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扶桑国
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June 2018
December 2018 編集されました
カテゴリ:
倭国・倭人
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コメント
tokyoblog
June 2018
梁書の扶桑国・・・フソウコク
永元元年(499)に「沙門・慧深(慧深僧侶)」が荊州(ケイシュウ)すなわち長江中流地域に到り、土地の者に語った国。大漢国のさらに東・二万里にあるという。陸行の二万里は倭人伝の換算法で「歩いて200日」である。中部地方から東に200日歩いた所というと関東圏だろうか?
いま、その当否は措かざるを得ないが、それにしても不可解なのが「慧深僧侶」の存在だ。日本列島に仏教が初めてもたらされたのは日本書紀によると「欽明天皇の13年」(552年)が定説だからだ。もっとも538年と言う説もあるが、こちらは韓国で日本に仏教経典などを贈った百済の「聖明王」の墓の発掘によって否定されている。
慧深僧侶が499年に存在したとすれば、仏教は倭国には499年以前、すなわち通説よりも半世紀早く、日本列島に伝えられていたことになる。そのことでも驚きだが、慧深によれば扶桑国にはさらに時代を遡った458年(南宋の大明2年)には仏法が伝えられていた、という。
tokyoblog
June 2018
(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。
牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。
結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。
親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。
かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))
— 『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國[
tokyoblog
June 2018
大漢国
梁書では風変わりな倭人の国々を三つ挙げている。
文身国・・・倭国の東北七千里にある。人体には野獣のような文様があり、額に皺が三本あるが、その線の真っ直ぐなのは貴人で、短いのは賤民だとする。(中略)王の居る所は金や銀でもって飾っている。幅一丈(3メートル)もあり、そこには水銀を満たしている。雨が降ると、水は水銀の上を流れる。(後略)。
大漢国・・・文身国の東五千里にある。兵隊はおらず、戦うことも無い。風俗は文身国と同じだが、言語は異なっている。
tokyoblog
June 2018
梁書の倭国
倭は自ら太白の後と云い、俗は皆、文身す・・・で始まる倭人・倭国
晋の安帝の時、倭王・賛あり。賛死して弟・彌立つ。彌死して、子の済立つ。済死して、子の興立つ。興死して、弟・武立つ。
斉の建元中、武を「持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。
高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり。
高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり・・・高祖は梁の初代・武帝のこと(在位502~549年)。
この記事については両論があり、一つは倭人の使者が実際に朝貢し、武帝から「征東大将軍」の称号を除されたとし、もう一つは、朝貢はなくても新しく王朝を建てた始祖王は自動的に蕃夷を除正し、権威を内外に知らしめるものである、と考えている。
しかし後者については疑問がある。それは武帝の長男である昭明太子は『文選』を著したが、その中に新羅の使者などと並んで、「倭人の使者」の図が載せられているのである。実際に使者を目の当たりにしなければ到底描けない写実性を持った図と思われる。
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永元元年(499)に「沙門・慧深(慧深僧侶)」が荊州(ケイシュウ)すなわち長江中流地域に到り、土地の者に語った国。大漢国のさらに東・二万里にあるという。陸行の二万里は倭人伝の換算法で「歩いて200日」である。中部地方から東に200日歩いた所というと関東圏だろうか?
いま、その当否は措かざるを得ないが、それにしても不可解なのが「慧深僧侶」の存在だ。日本列島に仏教が初めてもたらされたのは日本書紀によると「欽明天皇の13年」(552年)が定説だからだ。もっとも538年と言う説もあるが、こちらは韓国で日本に仏教経典などを贈った百済の「聖明王」の墓の発掘によって否定されている。
慧深僧侶が499年に存在したとすれば、仏教は倭国には499年以前、すなわち通説よりも半世紀早く、日本列島に伝えられていたことになる。そのことでも驚きだが、慧深によれば扶桑国にはさらに時代を遡った458年(南宋の大明2年)には仏法が伝えられていた、という。
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。
牛の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。
結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。
親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。
かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))
— 『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國[
梁書では風変わりな倭人の国々を三つ挙げている。
文身国・・・倭国の東北七千里にある。人体には野獣のような文様があり、額に皺が三本あるが、その線の真っ直ぐなのは貴人で、短いのは賤民だとする。(中略)王の居る所は金や銀でもって飾っている。幅一丈(3メートル)もあり、そこには水銀を満たしている。雨が降ると、水は水銀の上を流れる。(後略)。
大漢国・・・文身国の東五千里にある。兵隊はおらず、戦うことも無い。風俗は文身国と同じだが、言語は異なっている。
倭は自ら太白の後と云い、俗は皆、文身す・・・で始まる倭人・倭国
晋の安帝の時、倭王・賛あり。賛死して弟・彌立つ。彌死して、子の済立つ。済死して、子の興立つ。興死して、弟・武立つ。
斉の建元中、武を「持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。
高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり。
高祖即位し、武を征東(大)将軍に進めり・・・高祖は梁の初代・武帝のこと(在位502~549年)。
この記事については両論があり、一つは倭人の使者が実際に朝貢し、武帝から「征東大将軍」の称号を除されたとし、もう一つは、朝貢はなくても新しく王朝を建てた始祖王は自動的に蕃夷を除正し、権威を内外に知らしめるものである、と考えている。
しかし後者については疑問がある。それは武帝の長男である昭明太子は『文選』を著したが、その中に新羅の使者などと並んで、「倭人の使者」の図が載せられているのである。実際に使者を目の当たりにしなければ到底描けない写実性を持った図と思われる。