景行天皇と日向、御刀媛、豊国別、宇佐国造

December 2018 編集されました カテゴリ: 崇神ー仲哀
image景行天皇と日向、御刀媛、豊国別、宇佐国造

景行天皇と日向 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003…

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コメント

  • 髪長媛は、現在の宮崎県都城市早水町の早水神社の早水池のほとりに生まれたという伝説があります。 早水神社の祭神は応神天皇・牛諸井(うしもろい)・髪長媛の三柱です。
    髪長媛と仁徳天皇との間に、大草香皇子と幡梭皇女(はたびのひめこ)が生まれました。
    「日本書紀」によると、大草香皇子は妹の幡梭皇女と結婚する大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に美麗な「押木玉縵(おしきのたまかずら)」を献上したと記されています。
    しかし、大草香皇子は根使主のざん言により安康天皇に刺殺され、髪長媛と娘の幡梭皇女の最後は不明となっています。
    髪長媛の名前は桑津天神社におまつりしているだけではなく、同じ名前でいろいろな地方にも見られます。
    伝説的色彩がきわめて強く、古代では「髪」は人名ではなく一般に若い女性をさし、機織り(はたおり)の名手で黒髪長く背丈以上もあったのでこう呼ばれたともいわれています。
  • 吉士を名乗った氏族では難波吉士、草香部吉士、日鷹吉士、大国吉士など多くの名前が見える。
     『雄略紀十四年四月』に、大草香皇子(仁徳天皇の皇子)の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士と言う姓を与えた記事がある。 日鷹吉士は紀の国日高郡に在住していた一族、大国吉士は河内国石川郡にいたようである。

     『雄略紀九年二月』に、胸方神(宗像大社の神)を祀る為に凡河内直香賜と采女を遣わしたが、壇所に至りてその采女を犯し、難波日鷹吉士を遣わして凡河内直香賜を殺そうとした記事が見える。難波吉士が吉士の頭領のように思える。
  • 安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこと:雄略天皇)の后に、幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)を貰いたい旨、その兄の大草香皇子(おおくさかのみこ)に申し入れ喜ばれるが、根使主(ねのおみ)と言う家臣が大草香皇子の献上品を着服し天皇に虚偽の報告をしたため、その讒言を信じ大草香皇子を殺害してしまう。そしてその妻、中磯皇女(なかしひめ)を宮中に召し抱え皇后とするのである。

    しかし、安康3年(456)8月、山宮(どこかは不明)に遊んだ時、大草香皇子の遺児で中磯皇女の連れ子であった眉輪王(まよわのおおきみ)に、皇后の膝枕で寝ているところを刺し殺されてしまう。
  • 兄安康天皇の死を知った大泊瀬皇子は、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)・八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)の二人の兄に眉輪王を討とうと持ちかけるが断られ、軍勢を率いて眉輪王を滅ぼし、二人の兄をも殺害してしまう。更に、従兄の市辺押磐皇子 (父允恭の兄、履中天皇の子)も、滅ぼし、21代雄略天皇となる。

    この時、市辺押磐皇子の皇子二人は播磨の国に逃亡し、「播磨国風土記」等に新たな物語を生むが、後に23顕宗、24代仁賢天皇として再び日本書紀に登場する。
  • 葛城ソツ彦は地方豪族という見解に対して、

    上田正昭氏は『大和朝廷』(一九六七年)の中で、また、井上辰雄氏は『隼人と大和政権』(一九七四年)において、それぞれ、ソツ彦を大和の葛城出身者とみなしています。はたしてそうでしょうか。

    私は、襲の出身者とみなしたい。しかし、この場合の襲は、前述した井上光貞氏の論説のように、熊襲の意味ではなく、繰り返し説いているように、広い範囲の「ソのクニ」の意味です。「ソツ彦」とは「ソの首長」という意味であり、日向中央山地を中心にして勢力圏を形成したと推測される「ソのクニ」と、極めて密接な関係にある人物と推定されます。
    それは、この葛城ソツ彦の本来の名称は、「襲津彦」と呼称されていたのではないかと思われるからです。前掲の『百済記』所載の名称は沙至比脆(襲津彦)と記されてあり、また『日本書紀』の葛城ソツ彦に関する所伝においても、はとんど「襲津彦」と記されています。すなわち、「神功皇后紀」五年、同六十二年、「応神天皇紀」十四年、同十六年、それに「仁徳天皇紀」四十一年の各条に葛城ソツ彦についての記事が認められるのですが、しかし、子細に考察すると、「葛城襲津彦」と明記してあるのは、「神功皇后紀」五年と「応神天皇紀」十四年の二か所だけであり、あとの五か所はすべて「襲津彦」となっています。さらに、この「襲津彦」と記載してある条の説話は、三品彰英氏も指摘しているように、渡来人による伝承に基づいているということになれば、「襲津彦」という呼称の方が、より原初的な人名ではなかったかと思われます。そして、「葛城襲津彦」と記述してある二か所も、ともに大和王朝が葛城襲津彦を派遣したと記されてある記事のところのみになっています。九州に勢力圏を有したソツ彦は、朝鮮半島との交流もあり、その地理にも委しかったのではないかと思われます。『百済記』の中で、「襲津彦」を「沙至比脆」と記してあることが、より史実性を高めています。 
  • 日下部

    『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます。この部族は西日本全般に、古文献の上で散見されますが、髪長媛の出自国である日向は、その源流の地であったのかもしれないと思われます。なお、この日下部氏は日向にたいへん関係が深い氏族です。
    また、大日下王(「紀」では、大草香皇子)と嫡妻・長田大郎女(ながたのおおいらつめ)(「紀」には、中帯姫(なかしのひめ))との間に目弱王(まよわのみこ))(「紀」では、眉輪王)が生まれました

    「吾れ妻萬大明神君は、此の河(妻萬河)より竜宮に通い住む可き給う故に、他方より、上を塞ぐ可からず云云」『日下部姓之系図:妻萬大明神之御縁起』

    ・ 妻萬大明神より土中より掘り出された男女が日下部氏の始祖『日下部姓之系図1303版』
    ・ 阿多御手犬養同祖、火火闌降命(ほのすせりのみこと:海幸彦)之後也『新撰姓氏録815』
    ・ 浦島子説話では、浦嶼子が「日下部首等」の先祖『丹後国風土記』
  •  国津神のコノハナサクヤ姫(神阿田津姫)を祭神とする式内都萬神社が西都市妻地区に鎮座している。この都萬神社に奉祀してきた有力な氏族として日下部氏があり、妻地方に居住する末裔には『日下部姓之系図』が伝わっている。この日下部氏は仁徳天皇皇后妃、髪長媛の御子に対する名代部として現れている
  • 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。
  • 「雄略天皇紀」 に記載されている浦嶋子説話は簡潔な記事にまとめられていますが、その後に編纂された 『丹後国風土記』逸文の中では、「浦嶼子」と題して、次のように記されています。
    「丹後の国の風土記に曰はく、輿謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云いき。為人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。……長谷の朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、独小船に乗りて海中に汎び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即て寝るに、忽ち婦人と為りぬ」。この『丹後国風土記』逸文にみえる浦島子説話が、その後、民間伝承として日本人の中に浦島物語となって今日まで伝わっています。この「浦島子説話」 で注目されることは、この説話が輿謝郡筒川村(現、伊根町本庄浜)の島子伝承になっている一方で、この島子は 「日下部首等」の先祖にあたると記されていることです
  • 西都市妻の都萬神社社家の家系に伝わる『日下部姓之系図』の前文には「都萬五社大明神之縁起」の名称で、都萬神社の由緒が記載されています

    「…・‥土を掘り男一人、女一人出たり、即ち各々衣服無き故に、萱を苅り壁を拵えて居住す。仇って、日下部立次と号し、(妻寓)大明神君に仕え奉ること二百四十年云々」、この記録にみえるように、日下部氏の祖先は、土中から男女一人ずつ生まれ出たのが始まりで、その初代が日下部立次と称しました。この系図に記されている日下部氏の出生伝承は、日本の古代氏族伝承の中でも極めて特異なものです。この土中出生伝承は、妻萬大明神により土中から掘り出された男女が日下部氏の始祖となるわけで、その氏族の神観念、神出現の信仰形態としては、岡正雄氏の説かれている「水平的神観念」 の宗教儀礼に該当すると考えられます。すなわち、天に昇降する神の信仰ではなく、水平的に横の方へ往来する神観念として、海の彼方から神が寄って釆て、海の方へかえる、また、川面に送るお盆の精霊流しなどのような民俗儀礼にもみられるものと同様の神観念です。なお、この神観念は、日本神話の中の「根の国」信仰にも通じるものであり、地下に神の世界が存在するという信仰でもあります。古く都萬神社の領有地であった妻の地域(旧市街地) には、なるべく井戸は掘らないようにして、限られた井戸から周辺の人々は水を汲んでいたようです。これは妻神に古くから奉祀してきた日下部氏が土中から生まれ出たという土中信仰と関連があるのかもしれません
  • 日下部系氏族は「書紀」編纂の史局員となりました。かつて藤間生大氏はその論考の中で、『日本書紀』の天武天皇十年の条にみえる「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という、いわゆる『日本書紀』編纂の発足に際して、史局員に任ぜられた難波連大形(元草香部吉士大形)が果たした役割について論及されました。さらに、中村恵司氏も、藤間氏の論拠に立って、その論証を広げられました。すなわち、前項でもふれた「雄略紀」二十二年にみえる浦島子説話が日下部氏の伝承に基づくものであることを論述し、しかもその氏族のもつ海洋性がこの説話を生んだものとされましたが、さらに、「応神紀」十三年の日向諸県君牛諸井の播磨灘説話も日下部氏に関連する伝承であり、ともに『日本書紀』の編纂員であった日下部氏系の難波連大形の努力によって、『日本書紀』の中に盛り込まれたものと思われると説かれています
  • 毛野氏は豊城命―八綱田―彦狭嶋王―御諸別王という系図になっているが、彦狭嶋王・御諸別王の背景は複雑である。宇佐氏の伝承では御諸別は安芸で死んだ神武の子で、安芸を中心に活躍していたが、神武の兄の景行天皇の命令で東国の平定に向かったとされるが、東北南部の阿尺国造・思国造・伊久国造・染羽国造・信夫国造は阿岐国造と同祖とされ、白河国造の祖も天降る天由都彦命とされるが、これも阿岐国造の祖の天由津彦と同じと考えられるから、このように安芸と結びつく国造が多くいるということは、宇佐氏の伝承も無視できないのである。
  • May 2016 編集されました
    宇佐の高倉古墳と高倉神社
    宇佐市長洲に『高倉神社』
    由来書。

    古代高倉神社は瀬戸内海の海を統率した神を祀ると書いています。
    そして明治の神仏分離令により解体され行橋市今井の祇園社より
    神霊分与を受けここに八坂神社と改められて今日に及ぶとあります。
    八坂神社 祭神 素盞鳴尊(鍛冶之神)
    高倉社(旧名)祭神 武位起命(瀬戸内海交通の神)

    綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市

    籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」の秘伝とされている海幸山幸神話では天火明命が弟の山幸彦(彦火々出見尊)である。時に弟、釣り針を海中に失う。塩土老翁来たりていわく。即ち、火明命、竹籠に入り、海に沈む。豊玉姫命、その子の端正なるを聞きはなはだ憐重す。妹玉依姫命を遣わし養うは、即ち、武位起命(たけいたてのみこと)なり。

    大分県宇佐市長洲の浜に、高倉神社古墳がある。
    考古学者・橘 正信、賀川光夫が140、150mの前方後円墳と推定し、湟もあったと記されています。湟(みぞ)。

    高倉神社(古墳)
    全長124m、 後円部径90m・高さ?m、 前方部幅?m・高さ?m の前方後円墳です。
    墳丘は大きく破壊されていて、径30mほどの円墳状で残っています。
    現在、前方部は宇佐自動車学校の練習コースになっています。
    墳丘上には、高倉神社が建っています。

    在地 大分県宇佐市長洲
    形 式 前方後円墳
    規 模 全 長 140 m
    後円部 直 径 90 m
    高 さ m
    前方部 先端幅 m
    高 さ m
    築 造 前期

    この古墳の築造は古墳時代の前期と推定されています。
     この高倉古墳は昭和46年3月23日大分県の史跡に指定されています。
     また古墳とは直接関係ありませんが、近くの観光スポットとして全国の八幡様の総元締めである宇佐神宮が市内にあります
  • 大分県北海部郡佐賀関町大字関、椎根津彦 (シイネツヒコ) 神社
    椎根津彦神社
    大分県北海部郡佐賀関町大字関。 
    祭神:椎根津彦命、武位起命、稻飯命、祥持姫命、稚草根命
      

    合祀の武位起命は彦火々出見命の御子、鵜草葦不合尊の御昆弟で椎根津彦命の御父。稻飯命は鵜草葦不合尊の御子で神武天皇の御兄。祥持姫命は椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃。稚草根命は稻飯命、祥持姫命の御子と伝えられ合祀の年代は詳らかでない。

    彦火々出見命と武位起命は同一?

    伊都国から戻ってきた彦火火出見尊は串間に派遣された。串間神社には
    「海神国から帰った後、南へ降り串間にやってきた。」
    「猪、雉などの雁ものの多いこの地を狩場として笠沙の宮から通われた仮宮所で、穂?宮と称しその宮跡を斎きまつった」
    と言い伝えられている。串間神社の地に穂穂宮を建て、そこを基点として曽於国との交渉を行った。
  • May 2016 編集されました
    王の山 亀塚
    宮崎県串間市
    日向津姫に対する伝承はほとんど失われている。神話伝承上天上にあげられてしまったためと思われる。日向津姫の御陵と思われる墓がこの串間に存在する。王の山である。

     ここは,江戸時代に発掘されて,現在,その位置が不明になっているのであるが,記録によると,鉄器30点と共に,中国王侯の印とされている璧が出土している。璧は現在国内で四点しか見つかっていないが,いずれも一世紀の王墓と考えられる墳墓から出土している。璧は中国において銅鏡を遥かにしのぐ貴重なものである。しかも王の山の璧は,そのうち最大で国宝になっている。この璧は径33cmと超大型で,中国にもこれほどの大きさのものはいくらもないといわれるほどのものである。中国で見つかった漢武帝の兄である中山王劉勝の墓から出土した壁のうちで最大のものが径23cmであるから王の山の璧が如何に大きいかわかる。

    玉壁
    日向、曽於国の玉壁
    宮崎県串間市王の山銭亀塚石棺
    国宝・紀元前2世紀頃の完品
    「中央に穴(孔)がある円形で直径が三十三・三センチメートル、中央の穴の直径が六・五センチメートル、厚みが〇・六センチメートル、重さ一六〇〇グラムの完全な玉器である。璧は、硬玉で鉄より硬いといわれる。

    この璧の表裏両面に見事な文様が施されている。この璧の表面には、同心円で三帯に区切られている。一番外側には五つの竜首文が配され、外周と内周の間に璧を識別する穀粒文が、整然と並んでおり、一番内側の内周には、三体の鳥文が波形状に彫刻されている。」

    平成24年、7月4日(日)の日経新聞に、串間市の「王の山古墳」から発見された玉璧に関して次のような記事があった。
     ”玉璧は文政元年(1818)、串間市で掘り出した石棺から鉄製品や玉類とともに出土したという。直径33.3センチ、軟玉でできた薄い円盤で、中央部には丸く孔があけられ、周囲には獣文、渦巻文、獣文の三重の文様帯を刻む。中国の玉器に詳しい岡村秀典京都大学教授は「王侯クラスに賜与するために漢王朝の工房で紀元前2世紀につくられた優品の一つだったと考えられる」とみる。”
     その「穀璧」の写真の脇に次の文が添えられていた。
    (直径33.3センチ、財団法人前田育徳会所蔵)「穀」は渦巻文のこと。古代に日本列島にもたらされたとすれば、漢王朝が周辺の国王に贈り、政変などで亡命した王が持参した可能性が考えられるという。

     渦巻文と書いてあるが、中国では穀文といっている。春秋戦国時代の璧を見ると、本当に一つ一つが渦巻いているが、漢代になって、それが簡略化されたらしい。わずかに渦という感じが残っている。遠目には穀物の粒という中国の表現の方がふさわしく思える。
  • 亀塚古墳群
    所在地 大分県大分市大里
    形状 前方後円墳 規模 墳丘長116m
    築造年代 5世紀初頭
    埋葬施設 組合式箱型石棺
    出土品 勾玉・管玉
    史跡指定 国の史跡「亀塚古墳」
    特記事項 大分県第1位の規模
    墳丘は前方部を南に向けた3段構築で、全長116メートル(前方部長52メートル、後円部直径64メートル)、高さは前方部7メートル・後円部10メートルで、西側のくびれ部に造出しがある。墳丘は白い石英質の葺石で覆われていた。

    埋葬施設は前方部墳頂に2つ設けられており、第1の埋葬部には長さ3.2メートルにもおよぶ大形の箱型の組合せ式石棺が埋められており、第2の埋葬部はその東側に後から設けられた。すでに盗掘を受けていたが、短甲・鉄刀の破片、滑石製の勾玉、碧玉製の管玉、ガラス製の小玉などが出土している。

    古墳域は1996年(平成8年)3月28日に国の史跡に指定されている。

    築造時期
    4世紀末から5世紀前半と推定されている。

    被葬
    古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。

    10月 「海部のまつり」と題して想像上の古代衣装を身に着けた海部媛(あまべのひめ)や市長行政関係者などが古墳の周囲を回り、族長が海・山・川の幸を奉納する儀式を行なう。史跡指定による観光開発の一環として始められたが、年々集客率が低下してきている。
  • 大分県宇佐市川部・高森にある古墳群。駅館(やっかん)川の右岸、宇佐原といわれる標高30mの段丘の一角に所在する。6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基の円墳や周溝墓が集まった古墳群である。九州最古の一つとされる前方後円墳として著名な赤塚(あかつか)古墳は、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初頭)に築造されたもので、免ケ平(めんがひら)古墳がこれに続き、角房(かくぼう)古墳、車坂(くるまざか)古墳、福勝寺(ふくしょうじ)古墳が古墳時代中期(5世紀)ごろ、鶴見古墳が古墳時代後期(6世紀)ごろの前方後円墳。これら6基の前方後円墳は、古墳時代に宇佐地方を支配していた首長、おそらくは宇佐国造(くにのみやつこ)一族の墳墓と推定され、1980年(昭和55)に国の史跡に指定された。周囲の古墳や周溝墓はその一族や臣下の墓と推測され、3~6世紀の間に同じ地域に継続して古墳が築造されていることから、長期にわたって安定した支配が行われていたと考えられている
  • 宮崎市周辺は皇宮屋、金崎、宮崎神宮などの神武天皇関連伝承、高屋神社のヒコホホデミ関連伝承、江田神社の阿波岐原伝承がある。いずれも他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断する。北方の奈古神社の瓊々杵尊御陵伝説地は古墳であるために真実ではないと考えるが、阿多長屋は正しいのではないかと思う。
     瓊々杵尊は加世田に移った後に結婚しているが、かなり高齢になっているので、若いころに一度結婚しているのではないかと判断する。それが、磐長姫ではないのだろうか?米良村に磐長姫の終焉の地があり、ここからは近いが、加世田からはあまりに遠い。
      神武天皇関連伝承はかなり具体的である。また、他地域の伝承ともつながっている。それによると都城周辺から宮崎に来ているようである。 日南地方の伝承とのかかわりにより、宮崎にいるときに吾平津姫と結婚し日南地方との間を往復していたことがわかる。
  • 日本書紀十一年是歳条で,応神帝は
    日向国の諸縣君牛諸井に髪長姫と呼ばれる
    「国色之秀者(かほすぐれたるひと)」がいるという評判を聞く。
    十三年春三月日向国に使者を派遣して、
    髪長姫を召上げることを告げさせる。
    秋九月に日向からやってきた髪長姫は
    桑津邑(大阪市東住吉区桑津町)に滞在した。
    ここで大鷦鷯尊が髪長姫に一目惚れしてしまう。
    応神帝は皇子が髪長姫に恋心を抱いていることを知り、
    自分の側におくことをあきらめて二人を結婚させることにする。
    古事記でも応神記にほぼ同様な説話が記されている。
    古事記では難波津に滞在している髪長姫に
    恋心を抱いた大雀命(=大鷦鷯尊)は
    建内宿禰を通じて髪長姫を自分に賜るよう頼み込む。
    この説話の中に出てくる四つの歌謡は、
    記紀共にほぼ同一となっている。
    このことはどちらかで創作された物語を
    他方がそのまま採用したことを表しているといえるだろう。
    日本書紀には髪長姫譲渡物語の後、
    十三年秋九月条の末尾に、
    「一に云はく、」という形式で記紀の髪長姫説話の原型となったと思われる
    淡路国風土記に残されている「髪長姫献上説話」が記載されている。
    日向国の諸縣君牛が年老いて朝廷に仕えることができなくなった代償に、
    (美人の誉れの高い)娘の髪長姫を
    天皇に献上するために上京しようとしていた。
    途上播磨に至った時に、
    たまたま淡路島で狩猟していた
    天皇の目に留まるというストーリーになっている。
    こちらの話では天皇は特定されていない。
    記紀の髪長姫説話は
    日向国の諸型君牛の髪長姫献上説話をもとに
    作り変えられたものだろう。
  • 諸県君牛諸井(日本書紀本文)(ほかに同書の説に「諸県君牛」、古事記に「牛諸」とある)と髪長媛の話になると、それはぐっと史実味を帯びてくる。諸県君牛諸井は応神天皇時代の日向の豪族。「日向国に嬢子(おとめ)がいます。名を髪長媛といい諸県君牛諸井のむすめです。国色之秀者(かおすぐれたるひと)です」という者があった。応仁天皇は使いをやってこれを招き、桑津邑に住まわせた。やがて仁徳天皇が「その形の美麗(かおよき)」に感じて妃とする(日本書紀本文)。
     また、同書の一説によると、応神天皇に仕えていた牛諸井が年老いて帰国。朝廷の恩を忘れず、代わりに髪長媛を差し出した。媛には角付きのシカ皮を着た多くの人々を従わせた。船で着いたところが播磨(兵庫)の鹿子水門(かこのみなと)で、このことから船人を「かこ」、その出入り口を「港」と言うようになったという。媛はやがて仁徳天皇の后(きさき)になり、その子孫は朝廷に大きな影響を持つようになる。
  • 髪長姫は同じ都城市内の早水神社にも祀られている。
    西都市の西都原古墳群に、御陵墓である男狭穂塚、女狭穂塚という巨大古墳があります。
    埋葬されているのは、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメという地元の伝説がありますが、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは神話の世界、古墳時代とは違う事は明白。
    現実的には、男狭穂塚が髪長姫の父である牛諸君牛諸井(牛諸井)(もろかたのきみうしもろい)、女狭穂塚が髪長姫(かみながひめ)とする説がある。
  • May 2016 編集されました
    仁徳天皇
    日向の諸県君牛諸の娘・髪長比売との間に、波多毘能大郎子(大日下王)、波多毘能若郎女(長目比売命)、若日下部命)を生んだ。
    庶妹八田若郎女との間に子は無かった。
    庶妹宇遅能若郎女との間にも子は無かった。

    『日本書紀』では、磐之姫命を皇后として、大兄去来穂別天皇(十七代・履中天皇)、住吉中皇子、瑞歯別天皇(十八代・反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(十九代・允恭天皇)を生んだ。
    日向髪長媛との間に、大草香皇子、幡梭皇女を生んだ。
    磐之姫命皇后の死後、八田皇女を皇后とした。

    先代に疲弊した国力の回復に勤め、難波堀江や茨田堤をはじめとする大道、大橋の千拓・水防事業にカを注いだ。

    御陵は、百舌鳥野陵(毛受の耳原)で陵墓は世界最大。
  •  大日下王という名前は、日下(くさか)という土地に住んでいたことに由来するものです。そして、その別名は波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)とされているので、じつは波多の八代宿禰の子だったらしいのです。
     波多の八代宿禰という人物は、品陀和気(ホムダワケ)(応神天皇2)の治世3年(西暦374年)に、百済に派遣された一人とされています。そしてその支配地は、熊本県の八代郡だったのです。
     だから大日下王は、あの八田若郎女(ヤタノワキイラツメ、じつはハタノワキイラツメ)とは、おそらく母を異にする、姉弟にあたると思われます。
     八田若郎女はもともと、伝統王族の宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)の妃として、伊邪本和気(イザホワケ)(履中天皇)をもうけた女性です。子供のなかった大雀(仁徳天皇)はその伊邪本和気を養子にし、太子(ひつぎのみこ)とします。そして後には、その母親だった八田若郎女も、自分の妃にしてしまったのです。
     古事記によると大雀の治世中に、大日下王とその妹の若日下部王(ワカクサカベノミコ)のための御名代(みなしろ)として、それぞれ大日下部と若日下部が定められたということです。だから、おそらく波多の八代宿禰の逝去後に、その二人が大雀の養子になったと思われます。そこにはもちろん、異母姉にあたる八田若郎女の力添えがあったことでしょう。
  • 九州の 薦神社

    大貞八幡宮薦神社
    御祭神:応神天皇・比咩大神・息長帯比売命
    所在地:中津市大貞209

    由来
    薦神社は大貞八幡宮とも称され、霊池である三角(御澄)池を内宮、社殿を外宮と仰ぐ由緒正しい八幡の古社です。社殿の造営は承和年中(834~48)と伝えられていますが、歴史は遥かにさかのぼり、八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものだそうです。

    ここでいう「八幡大神顕現」とは、宇佐氏系図・池守項注記にいう、「池守--弘仁2年(811)大宮司兼押領使に任ぜられ正八位下を叙さる。常に野仲郷に住み、神誓により三角霊池を守護し、故に池守の名を得。舒明天皇の御宇(629~41)、三角池で神詠を拝聴し、大神比義とともに始めて八幡大神の霊を奉拝し、仕え奉る。又神護景雲中(767~70)大尾山社を造立。寿三百歳」との伝承を指し、ここで八幡大神は先ず三角池に顕現したといわれています。ただし、この伝承はここ以外の諸縁起伝承にはみえないのも事実です。
    また八幡の由緒を記した『八幡宇佐宮御託宣集』によれば薦神社は古くから八幡神と深い関わり合いがありました。養老4年(720)反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し、中央政府の性抜群は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。このとき、神輿には三角池に自生する真薦で作ったまくら型の御験(神をあらわすもの)が乗せられていたと記されています。この八幡神の薦枕を奉じ、隼人との戦いに勝利した朝廷軍はこの後、八幡神は一地方神から国家鎮護の神へと変身させ宇佐の小椋山に移したのです。つまり、現在の宇佐神宮から見ればこの薦神社はまさに祖宮ともいえる存在なのです。
  • 薦神社の由緒
    薦神社は大貞八幡宮とも称され、霊地である三角(御澄)池を内宮、社殿を外宮と仰ぐ由緒正しい八幡の古社であります。
    (略)
    養老4年(720)反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し、中央政府の征討軍は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。この時、神輿には三角池に自生する真薦(まこも)で造った枕形の御験(神を表すもの)が乗せられていたのであります。

    この後も薦枕は八幡神の御験として永く用いられます。薦枕は6年毎に新しく造られ、八幡神とかかわりの深い八ヶ社(田笛社・鷹居社・瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)を巡った後に、宇佐宮本殿に納められます。

    古い御験は下宮に、さらに下宮の古い御験は国東東海岸の奈多宮に納められ、海に流されました。

    この八幡神御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が、宇佐宮の特殊神事といわれる行幸会であります。
    (略)

    薦神社の神事でも最後には御験は流されるのですが、その宮の名が奈多宮。
    福岡市の綿津見神社の三苫海岸と奈多の浜は続いています。
    そこに志式神社があります。安曇族の浜です。
    そこで神功皇后は安曇磯良を説得するために、七日七晩の神楽を奉納したのです。
  • 志式神社
    福岡市東区大字奈多1238-2

    祭神 火明神 豊玉姫神 十城別神 稚武王 葉山姫神
  • 宇佐公康さまの伝承では、神武天皇(若木入日子命の事)は「やまと(勝山黒田)平定」の後、景行天皇に後を託し、宇佐津姫と結婚して宇佐都臣命(宇佐稚屋)と御諸別命(みもろわけみこと)を生んだ事になっており、此の宇佐稚屋命(うさのわかやみこと)と伊予の越智宿禰女常世織姫(おちのすくねめとこよおりひめ)の間に生まれた宇佐押人(うさのおしひと)が後の本当の第15代応神天皇である。とされており、

    第12代景行天皇から東国(関東~東北)15国の王に命じられた叔父である『御諸別命』が、九州で?『神功皇后』と『武内宿禰』、その子である『誉田別天皇』を破って、『宇佐押人』を近畿大和国高市郡白橿村の軽島豊明宮で『第15代応神天皇』として即位させた。とされています。(この応神天皇の即位は西暦390年頃と考えられています。)
  • 大分県史によれば
    「庄ノ原から上野に及ぶ台地をとりまく一帯が大分君の拠点であったとみるべきだろう。7世紀末の寺跡とみられる遺跡である永興寺遺跡・金剛宝戒寺遺跡もこの台地上にある。『豊後国風土記』では、大分郡役所の南に大分川が流れるとある。大分国造?大分郡司につらなる在地首長大分君一族の拠点をこの台地一帯とする見方を裏付けているように思われる。」としています
  • 景行十二年十一月、日向国に到って、高屋宮を建てて住む(所在地は不明、宮崎県南部か?)。そこで群卿と熊襲討伐の合議をし、策略を立てて、首領の熊襲梟帥を討つこととする。ここから、「叛いて朝貢しない熊襲」の討伐が始まるのである。熊襲梟帥には市乾鹿文(いちふかや)と弟市鹿文(おといちかや)の二人の娘がいた。天皇は姉妹を欺いて幕下に召す。その時、召された市乾鹿文と天皇は、父の熊襲梟帥を討つ策略を会話している。

    『先代旧事本紀・国造本紀』には「大隈国造:纏向の日代の帝(景行天皇)の御世に平らげ治めた隼人と同祖の初小。仁徳天皇の御世には伏布を曰佐として国造に定められた」、「薩摩国造:
纏向の日代の帝の御世に薩摩隼人等を討ち、仁徳天皇の御世に曰佐を改め直とする」とある。つまり、熊襲は後に隼人と呼ばれ、景行朝で、大隅・薩摩の隼人が平定されたことがわかる。そして、隼人との会話には曰佐(をさ)、つまり通訳が必要だったこともわかる。景行天皇は、市乾鹿文と弟市鹿文の姉妹とは通訳を通して会話したのか、それとも直で会話したのか? 前者であれば、その通訳は熊襲(隼人)と結婚した海幸彦(諸々の隼人の祖)の裔であったとみられる。後者であれば、熊襲梟帥とその娘姉妹が海幸彦の裔となる。山幸彦を祖とする神武天皇が興した大和王権に、海幸彦の族裔となる熊襲(隼人)が従わないのは、遠祖の因縁故であろうか。『紀』の内容から、景行天皇が平定したのは「襲=贈於」国の熊襲(隼人)、つまり大隅隼人と解釈できる。後に、姉の市乾鹿文は、父の熊襲梟帥を裏切った親不孝者として誅されるが、美人の弟市鹿文は火国造に賜っている。ここにでる火国造は神武天皇の御子の神八井耳の裔とされ(『記』)、崇神朝の時に任命された事になっている(『先代旧事本紀・国造本紀』)。景行天皇は、山幸彦の裔と海幸彦の裔を結婚させという事になる。しかし、この後も大隅の隼人族は大和王権に対して乱を興し続けるのである。
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