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天山神社
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June 2018
December 2018 編集されました
カテゴリ:
神社
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タグ付けされた:
天村雲
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tokyoblog
June 2018
June 2018 編集されました
綾部郷と綾部一族
綾部八幡神社 由緒書に
推古天皇の628年、来目皇子が新羅征伐の際、播磨国の帰化人忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着して風神(バアヤベイ)を祀って里を作った。この漢部を綾部と書き改めた。バアーヤーベーからアヤベとなったとも推定される。
推古紀には忍海漢人のことは出てきません。
『肥前国風土記』の方に「綾部郷」のことが書かれていました。「三根郡」にその名が出てきます。
漢部(あやべ)の鄕 郡役所の北にある。
昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅し軍衆として連れて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の鄕という。
この綾部八幡神社は古来の伝承を今に伝える古社でした。
tokyoblog
June 2018
来目皇子は聖徳太子の弟
『日本書紀』によると、「推古10年2月に来目皇子を新羅征伐の将軍に任命し、もろもろの神部(かむとものを)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)ら合わせて2万5千人の軍衆を授けた。」とあります。
2月。真冬の決定です。2万5千人も大移動した!この人数にはいったいどれほどの食糧が必要でしょうか。船はどれほどあったのでしょうか。
屯倉の蔵が解放されたことでしょうが、博多沿岸は一気に人口が倍増して、大変な状況だったと思われます。
書紀の続きには
「夏4月1日に将軍来目皇子は筑紫に到着。志摩郡で駐屯、船舶を立詰めて兵糧を運んだ。」と書いてあります。
しかし、6月3日、志摩郡で来目皇子は病に臥し、翌年2月4日に薨去しました。将軍となってわずか一年でした。
この2万5千人の中に忍海漢人の集団がいたのでしょう。彼らは糸島とは山を隔てたこの谷筋の風を見極め、兵器を造ったのでしょうが、その準備がわずか一年で整ったのか、疑問が残ります。
さて、将軍の死の知らせはすぐにここまで届いたでしょうか。届いたとしても戦争を中止する訳ではないので、鍛冶工人たちはここに留まって武器製造にいそしんだことでしょう。
そして二か月後、4月に当麻皇子が次の将軍に任命されるも、妻が途中で病死。当麻皇子は引き返したのでした。
tokyoblog
April 2019
妙見信仰は中国古来の北極星(北辰)と北斗七星を祀る信仰に、道教が拘わったもの。仏教においては天部の一、妙見菩薩として祀られた。妙見菩薩は他の印度由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものとされる。妙見神は神道では「天御中主神」と習合した。故に、明治の神仏分離令においては、八代妙見宮など多くの妙見社が「天之御中主神」を祭神としている。
古く、妙見宮であったという倉敷の総鎮守、「阿智神社」は社記で「神功皇后三韓外征の途次、暗夜に航路を見失ない給い宗像三神に祈願さる。時に三振の剣輝きてこの地に下る。よってこれを祀り明剣宮と称す。」とする。ここでは妙見が「明剣(みょうけん)」とされ、明治7年になって主祭神が宗像三女神にされたという。
妙見神は明治の神仏分離令以前にも忌避された経験をもつ。延暦15年(796年)、朝廷は妙見信仰が統制できぬことを畏れ、「北辰祭の禁止令」として妙見の祭祀を禁止している。
福岡の油山や取材で行った安心院、龍王山の山腹に海神、綿津見神を祀る「海神社(わたつみ)」が鎮座していた。なぜ、こんな山の中にと思う場所に海神が祀られていた。
これらの社は明治の神仏分離令において、水源神として祀られていた八大竜王が「竜」つながりの海神、綿津見神や豊玉姫祭祀とされたものであるらしい。が、本来、海神(わたつみ)は海蛇トーテムとされ、竜ではない。豊玉姫は八尋和邇(やひろわに)、鮫であった。確かに、綿津見神や豊玉姫が住む海神の宮は「竜宮」とされる。そこで海神と八大竜王が竜でつながったものか。
海の中道の付根に在る、三苫の「綿津見神社」の境内にも「八大竜王社」と刻まれた扁額や石灯籠が残されている。この社は海神を祀っていた社が、中世に八大竜王祭祀となり、明治の神仏分離令において再び、海神祭祀に戻ったものといわれる。
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綾部八幡神社 由緒書に
推古天皇の628年、来目皇子が新羅征伐の際、播磨国の帰化人忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着して風神(バアヤベイ)を祀って里を作った。この漢部を綾部と書き改めた。バアーヤーベーからアヤベとなったとも推定される。
推古紀には忍海漢人のことは出てきません。
『肥前国風土記』の方に「綾部郷」のことが書かれていました。「三根郡」にその名が出てきます。
漢部(あやべ)の鄕 郡役所の北にある。
昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅し軍衆として連れて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の鄕という。
この綾部八幡神社は古来の伝承を今に伝える古社でした。
『日本書紀』によると、「推古10年2月に来目皇子を新羅征伐の将軍に任命し、もろもろの神部(かむとものを)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)ら合わせて2万5千人の軍衆を授けた。」とあります。
2月。真冬の決定です。2万5千人も大移動した!この人数にはいったいどれほどの食糧が必要でしょうか。船はどれほどあったのでしょうか。
屯倉の蔵が解放されたことでしょうが、博多沿岸は一気に人口が倍増して、大変な状況だったと思われます。
書紀の続きには
「夏4月1日に将軍来目皇子は筑紫に到着。志摩郡で駐屯、船舶を立詰めて兵糧を運んだ。」と書いてあります。
しかし、6月3日、志摩郡で来目皇子は病に臥し、翌年2月4日に薨去しました。将軍となってわずか一年でした。
この2万5千人の中に忍海漢人の集団がいたのでしょう。彼らは糸島とは山を隔てたこの谷筋の風を見極め、兵器を造ったのでしょうが、その準備がわずか一年で整ったのか、疑問が残ります。
さて、将軍の死の知らせはすぐにここまで届いたでしょうか。届いたとしても戦争を中止する訳ではないので、鍛冶工人たちはここに留まって武器製造にいそしんだことでしょう。
そして二か月後、4月に当麻皇子が次の将軍に任命されるも、妻が途中で病死。当麻皇子は引き返したのでした。
古く、妙見宮であったという倉敷の総鎮守、「阿智神社」は社記で「神功皇后三韓外征の途次、暗夜に航路を見失ない給い宗像三神に祈願さる。時に三振の剣輝きてこの地に下る。よってこれを祀り明剣宮と称す。」とする。ここでは妙見が「明剣(みょうけん)」とされ、明治7年になって主祭神が宗像三女神にされたという。
妙見神は明治の神仏分離令以前にも忌避された経験をもつ。延暦15年(796年)、朝廷は妙見信仰が統制できぬことを畏れ、「北辰祭の禁止令」として妙見の祭祀を禁止している。
福岡の油山や取材で行った安心院、龍王山の山腹に海神、綿津見神を祀る「海神社(わたつみ)」が鎮座していた。なぜ、こんな山の中にと思う場所に海神が祀られていた。
これらの社は明治の神仏分離令において、水源神として祀られていた八大竜王が「竜」つながりの海神、綿津見神や豊玉姫祭祀とされたものであるらしい。が、本来、海神(わたつみ)は海蛇トーテムとされ、竜ではない。豊玉姫は八尋和邇(やひろわに)、鮫であった。確かに、綿津見神や豊玉姫が住む海神の宮は「竜宮」とされる。そこで海神と八大竜王が竜でつながったものか。
海の中道の付根に在る、三苫の「綿津見神社」の境内にも「八大竜王社」と刻まれた扁額や石灯籠が残されている。この社は海神を祀っていた社が、中世に八大竜王祭祀となり、明治の神仏分離令において再び、海神祭祀に戻ったものといわれる。