茅渟の海、和泉、根使主、坂本氏

October 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
5世紀頃、奈良時代允恭天皇の離宮(衣通姫茅渟の宮)があった、現在の大阪府泉佐野市上之郷あたりに、離宮があっと古記には、しるされている。又、その地域のうみは、和泉国と淡路国との間の海(和泉灘)を茅渟海(ちぬのうみ)と古称したようです。茅渟と言う地名はそれ以前にすでに、有ったようです。別名海の離宮とも言われていた。
海の離宮に対し山の離宮が同時期存在した、奈良時代の前半にはこの離宮を中心に和泉監という特別行政区おき和泉国と言う一つの国が形成されていた(和泉の宮) 現在の和泉市府中町付近く、ここに茅渟と言う地名の由来の語源の形跡が有るのではないか、古墳時代の資料に、泉州最大の信太千塚古墳群の一つ。4世紀の前方後円墳、円笠山古墳に茅渟県主(ちぬのあがたぬし)一族や壬申の乱で功を立てた古代氏族坂本氏の家族墓と想定とある。

根使主が稲城を造り籠城した日根は、大阪府にあった日根郡(現在も大阪府泉佐野市に日根野の地名を残しています)のことと解釈されていますし、坂本氏の本拠も大阪府和泉市の阪本町や東阪本町だとされているのです。

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  • 奈良時代の前半にはこの離宮を中心に和泉監という特別行政区おき和泉国と言う一つの国が形成されていた(和泉の宮) 
    現在の和泉市府中町付近く、ここに茅渟と言う地名の由来の語源の形跡が有るのではないか、古墳時代の資料に、泉州最大の信太千塚古墳群の一つ。4世紀の前方後円墳、円笠山古墳に茅渟県主(ちぬのあがたぬし)一族や壬申の乱で功を立てた古代氏族坂本氏の家族墓と想定とある。
  • 雄略天皇の時代

    根使主は逃げ隠れて、日根(ヒネ=和泉国日根郡)に至って、稲城(イナキ=稲で作った城)を作って待ち戦いました。
    ついに官軍に殺されました。天皇は有司(ツカサツカサ=官僚・役人)に命じて、(根使主を)二つの子孫に分けて、

    一部を大草香部(オオクサカベ=和泉国大島郡日下部郷?)の民として、皇后に与えました。

    一部を茅渟県主(チヌノアガタヌシ)に与えて、負嚢者(フクロカツギビト)としました。

    難波吉士日香々(ナニワノキシヒカカ)の子孫を探し求めて、姓を与えて大草香部吉士(オオクサカベノキシ)としました。
    その日香香(ヒカカ)たちの語(コト=物語のこと)は穴穂天皇の紀にあります。
    事が平定した後に、小根使主(オネノオミ)は夜臥(フ)して人に語りました。
    小根使主は根使主の子です。

    「天皇の城は堅くない。わたしの父の城は硬い」
    天皇は人伝てにこの語(コト)を聞いて、使者を送って根使主の宅(イエ)を見させました。本当にその言葉の通りでした。それで捕らえて殺しました。根使主が後に坂本臣(サカモトノオミ)となったのはこれが始まりです。
  • October 2018 編集されました
    難波吉士日香々
    難波吉士日香々は大草香皇子の部下で大草香皇子が安康天皇に殺されたときに、大草香皇子を追って死んでしまった忠臣。
    この難波吉士日香々に根使主の子孫の一部を与えた、ということです

     『日本書紀』には、根使主(根臣)による虚偽の讒言によって、大草香王(大日下王)が
    安康天皇に殺害された時に、難波吉士日香香(なにわのきしのひかか)なる者が王に殉死
    したことがしるされています。

    『古事記』には、香坂王と忍熊王の反乱に際して、香坂王側の将として、難波吉師部の祖、伊佐比宿禰(いさひのすくね)の名が見えます

     『新撰姓氏録』には難波吉師部氏という氏族名が見られないのです。

     一方、『日本書紀』の方は伊佐比宿禰のことを、「吉師の祖、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)」と記しています。

     『新撰姓氏録』 には、摂津国の氏族の条に吉師の名が見え、

     「難波忌寸(きし)と同祖」、「大彦命の後なり」

     ちなみに、河内国の氏族の条には難波の名があり、こちらも

     「難波忌寸(きし)と同祖」、「大彦命の孫、波多武彦命の後なり」

    と、記されています。


  • 坂本氏は、『古事記』孝元天皇段によると、建内宿禰の子は九人とあり、「次に木角宿禰は〔木臣、都奴臣、坂本臣の祖〕」と記している。『新撰姓氏録』「河内国皇別」によると、摂津国皇別によると、「坂本臣」氏は「紀朝臣同祖、彦太忍信命孫武内宿禰命之後也」とあり、和泉国皇別では、「坂本朝臣」氏は「紀朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿祢之後也、男白城宿禰三世孫建日臣。因レ居賜二姓坂本臣一」、「左京皇別」では、「坂本朝臣」は「紀朝臣同祖、紀角宿禰男白城宿禰之後也」とある。

    『和名類聚抄』によると、和泉国和泉郡坂本郷(現在の大阪府和泉市阪本町あたり)が発祥の地となっている。

    一族には、河辺瓊缶の妻、甘美媛、丁未の乱にも参加し、601年(推古天皇9年3月5日)には天皇の命で任那救援のために、大伴噛とともに朝鮮半島に派遣された坂本糠手、壬申の乱の功績で小紫を送られた坂本財らがいる。
  • 16年後、『書紀』巻第十四によると、推定470年、雄略天皇は呉織・漢織らを連れて来日した呉(くれ、中国の南朝)の使節をもてなすべく、誰を共食者(あげたげびと)にするかと群臣に尋ねたところ、満場一致で根使主だと言うことになった。根使主の接待ぶりを見張るべく、密かに舎人を遣わして雄略天皇は、根使主のつけていた玉縵が立派で、以前にも着用していた、という報告を受けた。興味を持った天皇は、饗宴の時の服装を同じなりを根使主にさせて、引見した。その時、皇后となっていた草香幡梭姫皇女は、根使主の玉縵がかつて兄が自分のために贈ってくれた玉縵と同じものであると証言した。根使主は天皇の怒りを恐れ、そのことを認め、天皇は、「以後、根使主を『子子孫孫八十聯綿』(うみのこやそつづき)に、群臣の列に加えてはならぬ」と命じ、斬り殺そうとした。根使主は逃亡し、日根に到着して、稲城をつくって防戦したが、官軍に敗北し、殺された。

    天皇は根使主の罪を断罪し、同時に兄の先帝の過ちを謝罪するために、根使主の子孫を2つに分け、1つを皇后のための名代である大草香部の部民とした。もう1つを茅渟県主(ちぬ の あがたぬし)に与えて、「負嚢者」(ふくろかつぎのもの)とされた。さらに、大草香皇子に殉死した難波吉士日香蚊にカバネを与えて、大草香皇子の名に由来する「大草香部吉士」と名乗らせた、という。

    以上のような措置をしたにもかかわらず、根使主の遺児である小根使主(おね の おみ)は、

    「天皇の城(き)は堅(かた)からず、我が父の城は堅し」
    という自慢を寝物語にしたので、天皇はそのことを確認した上で、小根使主を殺した、という[3]。

    684年(天武天皇13年)、八色の姓で坂本臣一族は朝臣を賜姓されている[4]
  • 『日本書紀』巻十三によると、推定454年、大草香皇子(おおくさか の みこ)は根使主(ねのおみ)の讒言(ざんげん)を信じた安康天皇により殺されてしまった。この時に、皇子に仕えていた日香蚊とその2人の子供たちは、皇子が無実の罪で殺されたことを悲しんで、日香蚊は皇子の首を抱き、二人の子供たちは皇子の足をとらえて、以下のように唱えたという。

    「 「吾(わ)が君、罪旡(な)くして死(し)にたまふこと、悲(かな)しきかな。我(やつがれ)父子(かぞこ)三人(みたり)、生(い)きてまししときには事(つか)へまつり、死(し)にますときに殉(したが)ひまつらはずは、是(これ)臣(やつこ)だにもあらず」 」
    そう言って、自刎して、皇子の屍のかたわらで死んでいった。軍兵たちはみなこれを見て悲しみのなみだを流した、という[1]。

    『書紀』巻第十四によると、推定470年、前の月に呉織・漢織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて来日した呉(くれ、中国の南朝、現在の華南)の使節を接待していた雄略天皇は、根使主を呉人らの共食者(あげたげびと)に選んでいた。しかし、このことがきっかけで根使主の十数年前の「嘘」が露顕してしまい、根使主は攻め滅ぼされた。そして天皇は日香蚊の子孫を捜し回り、姓を与えて、大草香皇子の名にちなみ、「大草香部吉士」と名乗らせた、という[2]。

    『書紀』巻第二十九によると、子孫の草香部吉士大形は681年(天武天皇10年正月)に「難波連」の氏姓を授けられた。683年には草香部吉士氏全体も、「連」の姓を与えられた[3]。「八色の姓」制定により、685年、難波連氏は、「忌寸」の姓を授与されている
  • 『古事記』中巻には、難波吉師部の祖だとする伊佐比宿禰(いさい の すくね)が忍熊王の将軍に任命されたとあり、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条には麛坂皇子・忍熊王の武将に、吉師の祖先と称する五十狭茅宿禰(いさち の すくね)が東国の兵を興したとある。
  • 仁德天皇の時代

    『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。

    また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという
  • 紀 角(き の つの)

    『日本書紀』では「紀角宿禰(きのつののすくね)」、『古事記』では「木角宿禰」、他文献では「紀都奴」「都野宿禰命」「都怒足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。

    『古事記』では木臣(紀氏)・都奴臣(角氏)・坂本臣ら諸氏族の祖とする[。

    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている

    左京皇別 紀朝臣 - 石川朝臣同祖。建内宿禰男の紀角宿禰の後。
    左京皇別 角朝臣 - 紀朝臣同祖。紀角宿禰の後。
    左京皇別 坂本朝臣 - 紀朝臣同祖。紀角宿禰男の白城宿禰の後。
    右京皇別 掃守田首 - 武内宿禰男の紀都奴宿禰の後。
    河内国皇別 紀祝 - 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
    河内国皇別 紀部 - 建内宿禰男の都野宿禰命の後。
    和泉国皇別 坂本朝臣 - 紀朝臣同祖。建内宿禰男の紀角宿禰の後。
    和泉国皇別 紀辛梶臣 - 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
    和泉国皇別 大家臣 - 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
    和泉国皇別 掃守田首 - 武内宿禰男の紀角宿禰の後。
    和泉国皇別 丈部首 - 同上。
    そのほか『続日本後紀』承和3年(836年)3月11日条では、紀角宿禰後裔の坂本臣鷹野ら13人が朝臣姓を賜ったと見える。

    国造 編集
    『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。

    都怒国造
    難波高津朝(仁徳天皇)の御世に紀臣同祖の都怒足尼の子の田鳥足尼(鳥足尼/男島足尼)を国造に定める、という。のちの周防国都濃郡都濃郷周辺(現在の山口県周南市・下松市)にあたる
  • 丈部首 武内宿禰の裔 紀臣族 和泉神別
     ハセツカベ ・紀角宿禰の裔

    紀小弓宿禰 大伴談等の往新羅軍に従い戦死
         ・墓:田身輪邑(現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)
              =古代の地名:和泉郡日根郡深日郷

    高野氏 紀国造族 日根郡高村村より起こる
         ・高野 大名草命之後也

    船守神社」
         ・祭神:紀船守・紀小弓宿禰・五十敷入彦命
    ・創建:不詳
         ・鎮座地:大阪府泉南郡岬町淡輪4442
  • 垂仁天皇35年9月条
    五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った[1]。

    石上神宮(奈良県天理市)
    垂仁天皇39年10月条
    五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した[1]。
    同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという[1]。
    垂仁天皇87年2月5日条
    五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせた。これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という[1]。
    『古事記』垂仁天皇段では、印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(茅渟池)・ 狭山池(大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(高石池に同じか)を造ったという[1]。また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、同宮にて河上部を定めたという[1]。



    伊奈波神社(岐阜県岐阜市)の社伝によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。
  • October 2018 編集されました
    宇土墓と阿蘇ピンク石

    西暦925年に完成を見た「延喜式」諸陵寮に、

      宇度墓  五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町、南北三町、守戸二烟

    の記述があることから、現在、南海本線淡輪駅の直ぐ東にある淡輪ニサンザイ古墳(全長170m、方円墳)が「陵墓参考地」として指定され管理されていますが、研究者たちにより同墳の築造が五世紀後半を遡ることは無いと思われますので、少なくとも皇子の陵墓では有り得ません。そもそも書紀自体が彼の最晩年の記事(妹、大中姫に神宝の管理を譲る話)を載せながら彼の死去に関わる事柄について一切沈黙しているのは五十瓊敷入彦命という人物の実像を暗示していますが、淡輪の地に築かれた古墳を「敢えて」皇子のものだと伝えてきたのは垂仁帝のお気に入りで祭祀にも詳しい、ツノゴリの後裔を称えた鳥取氏一族だったと想像出来ます。また、垂仁紀には「ハニワ」作りの始祖・野見宿祢の物語も含まれているように大規模な墓陵の造営も盛んになったようです。平成に入ってから大阪・今城塚古墳の石棺材の一部が九州熊本から運ばれた物だと分かり、その産地が宇土半島の馬門であった事も明らかになりました。

    ・阿蘇ピンク石を使った古墳は岡山、大阪、奈良、滋賀に点在しているのですが、今回取り上げた「宇度(うど)墓」が何故、遠く離れた特別な石材産地と同じように呼ばれているのか?と云う謎の解明には至りませんでした。地元の教育委員会にも尋ねてみましたが、淡輪駅周辺に「うと・うど」の字を持った地域は一つも存在しておらず、記紀や延喜式の文章が最大の根拠のようです(菟砥川は阪南市自然田の近くを流れており、淡輪とは相当離れています)
    阿蘇ピンク石を含めた阿蘇溶結凝灰岩の産地は馬門だけではなく、最も早い時期(四世紀後半頃)に切り出されて近畿地方に運ばれた石材は馬門より南東の位置を流れる氷川(ひかわ)の下流域だったと推測されています。そして、宇度墓とは和泉山脈を挟んで反対側、紀ノ川沿いに築造された大谷古墳(全長67m、方円墳、和歌山市大谷)から阿蘇石の組合せ石棺が出土しているのです。この古墳は紀氏一族のものではないかと見られており、築造年代は五世紀後半まで降りますが、九州と和泉、紀州との間に古くから交流があり、葬送に関わる重要な資材が運び込まれていたことが明らかになっているのです。垂仁の皇子は紀州の直ぐ近くで剱作りに励みました
  • 稲背入彦王についても古事記は何も語らず謎の人物というしかありませんが、唯一の手がかりになりそうなものが、垂仁帝の系譜段にある、

      また旦波比古多多須美知宇斯王の娘、氷羽州比売命(日葉酢媛)の弟、阿邪美能伊理毘売命を娶して生みませる御子、阿邪美都比売命。
      (中 略)次に、阿邪美都比売命は稲瀬毘古王に嫁ひたまいき。

    の一文です。岩波古典文学大系の編集者も、この王子が景行の子・稲背入彦皇子か、と注釈を付けていますが恐らく「稲背入彦命」という王族の一員が垂仁帝の娘と一緒になること(婿入り?)で帝室の内部に組み込まれたものだと考えられるのです(唯、古事記が皇后・針間之伊那毘能大郎女の産んだ王子として、何故、櫛角別王と神櫛王の名前を別個に上げているのかは不明。書紀の神櫛王[五十河媛所生]兄弟に対応させたと考えるのが穏当だとは思うのですが…。尚、混乱を避けるため上の”円環”の所では敢えて註文を入れませんでしたが、古事記は櫛角別王を[茨田の下の連らの祖]、神櫛王を[宇陀の酒部の祖]だと書き分けています)。さて、非常に複雑な「改編」が施された稲背入彦王の事績を知る手掛かりは意外な所に在ります。それが、近江にある神社、兵主大社の『兵主大明神縁起』という資料です。

    八千矛神(大国主神)を主祭神とする同社には、

      オオクニヌシが天孫に国を譲った時、御杖にと「国平御矛」を授けられ宮中で祀っていたが、景行帝はその神威を畏み穴師に神地を選び
      兵主大神として、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をして、これを祀らしめた。その後、同天皇が近江国に遷都される時、また同皇子が宮城の
      近くの穴太に社地を求め、部属を率いて遷し祀った。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を東に移住するに際し、
      再び大神を奉じて今の地に鎮祭し御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め祀り、神主(氏上)の祖神と仰いだ。

      ① 継体帝が妃の一人として迎えた関媛の実家、茨田連は仁徳朝(つまり何代も前)から続く旧家であり祖先も親戚同志という伝承のある氏族だった(茨田屯倉の管理者か)。
      ② 同名の茨田勝は、景行帝の皇子、息長彦人大兄水城王を祖先とする一族だった。本貫の地は山城にあり茨田連との同族関係は不明。
         息長彦人大兄瑞城命=息前彦人大兄水城王=日子人大兄王=大江王(息長一族の祖?、仲哀皇后の父親)≒稲背入彦王?
      ③ 先代旧事本紀は櫛角別王という人物が茨田連の祖であり「新撰姓氏録」は五十香彦命(亦名、神櫛別命)が讃岐公の祖先だと記している。
         この「櫛角別王」と「神櫛別王」更には「神櫛王」は何れも同一人と思われ、日本書紀は景行帝と五十河媛との間に神櫛王と稲背入彦王が産まれたと記している。
         櫛角別王=神櫛別王=神櫛王=五十香彦命=五十河彦命(同様の書き分けが息子の稲背入彦王についても随所に施されていると考えられる。②参照)
      ④ 天皇本紀は五十河彦命が「讃岐直、五十河別の祖」と記し、茨田連の祖である「神櫛王」と同一人であると見られることから、書記が系譜上「兄弟」としてきた、
         神櫛王(讃岐国造、酒部公の祖)と稲背入彦王(針間直、播磨別)は実は「親子」の関係にあったと思われること。

    ホムタワケ・応神帝の父親は仲哀帝ではなく「稲背入彦命」だったか?

    「古事記伝」で知られる国学の大家、本居宣長は、その神櫛王について興味ある解釈を残しています。第二十九に含まれる「讃留霊王」にまつわる文章なのですが、大意を訳すと、

      讃岐国鵜足郡に祠があり、景行23年、倭建命の子讃留霊王が土佐の南の海に居た悪い大きな魚を退治した。そして留まり国主となった。
      これが綾氏、和気氏らの先祖ということだが、或いはこれを景行帝の御子・神櫛王なりとも又は大碓命なりとも云い伝えている。 
      讃岐の国主の始ま
  • 推古紀・船手王平とは船氏王後
    6月15日、客ら難波津に泊まれり。この日に、飾り船三十艘をもって客らを江口に迎えて、新しき館に安 置する。ここに中臣宮地連烏摩呂、大河内直糠手、船手王平をもって掌客とす。 (日本書紀)

    船史については、『書紀』には王辰爾を祖とするとあるが、王辰爾は『続日本紀』延暦九年(790)七月の条に、百済の貴須王の孫辰孫王の後とある。
    『新撰姓氏録』でも、船連は菅野朝臣同祖とあり、菅野朝臣は「出自百済国都慕王十世孫貴首王也」とある。貴首王は貴須王のことであろう。

    553年
    欽明きんめい天皇十四年(553)七月の条に「蘇我大臣稲目宿禰、勅を奉りて王辰爾を遣わして、船の賦みつぎを数へ録しるす。即ち王辰爾を以て船長とす。因りて姓を賜ひて船史とす。今の船連の先なり」とある記事について
  • 草香部氏は摂津長田と関係がある。大草香皇子の妻で後に安康妃となる中蒂媛皇女は雄略即位前紀にはまたの名として長田大娘皇女となっている。草香部氏が摂津長田から妃を迎えているわけだが、これは草香部氏が長田の氏族と結びついているか、あるいは長田を統属したことを示している。
      ところで、やはりこの長田と関係している氏族に大河内氏がある。摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという。この氏の出自については、菟原郡・雄伴郡を本拠としたが、河内へ進出したものとする論者もあるが、直木孝次郎氏は、本来は河内を拠点とした氏族であろうとしている(註1)。継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという。氏寺が雄伴郡(神戸市長田区)にあるのは、藤原氏が平城京に氏寺興福寺を建てたように本来の居地以外に氏寺を建てることがあるとしている。
      大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。草香部氏のいる長田に河内直が入ったのではなく、草香部氏が大河内氏を名乗ったものと見てよいだろう。
      安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。
      この話は造作色が強くそのまま信じるというわけにはいかない。茅渟県主に袋かつぎ人として与えられたという根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない。しかしこれらの話が全く根拠がないかとなるとそうではなく、氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。
      ここで注目したいのは、根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという記述である。
      坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。
      「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
  • 坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
      『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
      坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
             推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
      大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)
    この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。また、坂本氏、大河内氏がなにゆえに王権中枢にいるのかということも問われなければならない。それは両者とも草香部氏に発する氏族だからである。
  • 紀氏

    松尾社家系図 武内宿禰─紀角宿禰─紀白城宿禰─紀小弓宿禰─ 紀大磐宿禰─紀男麻呂
  • 角宿禰は 「大和国平群県紀里」に居住したとある
    武内宿禰の母山下影媛の居地も「紀里」と称し たので紀角宿禰とも称された。紀臣・角臣 ・坂本臣の租となった
  • 仁德天皇
    妃:日向髮長媛(諸縣君牛諸井之女)
    大草香皇子(大日下王・波多毘能大郎子)
    草香幡梭姫皇女(橘姫皇女・若日下部命) 雄略天皇皇后
  • October 2018 編集されました
    平群の紀氏
    聖徳太子が物部守屋の征伐の時に、聖徳太子と共にに参加した平群神手(へぐりのかみて)という人物がいて、苦戦が続き、兵の士気が衰えていたので、挽回と戦勝を祈願しに、椿井春日神社を訪れ、椿(つばき)の杖を突き立てると、不思議なことに杖は一夜にして芽を吹き、きれいな冷泉が湧きだしたとされます

    平群町史によると、平群坐紀氏神社の旧社地の隣の田の坪名が見えるのが、復元条里制地図より見て、椿井邑に当たり、 平群坐紀氏神社は元は椿井邑にあり、その神社が椿井春日神社ではないかと言われているそうです。

    平群氏が復権したのは第B世・ 平群神手の時代で、物部守屋追討の際に将軍として前線で戦った。その功労で復権し、のちに小徳紫冠

    椿井(つばい)神社は地名の由来となった井戸の近くにある。物部・蘇我の神仏戦争のこと、『(曽我軍の)平群神手将軍が戦勝を祈願して椿の杖を当地に突き立てて勝利を祈願すると、一夜にして杖が芽吹き冷泉が湧き出した・・・』という言い伝えがある。神社は五世紀後半の築造と考えられる宮山塚古墳の中にあり、神手将軍の祖先の墓と考えられる。一説ではここには元々紀氏神社があったが、藤原氏により他所に強制立ち退き(遷座)させられ春日神社に変わったという。
    日本書紀に、物部守屋を打ち果たした聖徳太子は、戦後四天王寺を建立したとあるが、その他、信貴山朝護孫寺、大聖勝軍寺そしてこの信貴山奥之院を建立したと伝わる。曽我・物部神仏戦争における聖徳太子と毘沙門天の伝説は数パターンあってやや混沌としているが、
    要は奥之院にある毘沙門天像は太子の手彫りということである。
  • October 2018 編集されました
    「平群氏春日神社」椿井春日神社
    奈良県生駒郡平群町椿井1278 mapfan


     社頭に椿井氏の子孫で平群氏八十二代正嫡の椿井一見氏(故人)奉納の「平群氏春日神社沿革記」がある。この抄を紹介しておく。

     平群氏は天大吉備諸進尊を祖とする、孝霊五十四年甲子十一月十三日薨じ、上辺槍掛山岡上陵平群坐神社と申す也。
     二代天岩床尊は平群郡勢益原丘上陵天岩床神社と申す也。
     景行朝堤原王は武内宿祢の養子となり、勅命により平群の姓を賜り二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀) は聖徳太子に従い守屋氏を討ち以て氏寺平群寺を勢益原丘に創建す、推古の朝
     三十四代式部卿従二位中納言直隅(日本書紀)大海皇子(天武天皇)に仕え吉野上市・大淀町増口(摩志口) に住壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す。自後始めて椿井を以て称号となす。(千三百年前)
    軍功により鈴鹿の関を拝領 自後椿井となる。
    此時社寺創建せしも戦国時代に織田信長の兵火により灰燼となる。現在伊勢一之宮椿大社是也。
    三十六代右中将懐房は藤原房前の養子となり仍て藤原の平群と称す。
     大和管領職越前懐泰は神護景雲二年正月九日河内平岡より三笠山に春日大明神を臨幸の供奉し以て初代興福寺 官務衆徒となる。
    天徳年間(年)伊予律師懐休初めて椿井寺並春日社を創建、当春日社の初め也。
    椿井寺の一部仏像は当村乾氏宅にあり、五十七代椿井中納言氏房は実は征夷大将軍藤原頼経の 三男なり、母の遺命により血脈を継ぐ為養子となり、弘安五年六月二日菊桐の御紋を賜し、 伊賀大和河内安房、四ヶ国の太守として勅贈正二位大納言となり当村に椿井城を築城せり。
    越前政里奈良探題となり館を奈良吉野町に移し以後椿井町と改む。永世年間懐慶政信公山城 一円を賜り園辺に居城を構え以後山城椿井と称し星霜二千二百有余年を経て今日に至る。
    斯くの如く古代より代々築かれたる平群一円の文化財を保護し後世に残し度き念願により以て 一文となす次第也。

     昭和四十八年十月吉日
      平群八十二代
           椿井一見氏

    『平群町史』によれば、古文書に紀氏神社、旧社地の隣の田の坪名が見え、これは復元条里制地図より見て、椿井邑に当たり、 紀氏神社は元は椿井邑にあったのではないかと指摘し、その神社が当春日神社であろうと推定している。
     この推測の背景には境内に接する宮山古墳との関連がある。この古墳は直径17mの円墳で、南に開口する片袖型横穴式石室を持つ。 玄室の壁はいずれも割石を小口積みとしており、天井石は一石。 築造年代は5世紀中期~末期、奈良県では最も古い時期の石室の一つ。 と説明されている。
  • October 2018 編集されました
    孝霊神社

    孝霊天皇は、紀によれば,孝安天皇と天皇の兄娘の押媛との間に生まれ、孝安天皇を御所市の玉手丘上陵に葬り,黒田に庵戸宮を営みました。

    庵戸宮は孝霊天皇が崩御し、第8代孝元天皇により軽境原宮(牟佐坐神社)に遷都されるまでの間政権の中枢となった場所です。
    近鉄・田原本線の黒田駅の南250M、聖徳太子が斑鳩の里と飛鳥の里を往来した太子道に面して鎮座しています

    孝安天皇が姪の忍鹿比売命(オシカヒメ=先代孝昭天皇の子の天押帯日子命の娘)を娶って産んだ子供が
    大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト)、
    大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)
    の二柱です。

    実は法楽寺の地は寺が建立される前は第七代孝霊天皇の庵戸宮(いおと)が営まれた場所です。
    法楽寺は孝霊天皇の庵戸宮跡に聖徳太子が建立したとされる寺です。黒田駅前の道は聖徳太子が斑鳩の里と飛鳥の里を往来した太子道です。

    孝霊天皇の皇子に吉備津彦がおり、吉備津彦は桃太郎のモデルで、この庵戸宮で誕生しました。
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