未定義の論題

May 2019 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 宗像市の鐘崎漁港奥に鎮座。宗像五社が一であり、式内社「織幡神社 名神大」に比定される古社。
    神功皇后かつて此の浜に泊る。これに因み、地名を京泊(きょうどまり)とする。地島(ぢのしま)が見える位置に有り、数年前までは鐘崎の波止場から渡し船が出ていた。今では神湊まで回らないといけない。
    沖合は暗礁多く、遠賀川から博多へ至る航路の難所。萬葉集の一首を、源氏物語でネタにする程度には有名だったようである。
    萬葉集「千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾者不忘 壮鹿之須賣神
    (ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも吾は忘れじ志賀の皇神)」
    玉蔓 …金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、かしこに到り着きては、まいて遥かなるほどを思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて、明かし暮らす。…
    後に「鐘崎」と記したためか、海中に梵鐘ありと誤解の末、揚げられた釣鐘状の大岩を飾る。
    海女発祥の地とて、その記念碑を飾る。魏志倭人伝に曰く「魚鰒を好みて捕るに、水に深淺無く、皆沈没して之を取る」。この段にいう末盧國とは、肥前國松浦郡であろうと一般に解されているが、或いは勝浦から金崎に至る地であったのか。
    社殿は高台にあり。天然林に包まれ見晴らしは無し。天然記念物につき伐採不可。立木なかりせば眼下に海を望めよう。昔の灯台だか監視所だか在った場所かも知れない。
    中座に武内宿禰を祀る。織幡の名は、武内宿禰初めて幡を織り、以て御手長と呼び、新羅征伐の軍旗と為すに因む。拝殿よりやや離れて右下に「沓塚(くつづか)」あり、宿禰の沓を遺し天に召さるる処と伝わる。つまりは墓の代わり、それにしては鐘崎が武内宿禰終焉の地とは他に聞かない。
    西座に住吉大神を祀る。東座に志賀大神を祀る。以上三座は、筑前國續風土記にも在り。斯くも大いなる海の神を並べ祀ること例を見ず、上代に於ける連合海軍の趣。
    天照皇大神・宗像大神・香椎大神・八幡大神・壹岐真根子臣を配祀。香椎大神は仲哀天皇、八幡大神は応神天皇、壹岐真根子臣は武内宿禰の身代わりとなった部下。何故か神功皇后は祀らず。
    階段途中に今宮社有り、御祭神不明。他に境内社数社有り。
  • 【和州五郡神社神名帳大略注解】(皇典研究所「神祇全書」所収)
    式内・牟佐坐神社(奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内)の禰宜であった宮道君述之が著
    本社の後南方にある磐石神窟はいわゆる飛鳥山前神奈備で、社家の者の説では、 高照姫命をを祀る茅鳴身(カヤナルミ)神社である。
    本社の東北方にある滝瀬神窟はいわゆる飛鳥川辺神奈備で、社家の者の説では、臼滝姫命(高照姫命とも)、あるいは建御名方富命を祀るとしている。境内のこの2神が加えられた結果、「飛鳥坐六箇處神社」とされているのである。飛鳥坐神社(四座)には、主神4神の他に、後裔神である加夜奈留美命と宇須多伎比売命を含め、合計6神が祀られていたのではないか
  • 諏訪大明神画詞
    建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
    「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
    つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。
  • 宗像大社伝承に「住吉は子で宇佐は孫」とある
    ①神代に比売大神が御許山に天下られた
    ②571年に欽明天皇が応神天皇を八幡神として宇佐の地に祀られた
    ③725年に聖武天皇が応神天皇を我が朝の太祖として一の御殿に祀られた。これが現在の宇佐神宮の創立年である。
    ④731年に比売大神=宗像三女神が二の御殿に祀られた。
    ⑤823年に神功皇后が三の御殿に祀られた。
    ⑥皇室の宗廟(氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと)である。
    ⑥総数4万社の八幡宮の総本宮である

    豊比咩命は「豊」の地主神ともいえる名。闇無浜神社の祭神のひとり「豊日別国魂神」は、香春に在った辛嶋氏によって中津に齎された「豊比咩命」。宇佐以前は中津平野が最も繁栄していたという。香春の「豊比咩命」は中津で「豊の国魂」となった。

    豊の地主神、中津豊の地主神、中津の豊日別国魂神「豊比咩命」は「田心姫命」として宗像三女神に収斂している。

     宇佐は畿内に向かう日向や、肥や筑紫の氏族が集まる地。その上、半島よりの渡来氏族までもが集結、そのために多くの氏神が存在した。そういった事情が「三女神」という特殊な神格を生んだようである。
     日本書紀に「三の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。」とあり、三の女神は最初、宇佐に降り立った。三の女神は宇佐で組成され、のちに宗像へ移植されて「宗像」の名を冠したのであろう豊の地主神、中津の豊日別国魂神「豊比咩命」は「田心姫命」として宗像三女神に収斂している。

     日本書紀に「三の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。」とあり、三の女神は最初、宇佐に降り立った。
  • May 2019 編集されました
    宗像大宮司

     福岡県宗像市に所在する官幣大社宗像大社は、玄界灘に浮かぶ大島の「中津宮」と、沖ノ島の「沖津宮」並びに、九州本土の田島にある「辺津宮」の三社の総称である。そして当社の大宮司職を代々務めたのが、宗像大宮司家の宗像氏である。初代は延喜14年(914)から務めた清氏とされているが、実在の人物であったかははっきりしない


    白山城の歴史

    1182~1184(鎌倉時代)
     第36代宗像大宮司氏国築城、約380年間宗像家の本城としての役割をはたす。
     城跡には本丸、曲輪、竪堀跡が現存している。
     特に山の井と称し、岩盤を刳(えぐ)り貫いた井戸が残っており、これは全国にも例を見ない貴重な遺物である。

    1335
     足利尊氏、関東で天皇に叛き反乱を起こす。
    1336(2月)
     京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びてきた尊氏を白山城に迎え入れる(宗像軍記)
    1336(3月)
     宗像大宮司家は尊氏主従に軍備を整えさせて援護し、香椎の多々良浜で、熊本の菊池軍を奇跡的に破り勢いを盛り返した尊氏が室町幕府を開く


    尊氏は九州に下る際、後醍醐天皇側からの追討を防ぐため、海路であった瀬戸内周辺部に一族の配備と、地元有力豪族を味方に引入れている。四国では細川(和氏)、播磨には赤松円心(則村)、備前には石橋(足利一門)氏、備後に今川氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防には大嶋氏・大内氏、長門は斯波氏・厚東氏などである。

     こうした手筈を整えた上での九州上陸であったが、しかし九州では菊池氏や阿蘇氏といった後醍醐派の勢力が強く、尊氏は少弐氏や宗像氏といった僅かな味方を頼りに、筑前の地に足を踏み入れた。
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