難波と住吉

September 2019 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書
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コメント

  • 神奈備
     応神天皇と仁徳天皇の宮殿について

     応神天皇は『古事記』では軽島の明宮、『日本書紀』では、二十二年から難波の大隅宮にいます。逝去の場所は明宮とあり、また一説には大隅宮で崩御とあります。
     先ず、明宮ですが、奈良県高市郡に比定する説が多いようですが、確かに橿原市西池尻町に軽と云う地名が残っています。畝傍山の南側で平地の地域です。

     崩御した場所が軽島明宮か大隅宮かと云う二説があると云うことはそれぞれが近い場所だったと言えます。ともに難波だったと見ていいでしょう。軽島と云う島は八十島の中に見いだせませんが、その中の一つだったのかも。
     明宮は「アキラ」の宮とルビがありますが、マドカ説では「アカル」の宮。そうしますと、赤留比売を祭神とする比売許曽神社の鎮座していた付近かも知れません。現在は鶴橋近辺です。鶴橋なら日向の髪長媛を置いた桑津は南2kmです。

     大隅宮については新大阪駅の南東に大隅神社が鎮座していますが、これは単に名前が似ているだけで、応神天皇のエピソードの宮にあたりません。すなわち、吉備から来た妃の兄媛が難波の大津から故郷に船出をするのを宮殿の高殿に登ってその船を見送ったとあります。とうてい新大阪の大隅ではありえないことなのです。

     上町台地こそ高殿になります。
     大隅の隅は住吉の住と思われます。難波の住吉三神は最初は現在の坐摩神社の御旅所の場所に鎮座していたとされています。この付近が大隅といわれたのでしょう。この近辺が大隅宮。見送るなら上町台地に登れば十分。



     仁徳天皇の宮は高津宮と云われます。

     探訪の条件を挙げて見ましょう。

     ●高津の津は難波津のこと、ここを見下ろせる高台と言えます。
     
     ●『日本書紀』「仁徳天皇38年の条」では、「仁徳天皇と皇后の八田皇女が高殿に登って暑さを避けた時、菟餓野から鹿の鳴き声が聞こえた。」あり、この「菟餓野」は現在の大阪市北区兎我野町付近、そうしますと、上町台地の北端となるでしょう。
     
     ●大化の改新の孝徳天皇は、「上古の聖王の跡に従い、天下を治めよう。」として、難波長柄豊碕宮に宮殿を造ったのです。即ち法円坂にある難波宮史跡公園の場所。
     
     ●『日本書紀』「仁徳天皇12年の条」にある、「高津宮の北に掘られた堀江」とは、大川のことです。

     一様に上町台地の北部の高台を指し示しているようです。

     仁徳天皇は応神天皇と共に河内政権の始祖王的雰囲気を持っています。応神天皇の宮跡は坐摩神社、仁徳天皇の宮跡には難波坐生國咲國魂神社(略称:生国魂神社)が置かれたと見ていいのではないかと思っています。
     特にこの時代、八十島祭りの原形ができあがってきたとの説もあり、生国魂神社はその中心的役割の神社です。
     現在、神社は大阪市天王寺区に遷座していますが、これは大坂城の築造時で、それまでは追手門(府庁の東側)に鎮座していたようです。追手門を生玉門とも称していました。
     この付近なら上記条件を全て満たすのではと思っています。但し一つだけ懸念があります。孝徳天皇は生国魂社の木を切ったとあり、聖王の跡といいながら、いかがなものかと・・・。

  • 【丹比道】より

    …丹比道の前身については,《日本書紀》仁徳天皇14年条に,難波高津宮の南門から丹比邑に至る道を敷設したとの記事が注目される。しかしこの記事は,孝徳朝ないし天武朝に難波宮の朱雀大路を金岡神社に至るまで延長して敷設された〈難波大道〉(その一部分が発掘調査により検出され,〈難波大道〉と名付けられた)に基づいて,潤色された記事の可能性が大である。なお丹比道については,大阪府松原市の式内阿麻美許曾神社付近から,羽曳野市の大座間池に至る斜向道路であった可能性も指摘されている。…
    【道】より

    …直線古道は現在までのところ,大和と河内においてのみ確認されている。すなわち大和では東西道の横大路,南北道の上ッ道・中ッ道・下ッ道であり,河内では東西道の大津道と丹比道(たじひみち),南北道の難波大道である。これらの諸道は難波大道を除いて,すべて《日本書紀》の壬申の乱の記事中にその名が見えているので,672年(天武1)以前に敷設されたことが確実である。…
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