弥勒菩薩

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
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コメント

  • 書紀603年条に、太秦の秦河勝が、新羅使から贈られ聖徳太子が所有していた弥勒半跏思惟像を賜り、広隆寺(蜂岡寺)を創建したとある。新羅-聖徳太子-秦氏が弥勒像・弥勒信仰によって結び付けられている
  • 804年、最澄は入唐に先立って、和気氏や秦氏出の僧勤操の勧めもあってか、弥勒信仰の盛んな豊前に立ち寄り香春岳に登っている。唐留学を終えて無事帰国した折りも再訪し、香春社に神宮寺・法華院(法華経を通じての弥勒信仰という意。神宮院)を建てている。そして帰京後は、和気氏の高尾山寺に日本最初の灌頂道場を設けている。

     延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である
  • 若き空海は長岡京(平安京の前都。ここも秦氏の土地)で、前記の僧勤操から虚空蔵求聞持法(こくうぞう-ぐもんじほう)を学んだという。これは広大無辺の福徳・智慧を授かる秘法であった。その元は、帰国後に大安寺を開く僧道慈が入唐中(702~718年)に、インド僧・善無量三蔵から口承伝授されたものである。これを大安寺の善議-勤操を経て、空海へと伝授されたのだ。
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