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志々伎神社 (長崎県平戸市) 神功皇后の三韓征伐に軍大将として参加した日本武尊の御子・十城別命を祀る 式内社 …
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コメント
祭神は5座
首座が倉稲魂神、社紋も稲穂
神社の話では外宮の豊受神を奉祭し、伊曽乃神社の天照大神に対応させている。
足仲彦尊(仲哀天皇)
気長足姫尊(神功皇后)、国魂愛比売、十城別王。
仲哀天皇の伝承
『日本書紀』によると、仲哀天皇の2年、熊襲が叛いて貢納しなかったので、足仲彦尊は征討のため穴門(山口県)に入り、豊浦津に宮を建てて居を構えた。敦賀にいた気長足姫尊もそこで落ち合って一緒に暮らしていた。
仲哀天皇の在位期間については、記紀で7年と9年の相違があるが、天皇自らが筑紫の香椎宮(かしいのみや)に移ったのは「書紀」によると崩御の前年であり、その間に3年なり、5年なりの準備期間があったわけである。
足仲彦尊と気長足姫尊が立ち寄ったのは、おそらく、この時期のことであったと考えられる。『伊予国風土記』逸文によると、夫婦が道後温泉に立ち寄ったことが記されている。このことから、二人の乗った龍船は後の和気郡(現在、松山市)に立ち寄ったのではないかと思われる。和気郡には天皇の異母弟にあたる十城別王がいた。
十城別王
飯積神社の標柱に「武国凝別命の孫、十城別命」との説明がある。
地元の説とのことで、和気系図あたりに依拠するものかもしれない。
『日本書紀』
吉備武彦の女(むすめ)吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)と日本武尊との間に生まれた子とある。吉備穴戸武媛は妃として、武卵王と十城別王を生んだ。武卵王は讃岐綾君の先祖である。十城別王は伊予別君の先祖である。
と記されていて、武卵王(たけかいごのきみ)とは兄弟だとされている。
『古事記』
吉備穴戸武媛は吉備武彦の妹(いも)となっていて、子は建貝児王(たけかいこのみこ)1柱のみを記し、讃岐綾君、伊勢之別、登袁別(とおのわけ)、麻佐首(まさのおびと)、宮首之別(みやのおびとのわけ)等の祖と説明している。
「伊予別君の先祖」と書かれているが、これは伊予地方の和気郡(現在は松山市)のこととされている。和気郡には阿沼美神社があり、ここに武国凝別命と十城別王の宮があったとの伝承が残されている。
飯積神社には十城別王のほかに国魂愛比売命が合祀されているが、愛比売命は伊豫豆比古命神社(通称椿さん)など松山周辺の祭神に多く見られる神名であるので、十城別王とともに、そちらから勧請したことが考えられる。
足仲彦尊はたぶん、この地にいる異母弟の十城別王を訪ねて来たのであろう。その船旅の一つの目的は、熊襲征伐のために十城別王の出陣と援軍を要請するためであったと想像される。
その旅の道すがら、道後に休息し、やはり援軍を依頼するためか、武国凝別命の御村に来た。
飯積神社に現在、天皇夫婦と並んで、十城別王と国魂愛比売命が祀られている
また風伯神社(西条市朔日市)社伝では、武国凝別命が海上守護のため風神の龍田神(奈良県生駒郡三郷町の龍田大社祭神)を奉仕したのが創祀という。そのほか飯積神社(愛媛県西条市)では、『和気系図』が武国凝別命の孫とする十城別王を祭神の1柱としている[
祭神は十城別命・鴨一隼戸命・七郎氏広。西海国立公園平戸島の南の鈎状に突き出した半島部に志々伎山(347メートル)があり、その中腹に鎮座し、山上に上都宮があり、山麓が海にせまり海食崖が発達した景勝地に辺都宮、沖の宮がある。『肥前国風土記』にすでに「志式嶋」とあり、『三代実録』貞観2年(860)にも「志々岐神」に従五位上を授かる記事がみえ、『延喜式』にも松浦郡にその名があり、「下松浦明神」とも称された古社である。
社記には十城別命は仲哀天皇の皇弟であり、『神明帳』頭注には「志志伎神社は稚武王弟、十城別命下松浦明神と号す」とある。弘仁2年(811)神体木像を安鎮し、志志岐神社と改めたのだという。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。
平戸観光再発見
http://www.hirado-net.com/history/cate01_02.php
2人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、
祭神として祀られています。
稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社
祭神
十城別王(ときわけのみこ)、武加比古王(たけかいこのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)、稲依王(いなよりのみこ)、
稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)
昔、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。しかし、十城別王命(ときわけのみこ)は、戦争が怖くなり、途中で引きかえしました。神功皇后は、その命令に違反している、と言って、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、あやまたず王を射通しました。
これ以後、この地を射通し「イトヲシ」といい、これが訛って、「印通寺」となった、という事です。また、皇后の箭を投げた地を「ナゲヤ」と言い、今は、名護屋と呼び、呼子村の西に在あります。名護屋は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際、名護屋城を築いた場所です。
式内社24社にいう、邇自神社は、ここではないかと、とも言われています。
この神社の境内には、いろいろな動物の彫り物がたくさんあります。
拝殿のなかには、みごとな、素晴らしい絵馬もあります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初、垂仁天皇(すいにんてんのう)の娘、両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、稲依王(いなよりのみこ)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと、足仲彦(たらしなかつひこ)ともいい、後の仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)という、子供がいました。
日本武尊は、又、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武姫(きびのあなとたけるひみ)とも結婚し、武加比古王(たけかいこのみこ、武卵王(たけかひごのみこともいう)と十城別王(とおきわけのみこ)という、子供がいます。
日本武尊は、さらに、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚し、稚武彦王(わかたけひこのみこ)という、子供がいます。