琅邪王、王仁

紀元前221年(始皇26年)、秦が斉を滅ぼして中国を統一すると、天下を36の郡に分けたが、このとき琅邪郡が置かれた。
郡治は琅邪県に置かれた。

前漢のとき、琅邪郡は徐州に属し、東武・不其・海曲・贛楡・朱虚・諸・梧成・霊門・姑幕・虚水・臨原・琅邪・祓・柜・缾・邞・雩叚・黔陬・雲・計斤・稲・皋虞・平昌・長広・横・東莞・魏其・昌・茲郷・箕・椑・高広・高郷・柔・即来・麗・武郷・伊郷・新山・高陽・昆山・参封・折泉・博石・房山・慎郷・駟望・安丘・高陵・臨安・石山の51県を管轄した。『漢書』によれば前漢末に22万8960戸、107万9100人があった。

新の王莽のとき、填夷郡(ちんいぐん)と改称した。

後漢が建国されると、琅邪郡の称にもどされた。
41年(建武17年)、光武帝の子の劉京が琅邪王に封じられると、琅邪郡は琅邪国に改められ、開陽県に郡治が置かれた。開陽・東武・琅邪・東莞・西海・諸・莒・東安・陽都・臨沂・即丘・繒・姑幕の13県を管轄した。

晋のとき、琅邪国は開陽・臨沂・陽都・繒・即丘・華・費・東安・蒙陰の9県を管轄した。

南朝宋のとき、琅邪郡は費・即丘の2県を管轄した。

北魏のとき、琅邪郡は北徐州に属し、即丘・費の2県を管轄した[6]。

北周のとき、北徐州は沂州と改められ、琅邪郡は沂州に属した。

583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、琅邪郡は沂州と改められた。

607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、沂州は琅邪郡と改称された。臨沂・費・顓臾・新泰・沂水・東安・莒の7県を管轄した。

621年(武徳4年)、徐円朗が唐に滅ぼされると、琅邪郡は唐の沂州となった。742年(天宝元年)、沂州は琅邪郡と改称された。758年(乾元元年)、琅邪郡は沂州と改称され、琅邪郡の呼称は姿を消した。

コメント

  • 近仇首
    (近)肖古王は375年に世を去ったため、嫡男の須が即位した。中国南朝の東晋に遣使した際には、「扶余須(ぷよ・す)」となっている。また、日本書紀にも「貴須(きす)王」となっている。これは、諱である須に、敬称の「貴」が加えられたものだ。

     けれども、三国史記では「近仇首」王と表記されている。「近」が頭につくのは、近肖古王と同じ理由で、後世に付加されたもの。「仇首」となっているのは、音が近いのと、おそらく、高句麗王を殺した恨み、悪名(?)から、後世、統一新羅または高麗時代に、「貴」という良い字ではなく、「仇」に換えられたと思われる。前回書いたように、父に従って高句麗に侵攻し、高句麗王・斯由(しゆう、さゆ、故国原王)を戦死させたからだろうか
  • September 2018 編集されました
    「古事記」の応神天皇15・16年の条に、

    「阿直岐(あちき)はよく経書を読んだ。そこで、皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師とされた。ある時天皇は、阿直岐に「あなたより経書に詳しい優れた学者は他にいるか」と問うた。阿直岐は「王仁という優れた人がいます」と答え、(天皇は)王仁を招き、菟道稚郎子の師にした。」という記事がある。「日本書紀」には、「応神天皇が百済に使者を遣わして日本に迎えた。渡来後、皇太子の師として典籍を教えた」とあり、又、「続日本紀」には、「また百済国にも「もし賢人がいれば」とおおせられた。それを受けて命令を受けたのが和邇吉師(わにきし)である。彼は論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻ととともに(日本へ)贈られた。」とあり、「王仁の子孫が文首(ふみのおびと)である西文(かわちのふみ)氏となった。」という。

    「古今和歌集」には王仁の歌として
    「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」というのがある。

    この歌は、難波京で即位した仁徳天皇への讃歌であるとされているが、「咲くやこの花」という表現や、大阪市此花区というのはこの歌から来ている。万葉集ではない。

    ーーー
    王仁の生地⁇という韓国南西部・全羅南道霊岩郡の「王仁廟」の写真などを展示し、毎年4月に開かれる「王仁文化祝祭」の様子も紹介されている。時折、韓国からの観光旅行や修学旅行でここに立ち寄る人も多いというし、金鍾泌元首相が立ち寄り、ヤマモモを植樹したそうである。儒学の縁で台湾を含め中国の研究者や学生も訪れるらしいが、考古学上の史料は一切なく、朝鮮においても、文献資料も考古学資料にも王仁は一切登場しない。
    JR学研都市線の長尾駅の王仁墓
    この墓は京都の儒学者並川五一郎(誠所)が、いわばねつ造したものである。実在すらも疑われている王仁が、ここで死んだなどと言う確証はないのに、伝聞と伝承で強引に王仁の墓にしてしまった。教育委員会はそれを知っているので、ことさらに「伝王仁墓」と「伝」を強調している。
  • September 2018 編集されました
    千字文と王義之

    南朝・梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。周興嗣は、皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え、皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない

    中国では智永(隋)、褚遂良(唐)、孫過庭(唐)、張旭(唐)、懐素(唐)、米元章(北宋)、高宗(南宋)、趙子昂(元)、文徴明(明)などの作品が有名で、敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片がある。
    遣隋使の頃以降に多く作成されている。

    千字文は「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全体が脚韻により9段に分かれている。

    用字
    全て違った文字で、一字も重複していない。ただし「女慕貞絜」の「絜」と「紈扇員潔」の「潔」は音も意味も同じであり、テキストによっては両方「潔」に作ったり、「潔」の異体字の「㓗」に作るものもある[
  • September 2018 編集されました
    千字文が朝鮮半島へ入った年代は特定することができない。世宗が訓民正音(ハングル)を発布した15世紀以降も、漢字はずっと朝鮮のもっとも重要な文字でありつづけ、千字文は子供の教科書または書の手本として使用された。

    『古事記』では、和邇吉師が応神天皇 (270–310) の治めていた頃の日本へ千字文と『論語』10篇を伝えたとされているが、これは千字文が成立する以前である。この矛盾については、記事自体をただの伝説であると捉えられたり、いくつかの事実を反映しているという意見や、別の千字の文が伝えられたという説がある。考古学では各地から見つかる律令期から奈良時代の木簡のなかに、文字の練習や書籍の文字を書き写したものがあり、それを習書と総称するが、この習書木簡に多く観られるのが『論語』と『千字文』であるため、漢字を学ぶ手本として比較的はやく大陸からもたらされたと考えられている[6]。

    正倉院へ光明皇后が寄進したときの目録『国家珍宝帳』(751年)には「搨晋右将軍羲之書巻第五十一眞草千字文」があり、国宝の『眞草千字文』がそれだと推定されている。正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた
  • September 2018 編集されました
    「王羲之蘭亭五種・王羲之草書千字文」は、王羲之蘭亭五種と王羲之草書千字文をあつめた本です。
    「王羲之蘭亭五種」は、習字の手本として古来もっともよく習われた行書の絶品。多数の臨模本、刻本の中より、張金界奴本、定武本など五種の善本を収録。

    王羲之(おうぎし)303頃-361頃。中国,東晋の書家。瑯や臨沂 (りんぎ。山東省) の人。字は逸少。官は右軍将軍,会稽内史にいたった。初め衛夫人の書風を習い,のち漢,魏の碑文を研究し,楷,行,草の各書体を完成して芸術としての書の地位を確立した。中国第1の書聖と尊敬される。彼の真跡は伝来しないが,唐代の双鉤填墨 (そうこうてんぼく) 本の『喪乱帖』,『孔侍中帖』などの尺牘 (せきとく) が,日本へ奈良時代から将来されて流行し,これによって羲之の書風をうかがうことができる。刻本では『蘭亭序』『十七帖』『聖教序』などが名高く,楷書の『黄庭経』『楽毅論』がある。日本の上代様の成立に多大の影響を及ぼした。第7子の王献之もすぐれた書家で,父とあわせて「二王」と称された。(ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より)

    353年(永和9年)3月3日、王羲之は名士や一族を名勝・蘭亭に招き、総勢42名で曲水の宴を開いた。その時に作られた詩27編(蘭亭集)の序文として王が書いたもの(草稿)が「蘭亭序」である。王は書いたときに酔っており、後に何度も清書しようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。いわゆる「率意」の書である。28行324字。

    王羲之の書の真偽鑑定を行った唐の褚遂良は『晋右軍王羲之書目』において行書の第一番に「永和九年 二八行 蘭亭序」と掲載している。

    自らが能書家としても知られる唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子である弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に他の作品とともに副葬させた話は、唐の何延之の『蘭亭記』に載っている。

    したがって、王羲之の真跡は現存せず、蘭亭序もその例にもれない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨模したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。

    墨跡では清の乾隆帝が蒐集した三点の模写本が有名である(北京故宮博物院所蔵)。

    八柱第一本は虞世南の臨模であろうと董其昌が推定した。墨気が抜けたうえに入墨も多く一見不鮮明であるが、西川寧は、王羲之の真跡に最も近い双鉤塡墨本であると評価している。元時代に張金界奴が献上したので、張金界奴本ともいう。
    八柱第二本は褚遂良の臨模ともされていたが、現在は北宋の無名の人の臨模と推測されている。線が細いのが特徴的である。
    八柱第三本は馮承素の臨模といわれる。筆路が鮮明であるのが特徴的で、高校の教科書などで紹介されることが多いが、逆にそれが不自然過ぎると指摘されることもある。割り印として使われた「神龍」の印が、端に半分残っているので神龍半印本ともいわれる。「神龍」は唐時代の年号である(2008年、江戸東京博物館で日本初公開された)。
    ともあれ、各臨模本を実際に初唐の能筆が臨模したという根拠はない。

    石板や木板に蘭亭序を模刻し、それから制作された拓本のなかで、古来最も貴ばれたものは、五代~北宋時代初期に碑石が定武郡で発見された定武本である。
  • 中国・北京故宮博物院が誇る100万点の宮廷コレクションの中で、門外不出とされてきた書の至宝が、日本で初公開されている。

    「蘭亭序」(らんていじょ)である。流麗な筆さばきで書かれた行書28行324文字。書の最高傑作といわれている。作者は、4世紀の中国で活躍した王羲之(おうぎし)。行書、草書を、洗練された美しい書体に仕上げた最大の功労者で、いまなお“書聖”としてあがめられている。
    王羲之は、「蘭亭序」の中で、20回出てくる“之”の字など、繰り返し登場する文字を、文脈に応じて違う形に書き分けた。そして、ところどころで極端に太い文字を書き、平板になりがちな全体の流れに絶妙な立体感を生み出した。さらに、一字一字の大きさを微妙に変えることで、不思議なリズム感を作った。あまたの表現方法が詰まった「蘭亭序」の文字は、空海を通じて、日本の書にも大きな影響を与え、その根幹の一つとなっている。
  •   蘭 亭 序         王 羲 之

    永和九年歳在癸丑暮春之初會于會稽山陰
    之蘭亭脩禊事也群賢畢至少長咸集此地有
    崇山峻領茂林脩竹又有清流激湍暎帶左右 〇「領」は、古く「嶺」と通じて用いられた。
    引以爲流觴曲水列坐其次雖無絲竹管弦之
    盛一觴一詠亦足以暢叙幽情是日也天朗氣
    淸惠風和暢仰觀宇宙之大俯察品類之盛所
    以遊目騁懷足以極視聽之娯信可樂也夫人
    之相與俯仰一世或取諸懷抱悟言一室之内
    或因寄所託放浪形骸之外雖趣舎萬殊靜躁
    不同當其欣於所遇蹔得於己怏然自足不知 〇「怏然」は「快然」が正しいとされる。
    老之將至及其所之既惓情隨事遷感慨係之
    矣向之所欣俛仰之閒以爲陳迹猶不能不以
    之興懷況脩短隨化終期於盡古人云死生亦
    大矣豈不痛哉毎攬昔人興感之由若合一契
    未甞不臨文嗟悼不能喩之於懷固知一死生
    爲虚誕齊彭殤爲妄作後之視今亦由今之視 〇「由」は「猶」と通用。
    昔悲夫故列叙時人録其所述雖世殊事異所
    以興懷其致一也後之攬者亦將有感於斯文


    《蘭亭序(らんていじょ)書き下し文》

    永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうざん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。又、清流(せいりう)激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りうしやう)の曲水と為(な)し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちやうじよ)するに足る。是の日や、天朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちやう)せり。仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。夫(そ)れ人の相与(あひとも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎやう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(くわいはう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。趣舎(しゆしや)万殊(ばんしゆ)にして、静躁(せいさう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。其の之(ゆ)く所既に惓(う)み、情(じやう)事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎやう)の閒(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為(な)る。猶(な)ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しうたん)化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。古人云へり、死生も亦(また)大なりと。豈(あ)に痛ましからずや。毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さたう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きよたん)たり、彭殤(はうしやう)を斉(ひと)しくするは妄作(まうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(また)由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)殊に事(こと)異(こと)なりと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(また)将(まさ)に斯(こ)の文に感ずる有らんとす。

    (注) 1. 「蘭亭序」の本文は、「蘭亭八柱第一本」(別名「張金界奴本」「虞世南
           臨本」「天暦本」)によりました。(廣瀬保吉、昭和45年5月20日発行、『コ
             ロタイプ精印 王羲之蘭亭序 張金界奴本』を参照しました。)
          2. 本文の字数は、324字です。(「怏然自足不知老之將至」の「不知老之
           將至」の前に「曾」を入れてある本文では、総数325字となります。下記の
           『古文真宝(後集)』(明治書院『新釈漢文大系 16』)所収の「蘭亭記」(らん
           ていのき)は、「曾」が入っているので325字になっています。)
  • September 2018 編集されました
    蘭亭

    この序文の書き出しに「永和九年、歳は癸丑(きちゅう)に在り、暮春の初め…」とあるように、時は東晋王朝、西暦353年、所は会稽山陰の蘭亭、現在の浙江省の紹興市、古くから紹興酒の産地として知られた所である。同地の郊外、蘭亭、名の通り蘭の花の多いところで暮春のある日王羲之は彼の友人知人など42人を招いて春の宴を開いた。「群賢ことごとく集まる」ということから、友人といっても選ばれた文人、通人であったと思えわれる。年長者も若者も曲がりくねった小川のほとりに思い思いに座を作った。

    この日は春の穏やかな日であり、酒もよくまわって宴も一段と盛り上がった。皆、教養人の集まりであり放歌高吟などなく、詩作をめぐって談笑があちこちで興る。詩のできないものは罰杯でも飲まされたであろう。

    宴も終わりになるころ、皆の作品が王羲之のもとに集められた。それらを一通りみて、これらの詩を作品集とするための序文を筆をとって書き上げた。気楽に書き上げたこともあり、脱字があれば後で書きこみ、気に入らない文字は塗り潰して無造作に書いて宴は終わった。 

     後日、王羲之は蘭亭で書いた序文を見てよく出来ていると思ったが、少し気に入らない部分があるので書き直しをした。しかし、何枚書いてもあの宴に日に書いた文字以上の字が書けず、とうとう書き直すことをあきらめたという話が伝わっている。これも「蘭亭序」の神秘性を高めるための伝説といえる。


    唐時代の太宗皇帝はその在世中、能書の臣下には蘭亭序の臨本を、宮中の専門職人には摸本を作らせました。蘭亭序は、はじめ臨本や摸本が珍重されましたが、次第にその数は少なくなり、やがて拓本が重んじられるようになりました。拓本も版の複製が繰り返されていくうちに、さまざまな系統に枝分かれしていきました。
    南宋時代には蘭亭序の拓本ブームが巻き起こり、上層階級である士大夫(したいふ)の間で一家に一石の蘭亭序を所有する風習が広まりました。当時は著名な蘭亭序だけでも800本を数えたといいます。明の董其昌(とうきしょう)は、「蘭亭に下拓(げたく)なし」という名言を残しました。蘭亭序の拓本につまらないものはなく、すべてに由緒があります。その来歴を読み解くのは実に楽しいものです。
  • 永和9年(353)3月、王羲之は会稽山陰の蘭亭に41人の名士を招き、詩会を催しました。これが有名な、蘭亭の雅宴です。王羲之を含め都合42人が曲水の畔に陣取り、上流から觴(さかずき)が流れ着くとその酒を飲み、詩を賦(ふ)します。しかし、詩が出来上がらなければ、罰として大きな觴の酒を飲まなければなりませんでした。
    この日、四言と五言の2編の詩をなした者11人、1編の詩をなした者15人、詩をなせず罰として大きな觴に3杯の酒を飲まされた者は16人でした。
    酒興に乗じて王羲之は、この詩会でなった詩集の序文を揮毫(きごう)しました。世に名高い蘭亭序です。28行、324字。王羲之は酔いが醒めてから何度も蘭亭序を書き直しましたが、これ以上の作はできず、王羲之も自ら蘭亭序を一生の傑作として子孫に伝えました
    ーーー
    王羲之の最高傑作「蘭亭序」は、隋時代に7代目の子孫・智永(ちえい)が所蔵していました。智永は王羲之の書法を伝えようと、30年間も楼上にこもり、800本もの「千字文」を書写して諸寺に奉納しました。唐時代には王羲之が神聖視され、宋・元・明・清時代に大きな影響を与えます。
    清時代、18世紀の末になると、考証学・金石学の発展にともない、王羲之を中心とする法帖の流れに疑問が持たれるようになります。翻刻を繰り返した法帖よりは、石碑や青銅器の拓本の方が、書の本来の面貌を伝えるとの認識が広がり、やがて碑学派が帖学派を凌ぐようになります。ここに千年以上に渡って続いた王羲之神話は崩壊し、中国の書の流れは大きく変貌をとげるのでした。
  • 山東の地域には姜尚が営邱に建てた斉国と、周公旦の長子白禽が曲阜に建てた魯国が史上に名高い。
    斉は春秋戦国時代に管仲の経済政策が効を奏して、桓公は最初の覇者となった。その死後斉は低迷するが、戦国時代に政権が田氏に移ってから国威を回復、都の臨徑は当時最大の都市となり、政治経済の中心として繁栄した。

    同時にいわゆる稷下の学として諸子百家の学もおこり、全国の学者が臨溜に集まった。
    また魯(現在の曲阜)には春秋末期に孔子が生まれている。孔子は儒教を創設したことで、後世の中国に計り知れない影響を及ぼした。孔子は、社会の秩序の基礎を、親に対する「孝」と兄に対する「悌(てい)」という家族道徳の実践によって完成される「仁」におき、人は身を修め家を斉(ととの)えたうえで、国を治め天下を平らかにすることができるとして、政治と倫理・道徳を関連させる人間中心の説を立てた。その言行は「論語」に記録されている。
    彼の学派を儒家と呼び、戦国時代に性善説をとなえた孟子や、性悪説をとなえた荀子は、孔子の思想をさらに発展させた。

    儒教は中国だけでなく、日本へも伝わり影響を与えている。日本への儒教の伝来は4~5世紀、王仁の経典伝来により儒教(儒学)思想が理解され、5世紀初め、大鷦鷯尊(おおさぎきのみこと=仁徳天皇)と莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)が3年間互いに位を譲りあう美談を生んだという。6世紀に入って、百済(朝鮮)から五経博士が渡来することによって儒教は本格的に摂取された。江戸時代には幕藩体制の安定とともに儒学ブ-ムが起こり、日本にも孔子廟が建てられた。江戸湯島の孔子廟(湯島聖堂)である。綱吉のとき、上野忍ヶ岡の林家の家塾弘文館を湯島に移し、大成殿を設け孔子を祀る。家塾も聖堂学問所として整備された。

     唐末、塩の密売人であった王仙芝が反乱を起こし、黄巣がこれに応じて主導権を握り、四川以外のほぼ全土を大混乱に陥れ、唐王朝の支配の根底を揺るがすに至った。いわゆる「黄巣の乱」である。この大乱の火の手があがったのは、ここ山東の地であった。
    この地が山東とよばれるようになったのは金王朝(1115~1234)が山東に東路・西路という行政区画をつくってからである。

    清代末期の19世紀、安徽省から山東・河南省に及ぶ地域に白蓮教系の捻軍の反乱が起こった。太平天国軍に呼応して清朝に戦いを挑んだのである。太平天国の滅亡後も勢力は続き、1865年には清軍を大敗させて一時気勢はあがったが、数年後には左宗棠によって山東省で殲滅された。
    19世紀の後半、山東の地はその地理的位置から国際的な紛争の火種をつぎつぎに抱えこむことになる。半島南部の良港である青島は1897年、宣教師の殺害を理由としてドイツに占領され、翌年にはその租借地となった。以後、青島はドイツ東洋艦隊の根拠地として開発された。
    イギリスは極東におけるロシア勢力の増強を監視していた。日清戦争後、三国干渉によって日本が遼東半島を清に返し、ロシアが旅順・大連を含む関東州を租借すると、すかさずイギリスは対岸の山東半島の先端部における良港の威海衛を租借した。1898年のことである。しかし、1922年に中華民国政府に返還された。
    19世紀末、山東における列強の侵略に対抗したのは義和団であった。最初は義和拳と称し、白蓮教系の邪教として清朝から弾圧されたが、キリスト教勢力の伸展をさまたげて民衆の共感を得、山東省で急速に力をのばした。また「扶清滅洋」をスローガンとして清朝に接近した。しかし山巡撫の袁世凱に弾圧されたため、天津・北京方面へ勢力を拡散させ、いわゆる義和団事変を引き起こして清朝の支配に最終的な打撃を与えたのであった。
     第1次世界大戦が起こると、日本も日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの根拠地青島を占領した。
    ついで大戦のためヨ-ロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年に中国の袁世凱政府に二十一ヵ条の要求をつきつけ、最後通牒を発して要求の大部分を承認させた。その主な内容に、山東省のドイツ利権の継承があった。日本政府は、大戦中の中国権益の拡大に対する列強の反感を緩和することにつとめ、1916年に第四次日露協約を締結して、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認し、翌年にはイギリスとの間に覚書を交換してドイツ権益の継承を確認させた。また、日本の中国進出にもっとも批判的であったアメリカとの間にも、同年石井・ランシング協定を締結し、中国の領土保全・門戸開放と日本の中国における特殊権益の承認とを確認しあった。第一次世界大戦は1918年に連合国の側の勝利に終わり、翌年パリで講和会議がひらかれ、ブェルサイユ宮殿で講和条約が調印された。日本は山東半島のドイツ権益を継承した。しかし、中国政府は国内の強い半日世論にささえられて、ドイツ権益の中国への返還を主張し、要求がいれられないと講和条約の調印を拒否した。中国は1917年にドイツ・オ-ストリアに宣戦して連合国の一員になっていたが、講和会議開始以来、大戦中に日本が拡大した権益の回収を要求する国民運動がおこり、学生のストライキ、日本製品の不買運動が展開されていた。山東半島のドイツ権益の中国への返還要求が講和会議で無視されると、1919年5月4日に北京で学生の講義運動が行なわれた(五・四運動)。

    1926年、国民党軍は総司令の蒋介石に率いられて北伐を開始した。日本は軍閥の張作霖を利用して東北および華北への侵略をはかっていたので、北伐軍を牽制するため田中義一内閣は居留民の保護を名目として、1927~28年に3次にわたる山東出兵を行なった。翌年にも派兵し、5月には国民党軍と衝突して市街戦が行われた(済南事件)。日本側はさらに大軍を派遣して華北を抑圧しようとしたが、排日運動が強くなったので一時ほこ先を納めたのであった。1922年のワシントン会議で中国への返還が決まり、同年末に返還された。
    第2次世界大戦後はアメリカ軍が進駐したが、1949年、国民政府とともに撤退した。

    侵略の残、青島ビ-ル
     列強侵略の副産物として、青島ビールがある。ドイツが青島を租借していた時代の1903年、ドイツ人の手によって設立された中国で最も古いビール工場。かつては英独ビール会社と呼ばれていた。青島市郊外の 山名水と浙江省寧波産の大麦を使って精製された中国随一の青島ビールは、ビールとしては唯一中国18名酒に名を連ねる絶品。アルコール度約3.5%。
     現在、青島ビ-ルは日本の朝日ビ-ルと合併を行なっており、中国国内で販売されている。朝日の「朝」を朝鮮の朝だと思い、朝鮮のビ-ルだとよく間違えられるそうだ。 ②ポスト大連を目指す青島の経済開発区青島市内にはステンドグラスが美しい教会やレンガ色の屋根の建物が並び、異国情緒があふれている。青島はかつて、小さな漁村だったが、1898年ドイツの膠州湾租借に伴って開港され、貿易港として大きくなっていった。現在では、同じ半島の北東部ある煙台とともに、沿海開放都市の1つとして、外国との合弁などの経済活動が活発になっている。

    青島の開発区は大きく3つに分かれる。環海開発区は青島市のほぼ中央に位置し、旧市街区と新市街区に分かれる。第三次産業が発展し、日本の大手ス-パ-(ジャスコ・ダイエ-)が旧市街地への進出を決めている。また、畧山区のハイテク工業団地では技術集約型企業が目立ち、欧米企業が多い。黄島経済技術開発区では、地元企業も進出するなど急速な市場経済の導入が図られている。
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