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和気氏(わけうじ)は別氏とも書き、清麻呂の生家は先祖代々から和気郡司を務めた和気郡の伝統的名家です。「日本後記…
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コメント
それと分かるのは、『日本書紀』にある星川皇子の反乱の記事に、このことが記され
ているからです。
すなわち、清寧天皇の時代に、異母兄弟の星川皇子が反乱を起こした際、吉備上道臣
が星川皇子に加担しようとしたために、反乱終結後に収める山部を召し上げられてしまっ
た、という。
検証すると、日置氏が燈燭(油火や蝋火)を行い、鴨県主が庭火の薪炭を供給した、
と考えられる、というのは前にお話ししました。(井上光貞『日本古代国家の研究』
より参考)
日置と鴨県主はともに火に関わる職務に就いており、すると薪に利用する木の調達
にも関わっていた。
当社祭神が鐸比古命(ヌデヒコ)・鐸比売命(ヌデヒメ)であることは確かだが、記紀等にその名が見えず、出自不明。
社頭に掲げる案内には、
「鐸比古命は垂仁天皇の御子にして、記紀には沼帯別命或は鐸石別命とある」
とあり、古資料にも
・鐸比古命は和気清麻呂の遠祖なる垂仁天皇の皇子・鐸石別命の裔ならん--大阪府全志
・垂仁天皇第四皇子・鐸石別命並びにその妃を祀り、・・・--大阪府史蹟名勝天然記念物
とあり、垂仁の御子・鐸石別命(ヌテシワケ・書紀、古事記では沼帯別命・ヌタラシワケ)を充てている。
その根拠となるのが、岡山県備前市で発見された“備前国赤磐郡佐伯本村宇佐八幡宮縁起”(建武元年・1334)に記す、
「弘文院記(和気氏関係の古記録・平安末期)に曰く、鐸石別命は垂仁天皇の皇子也。成務天皇19年崩御。河内国大県郡高雄(高尾)山に葬る。同帝21年祠を建て之を祀り鐸彦(比古)神社と云ふ。
応神天皇元年、弟彦王(鐸石別命の曾孫)が河内国より備前国神村山に遷座奉る」(堅下村誌・1925)
といわれ(大正3年・1914、京都護王神社の社司・半井眞澄氏-和気氏子孫-発表)、この縁起前段によって、高尾山に葬られた鐸石別命を当社の祭神・鐸比古命に充てたもので、ヌデヒコ=ヌデシワケとするのは大正3年以後のことという(式内社調査報告・1979)。
また当社案内に、当社の創建を成務21年とするのも、この縁起をうけたものであろう。
鐸石別命は和気氏の祖神とされ、新撰姓氏禄には
「右京皇別 和気朝臣 垂仁天皇皇子鐸石別命之後也
神功皇后凱旋後起こった忍熊王の反乱のとき、皇后の命により、鐸石別命の曾孫・弟彦王が播磨と吉備の境に関(和気関)を設けてこれを防いた功により、乱平定後、吉備磐梨県を賜った(大意)」
とあり、忍熊王反乱時の功により弟彦王が賜った備前国磐梨郡(イハナシ)に勧請した鐸比古神社の分社(上記縁起後段)が、今、岡山県和気郡和気町に鎮座する和気神社で、当社から勧請した鐸石別命と弟彦命他を祀るという。
高尾山は、もと法善寺所属の飛地たりしが、明治21年(1888)飛地の整理によりて本地(大県)所属となる。・・・
山頂に鐸比古神社の址あり、高さ五丈・周囲凡九拾間・広さ百五拾坪の地にして、奇岩怪石屹立し、一小社を存して今に奥の院といふ。同所を下りて東方四拾間余の所に復た鐸比売神社の址あり。周囲参拾間広さ四拾四坪にして、巨岩累々雑木繁茂して人跡なし。里俗は其の地を比売御前と呼び、字を姫山と称せり