忌部、

07/15編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 07/15編集されました
    天富命は「天日鷲命」の後裔である「由布津主命(又の名は「阿八別比古(あわわけひこ)」の率いる阿波忌部を従えて布良に上陸しました。

    そして、房総半島を開拓し、麻を植えるとよく成育したので、「総の国」と名付けました

    「天富命」は開拓の業を終えて帰りましたが、「由布津主命」は「天富命」の仰せのままこの地に留まり、国土の開発にあたりました

    そして、「天富命」の娘「飯長姫命」と結婚して、「堅田主命(かただぬしのみこと)」を生み、彼が「安房忌部の祖」となりました

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    阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である。尚
  • 11/19編集されました
    麻植氏
    阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。
    wikipedia

    また麻植については

    忌部社麻楮ノ密書に日く
    夫レ神事ニ麻ヲ懸クルコトハ敬ノ表示ニシテ阿波國忌部遠祖天日鷲命ノ殖エ給フ今其地ヲ呼ンデ麻殖郡ト云フ忌部ハイミべニシテ敬ヲイタシ我神明ノ本主一身ノ主宰ヲ育イテ神ヲ祭リ神ニ祈リテ過ヲ善ニ遷スヲ要トス故ニ神事ニ之ヲ懸ク往古神代ノ時ニ高皇産霊奪ノ忌部天太玉命ヲ使シテ弱肩ニ太手◯ヲ被テ大物主神ヲ祭ラシム是即敬ナリ凡中臣忌部ハ氏ニ非ス工夫ノ名ナリ後世ニ其徳アルモノナキガ故ニ氏トス中臣ハ中心ヲ富シ養ヒ守リテ本末ヲ傾ケズ中執リ持チテ誠ノ至ヲ霊シ(是ヲ内清浄ト云フ) 忌部ハ外ヲ防ギ護リテ敬ノ極ヲ霊ス(是ヲ外清浄ト云フ)故ニ本朝ニ中臣忌部ノ工夫ヲ学ブハ専務トス依之神事ニ之ヲ懸ク慎而怠ルコト勿レ


    麻植氏は阿波忌部の正統といわれ、代々忌部神社の大宮司をつとめ、美馬郡一帯に大きな勢力を持っていた。天文22年(1553)、勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に殺されが、忌部神社は細川氏の祈願所でもあった。忌部の大宮司で内山城主であった麻植忌部守持光は持隆の信任も厚く、名前に「持」の一字を与えられたほどであった。そこで兵を集めて義賢を討とうとしたが、義賢は岩倉城主三好康俊に命じて内山城を攻撃した。城兵は地の利によってよく戦ったが、数日後には城は落城した。持光は阿波郡や讃岐に逃れたが丹生で戦死した、この戦いを内山合戦といい、長年続いた麻植氏の神権政治は滅んだ




    麻殖氏系譜

    神代遠祖
    高皇産霊命

    天太玉命
    拷機千々萬姫命
    天櫛明玉命

    天底立命
    手置帆底負命
    彦狭知命
    乙羽白麻
    天忍日命

    天手力男命

    天日鷲命
    大麻彦命
    天白羽鳥命
    天羽槌命
    天乙羽鳥命
    天弓削彦命

    大麻主命
    大麻姫命
    千加比姫命
    伊宇津主命
    訶多々主命

    伊宇佐主命
    伊宇佐別命
    伊宇佐貫命
    伊宇機姫命
    伊宇鷹命
    麻織姫命
    大日加佐命

    日和佐命
    外麻命
    幡多命
    宇和命

    伊與彦命   伊與國造ト成
    小千彦命




    久味彦命
    宇惠彦命 
       麻殖主ト成
    十一
    伊宇山彦命
    伊宇長姫命
    伊宇麻姫命
    十二
    武麻殖命
    麻内別命
    十三
    賑麻殖命
    十四
    麻富命       崇神天皇朝勅命ヲ奉諸国神社江荒妙ノ服ヲ織
              神服トシ別奉ル
    十五
    由布主大祢
    十六
    由布山主大祢
    十七
    伊加鉾宿祢     一云麻鉾宿祢 
    伊麻比古
    十八
    楯鉾宿祢
    阿布目連
    麻田子
    十九
    三垣麻吕
    稲鹿目
    猪鹿目
    伊良古姬

    湯勝宿祢
      允恭天皇朝姓氏ヲ定ムル時熱湯ヲ探リテ功名在
      忌部神社大祭主トナル

    弐一
    湯別宿祢
    弐二
    長麻殖大連
     清寧天皇朝即位二年辛西十一月始メテ大賞會行ハルニ依
     テ由岐須木ニ用ユル麻布ヲ古例ニ任シ粟國忌部ヨリ献ル可ト
     勅命ヲ奉蒙ケレバ定例トナリ又此功ニヨッテ大連トナル
    弐三
    千波大連
    弐四
    小角麻呂
    倉玉姫
    弐五
    湯立麻呂   欽明天皇朝仏法渡来ヲ忌嫌イ物部大臣(大連尾與)ヲススメ退ケラレ用明天皇
           朝厩戸皇子ヨリ忌部領採地ヲ削ラル
    弐六
    湯麻宿祢
    千穂根
    弐七
    岩木宿祢
    由木姫
    弐八
    千麻呂
    弐九
    清足大連    斎明天皇朝七年新羅ヨリ百済ヲ攻取援兵ノ将トナル歸朝シテ錦冠赤衣ヲ
            賜リ忌部氏人長四位上大祭主トナル
    三十
    麻殖連
    三十一
    玉垣宿祢    忌部社ニ八重ノ玉垣ヲックル故ニ伊年部玉垣ノ宿称ト云錦冠赤
            衣ヲ賜リ忌部氏人ノ長大祭主トナル又時忌部旧領ヲ復スル事ヲ得タリ
    玉垣姬
    小麻足姬
            中臣不比登妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル房前公也
    三十二
    玉淵
    布刀姫
    布刀淵
          天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ息部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
          伊勢王大綿下「不明」来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
          阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
          朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
          摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
          天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
          先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
          母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
          天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス
    三十三
    阿刀淵宿称
    伊良淵連
       聖武天皇ノ御宇行日至等勅命ヲ以テ伊宇摩山仏母寺ヲ神宮寺ト改メ備像ヲ彫刻
       シテ本尊トシ僧ヲ別当ト唱エ神職ニ加エ法福寺ト云社僧行眞ニ寺ヲ建テ共従弟
       ヲ置大社ノ西ニ建ルヲ西福寺ト云大社ノ東ニ建ルヲ東福寺ト云天平十三年辛巳
       八月阿刀淵九死一生ノ大病行真上人行基等彫刻メ薬師仏ヲ祈リ病頓平癒シケレ
       ハ厚ク三宝ニ帰依シ一字ヲ麻川ノ停ニ建立シテ平癒山福生院ト号比寺ヲ以テ我
       麻殖氏歴世祈願ノ本寺トス神護景雲二年成申三月麻殖下郡ノ人民私願ニ依テ種
       野山内伊周ノ里ニ宮社太敷立天ノ日鷲ノ社ヲ造営ス又法福寺ヨリ別當ヲ附與ス
       外山ノ法福寺ト云
  • 11/19編集されました
    小麻足姫
    中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也
    この部分について、阿波国の一部、某宗派の伝承としてこの件が伝わっていたらしい

    第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。

    「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。
    ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。

    房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。
    そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が・・・
  • 持統天皇と藤原不比等、本、土橋寛

    686年9月、天武天皇が崩御する。〓野讃良皇后(後の持統天皇)は草壁皇太子の即位を保留し臨朝称制する。そして翌十月、大津皇子が謀叛の廉で処刑される。その裏には持統天皇の、天武嫡系の皇子による皇位継承をという強い意思があり、藤原不比等との間に盟約を結び協力体制を組む。不比等は何を意図して協力体制を組んだか。本書は盟約の内容と協力体制の歴史上の展開を追い、河内安宿に繋がる人脈を説き、古代史の謎を解く
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