事勝国勝長狭命

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州

コメント

  • May 2018 編集されました
    胡宮神社
    伊邪那岐命 伊邪那美命 事勝国勝長狭命
    ご由緒書を転載します。

    「当社は第三十代敏達天皇の勅願、或いは聖徳太子の創祠の仁祠、或いは多賀大社二座の一とも伝えられ、古くは青龍山頂の『磐境』信仰にその起源をなし、鎌倉時代の頃から敏満寺(天台)の鎮守の神として祀られて来たのである。故に当社の沿革は敏満寺の歴史の中に伺われることが多く、また一方多賀大社との関係も深い。申すまでもなく御祭神は天照大御神の御親神にましますと共に我国の国土山川草木を生成し永く群品の始祖と仰がれ給うのである、この二柱の大神が青龍山の聖地に御鎮座になり、その神格よりして寿福の神、命乞の社として崇められ、建久の昔、かの有名な僧俊乗坊重源が東大寺再興の砌り当社に延寿の祈願をしたと云はれ、殊に童子を守護し給うとして赤染衛門が願文を奉ったと伝えられ、江戸時代には畏くも禁裡仙洞御所の御乳人が参詣せられ皇子皇女の御安穏を祈願され、又授子授産の神、鎮火の神として崇敬されている。当社戦国時代元亀天正の兵火に罹ったが、将軍家密に尽力により寛永十五年に復興した、江戸時代には福寿院が別当として奉仕し殊に安永より享和の頃声海世代の時には社運隆盛を極めた。」
    住  所:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺

    事勝国勝長狭命が祀られています。

    この神様は、塩土翁の別名とされているのですが、それがわかる箇所を日本書紀一書(第四)から引用してみましょう。

    「高皇産霊尊が、真床覆衾をもって、天津彦国光彦火瓊々杵尊にお着せになって、天磐戸を引きあけ、天八重雲を押し分けてお降しになった。そのとき大伴連の遠祖、天忍日命、来目部の遠祖、天櫛津大来目をひきいて、背には天磐靫を負い、臀には高鞆をつけ、手には天梔弓・天羽羽矢をとり、八目の鏑矢をとりそえ、また柄頭が槌のような形の剣を帯びて、天孫の前に立って降って行き、日向の襲の高千穂の、くし日の二上峯の天の浮き橋に至り、うきじまのたいらにお立ちになって、膂宍の空国を丘続きに求め歩いて、吾田の長屋の笠狭の崎につかれた。ときにそこに一人の神があり、名を事勝国勝長狭といった。そこで天孫がその神に問われるのに、『国があるだろうか』と。答えていう『あります』と。そして『勅のままに奉りましょう』と。それで天孫はそこにとどまられた。

    その事勝国勝神は、伊奘諾尊の子で、またの名を塩土老翁という。」

    つまり、事勝国勝神は、瓊々杵尊が降臨した時に、最初の土地を献上した神であるということになり、瓊々杵尊にとっては大叔父にあたる。

    伊勢は多賀の子

    お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さまには月まいり お伊勢まいらば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる ...
  • 本当かどうか?

    天孫瓊々杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名、吾田国主事勝国勝長狭命は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられると、瀬戸内海に進出した隼人族は主張した。すなわち、命は宗像氏の長である。吾田国は宗像、津屋崎、相島辺りである。

    事勝国勝長狭に関し、北部九州で「勝」 の字が付くのは、安曇氏の勢力圏の志賀島の勝馬、津屋崎の勝浦、宮地嶽神社の祭神(主神 神功皇后、従神 勝村大神 勝頼大神)。

    ニニギ命が最後に宮を建てた国が刺国であった。津屋崎の地名由来は神功皇后の伝説で神功皇后がこの地で杖をついて休まれたことから「杖刺し→津屋崎」となった。刺国大神とは、事勝国勝長狭であり、宮地嶽神社の勝村大神、勝頼大神である。
  • 宮地嶽神社の勝村、勝頼両神
    織物を司る勝部であり、津屋崎の縫殿神社(福津市奴山)で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏(安曇氏)と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない。この辺りは、宗像氏の勢力圏でもあり、古墳群(新原・奴山古墳群)があり、アマツヒタカミヒコホホデミノミコトの墓がある
  • 宮崎康平先生は「島原は吾田勝の地」だと書いてた
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。