初頭に再建されたものとする説が有力である。また、法隆寺の近くにある中宮寺も、元々は聖徳太子あるいはその母で用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女が建立した尼寺(鵤尼寺)であったと言われている。斑鳩は大和川に近く、また河内や飛鳥方面とも街道でつながった交通の要所であった。このため、聖徳太子の一族(上宮王家)は斑鳩周辺に拠点を構えたと考えられている。聖徳太子は斑鳩宮で没し、その子山背大兄王が皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿によって攻め滅ぼされるまで、斑鳩は上宮王家の拠点として栄えた。その後も太子信仰の高まりとともに、多くの人々がこの地を訪れるようになった。
  • 09/20編集されました
    「旧事本紀」に播磨国の国造として明石・鴨・ 播磨が記載されているが、直木孝次郎「古代王権と播磨」によれば「鴨国造は佐伯直(さえきのあたい)であったらしい」。豪族の勢力がいかに強かったかを物語る話として、安康天皇が暗殺された後の内乱の際、履中天皇と葛城之曾都毘古の孫娘・黒媛の皇子の履中天皇の長男・市辺之忍歯王(いちのへのおしはのおおきみ) (皇位継承争いで先の允恭天皇の皇子で安康天皇の弟の雄略天皇に殺される)と葛城系の夷媛との間に生まれた「億計・弘計」の両皇子が播磨地方に難を避けて、雄略天皇の死後、播磨地方の勢力、特に葛城 氏の支援を受けて天皇に就いている(顕宗・仁賢天皇)

    讃岐の佐伯のエリアにも三井の地名がある。

    「風土記」に豊国村の記述がある。「豊国と号虎 くる所以は、筑紫の豊国(豊前・豊後)の神、此處に在す。 故、豊国の村と号虎く」。豊前には秦王国があったといわれており、豊前の国の秦氏族が祭祀した新羅神は、田川郡香春町にある香春神社である。辛国息長大姫大目命を祭神としている。香春岳には秦氏が銅の生産に携わった場所として知られており、弥生時代から古墳時代における青銅器に使用され ていたといわれている。「豊前国風土記」には「昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて此の河原に住みき」とあり、太宝二年の戸籍によれば、三百人を越える秦部と二十氏近い勝姓者が確認されている。奈良の正倉院にある大宝二年(七〇二)の「豊前国戸籍台帳」によれば、その総人口の九三%ま でが秦系氏族であったといわれている。播磨国豊前村は豊前の国の秦氏族の人々が播磨国に移住して、そこに豊前国を造 ったということであろう。播磨地方には渡来人の中でも新羅系(或いは伽羅・加那地方系)といわれている秦氏が多い。 秦氏は古代の日本における最大の氏族で、その分布は九州から四国、中国、京都盆地や近江地方・摂津の豊島郡をはじめ 北陸・東海・関東地方などに分かれて住んでいたらしい。
  • 大臣などの推移

    大化元年~五年(645~649)孝徳
          左大臣 安倍倉梯麻呂  (五年三月没)巨勢徳陀(五年4月~)
          右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(五年三月自殺)大伴長徳(五年4月~)
          内臣  中臣鎌子

    白雉元年~五年(650~654)孝徳
          左大臣 巨勢徳陀
          右大臣 大伴長徳(~三年7月没)
          内臣  中臣鎌子 *紫冠を授け、封をます

    斉明元年~七年(655~661)斉明
          左大臣 巨勢徳陀(~四年正月没)その後なし
          内臣  中臣鎌子

    天智元年~六年(662~667)天智称制
          大臣  蘇我連子(~三年五月没)その後なし
          内臣  中臣鎌子

    天智七年~八年(668~669)天智即位
          内臣  中臣鎌子(~八年没)八年に内大臣

    天智九年(670) 天智 *議政官の任命なし
          
    天智十年(天智十二月没)~壬申の乱(671~672)
          太政大臣 大友皇子(~7月自殺)
          左大臣  蘇我赤兄(~8月流罪)
          右大臣  中臣金(~8月没)
          御史大夫 蘇我果安(~7月自殺) 巨勢比等(~8月流罪) 紀大人(?)
  • 孝徳朝の白雉五年(654)から天智十年(671)までの間、十数年も議政官が任命されていなかった
    「評」の行政区が書かれた木棺は出土しています。税の取り扱いはおこなわれていたのです。行政が滞ることはなかったようです。問題は、誰がそれを執り行っていたのか、です。

    議政官の任命がない時期に誰が行政のトップだったのか
    654~671年の間、藤原鎌足は誰に仕えていたのでしょうか。

    孝徳天皇崩御の後、行政のトップには有間皇子(難波天皇)が座っていた、その後を間人皇后(中宮天皇)が引き継いだ、中宮天皇の薨去(667)の後、葬儀・埋葬・遷都・即位が終わり、やっと、天智天皇が議政官を任命することができたと、考えることはできませんか。(次の天武朝では、皇親政治を目指していたので議政官の任命はありません。)
    ここで再び、「天皇、宇智野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老に奉らしめたまふ歌」の問題です。
    万葉集辞典によれば、間人連老は「白雉五年(654)二条、遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」とあります。同一人物なのです。西海使(遣唐使)として唐に行き、いつ帰ったのでしょう。
    そして、書紀によれば「白雉五年二月に渡唐して7月に帰り、唐から多くの文書・宝物を持ちかえったので、大使吉士長丹などは位を上げられ、封二百戸を賜り、呉氏という姓まで賜って」います。
    しかし、中国の史書「旧唐書」によれば、高宗本記・永徽五年十二月条に『倭国、琥珀・瑪瑙を献ず』と書かれています。永徽五年=白雉五年(654)ですから、遣使が十二月に皇帝に謁見したのなら、同年七月に帰ることはできません。ならば、翌年に帰国したということです。

    公の使いですから、朝廷で報告をするはずです。では、書紀の記述が間違っているのでしょうか。遣使に褒美を与えた大王が孝徳帝でないならば、何処の誰だったのでしょう。

  • 『善光寺縁起集註』には命長七年(六四六)の年号と「斑鳩厩戸勝鬘」の署名の入った文書がある。その内容は善光寺如来に「助我濟度常護念」と祈願するもので、これは死を目前にした者に相応しく、多利思北孤の崩御から二三年という間隔と、翌年に九州年号は「常色」と改元されているところから、末年の「利」の文書と考えられ、「斑鳩厩戸勝鬘」との署名は、「利」もまた聖徳太子のモデルとされていた事を示す。(註7) そうであれば彼も父多利思北孤同様仏門に帰依し、法号を得ていた可能性が高く、それが「聖徳」だったのではないか。

    六四六年の「利」崩御後の九州王朝の天子は「礼を争った」王子と推測される。彼は即位後唐・新羅に対し強硬姿勢を貫き、六四七年「常色」と改元し、集権体制確立に向け全国に評制を敷き、「国宰」を創設するなど地方統制を強め、その拠点として難波宮を建設した。また、七色十三階の冠位制度を設け統治機構を強化した。宗教においても「神郡」創設や寺社の改革を進めた。
     こうして九州王朝が二代にわたって実践してきた、「法興・聖徳」の二法号に象徴される「仏教を梃子とした支配」は廃され、以降「力による統治」へ大きく転換していく事となる。
     六三四年に「仁王」が「僧要」に改元され、同時に、「聖徳」が終わったのはそうした大転換の象徴だったのだ

    「聖徳」の記述事例

     次に「聖徳」の検討に移ろう。
     「法興」同様に「聖徳」も『二中歴』にはないが、九州年号資料には広く残されている。古田史学会のHPほかから、その例を拾ってみよう。
      (1).『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑改元聖徳六年甲午八月彗星見七年乙未改元僧要三月彗星見二年丙申大旱六年庚子改元命長在位十三年寿四十五
      (2).『襲國偽僭考』舒明天皇元年巳丑。聖聴元年とす。如是院年代記に聖徳に作る。1説曰舒明帝之時聖聴三年終
      (3).『如是院年代記』【聖徳元】《第三十五代舒明》忍坂大兄皇子之子。敏達之孫。己丑即位。居大和高市郡岡本宮。治十三年。壽四十九歳。
      (4).『麗気記私抄』第卅五代舒明帝治元号聖徳元己丑也
      (5).『茅[窗/心]漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作聖聽、三年改元、〉
         [窗/心]は、窗の下に心。JIS第3水準ユニコード7ABB

      (6).『防長寺社由来』舒明天皇之御宇聖徳三歳経七月役小角誕生自聖徳三年辛卯(六三一)・・・御歳七十二歳御入虚)
      (7).『金峰山寺古年皇代記』舒明天皇聖徳三辛卯経七箇月・・・役小角誕生是縁起ニ見タリトアリ)
      (8).『講私記』(心鑑抄修要秘訣集)役行者舒明天皇聖徳三年辛卯十月二十八日降誕
      (9).『長吏由来之記』欽明天皇御宇聴徳三歳辛卯年・・・聖武天王之御子出生給
     (10).『園城寺伝記』夫仁経・・・欽明天皇・・・同御宇聖徳三年辛卯九月廿日辰尅
     (11).『本土寺過去帳』(千葉県松戸市長谷山本土寺)聖徳三年八月、聖徳五年十一月
     (12).『君台観左右帳記』聖徳六年戊巳(甲午か)
     (13).『箕面寺秘密縁起』役行者・・舒明天皇御宇正徳六年甲午(六三四)春
     (14).『役行者本記』(帝王編年記)役小角行者舒明天皇聖徳六年甲午正月(一説に十月)朔日降誕

     これら資料から聖徳元年は六二九年と考えられる。
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