大中津日子命、鐸石別命

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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大中津日子命 垂仁天皇の皇子であり、五十瓊敷入彦命の弟。古事記では男性であるが、日本書紀などでは「大中姫命」で…

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  • 纐纈は現在では音で「こうけつ(文語ではカウケツ)」と訓まれることが多く、岐阜県に集中して見られる苗字として知られていますが、もとは「ククリ」と訓まれ、「キクトヂ・ハナブサ」とも訓まれ、布の染色方法に由来します。この辺の詳細な事情は、吉川弘文館発行の『国史大辞典』「くくりぞめ(絞染)」の項(今永清士氏執筆)をご覧いただければ分かると思われますが、絞染(括染)とは布帛に模様を染め表すため糸などで結縛布地を防染する手法で古くから中国・インドなどで発達してきたものであり、天平三纈の一つが纐纈とされます。江戸時代の絞染で注目すべきは庶民の衣服に見られる木綿絞だと上掲書に記されますが、古代でも麻や木綿の染め方として用いられたと推されます。というのは、「くくり・はなぶさ」という地名が麻などの古代の衣服管掌氏族(及びその後裔)の分布地に現れるからです。

      いま久々利・纐纈・花房という地名が最も知られるのは美濃(岐阜県)です。久々利は全国でも可児郡可児町(現可児市)久々利だけですし、纐纈は可児郡御嵩町中の南町に纐纈神社が鎮座しています。花房については、加茂郡七宗町(もと武儀郡七宗村)の上麻生大柿にあり、花房山は揖斐郡(久瀬村と藤橋村の村境)にあります。これに関連して、北九州市若松区の花房山城が当地の中世豪族麻生氏により築かれたという事情もあります。
      『書紀』景行四年条には、美濃のククリの地名が見えます。すなわち、景行天皇の行宮泳宮(くくりのみや)があげられ、天皇が美濃に行幸され、八坂入彦皇子の娘弟姫を妃にしようとした故事が記されます。『万葉集』にも「ももきねの美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に ……」(歌番3242)と見えますから、ククリが古い地名と知られます。「泳」がククリと訓まれるのは、『古今集』に収める在原業平朝臣の歌「千早振る 神代も聞かず 竜田川 唐紅に水括るとは」からも知られます。
  • 古事記
    中つ巻(垂仁天皇6)

    大帶日子淤斯呂和氣天皇坐纒向之日代宮 治天下也
    此天皇娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毘能大郎女
    生御子櫛角別王
    次大碓命
    次小碓命亦名倭男具那命【具那二字以音】
    次倭根子命
    次神櫛王【五柱】
    大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、纒向之日代宮(まきむくのひしろのみや)に坐(ま)し、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
    此の天皇、吉備臣(きびのおみ)等(ら)之祖(おや)若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)之(の)女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおほいらつめ)を娶(めあは)せ、
    生(あ)れましし御子、櫛角別王(くしつのわけのみこ)、
    次に大碓命(おほうすのみこと)、
    次に小碓命(をうすのみこと)、亦の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)【「具那」の二字(にじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】、
    次に倭根子命(やまとねこのみこと)、
    次に神櫛王(かむくしのみこ)を生みたまふ【五柱(いつはしら)なり】。

    又娶八尺入日子命之女八坂之入日賣命
    生御子若帶日子命
    次五百木之入日子命
    次押別命
    次五百木之入日賣命
    又妾之子 豐戸別王
    次沼代郎女
    又妾之子 沼名木郎女
    次香余理比賣命
    次若木之入日子王
    次吉備之兄日子王
    次高木比賣命
    次弟比賣命
    又(また)八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)之女(むすめ)、八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)を娶せ、
    生れましし御子、若帯日子命(わかたらしひこのみこと)、
    次に五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)、
    次に押別命(おしわけのみこと)、
    次に五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)、
    又妾(をむなめ)之子(みこ)、豊戸別王(とよとわけのみこ)、
    次に沼代郎女(ぬましろのいらつめ)、
    又妾之子、沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)、
    次に香余理比売命(かぐよりひめのみこと)、
    次に若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)、
    次に吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ)、
    次に高木比売命(たかきひめのみこと)、
    次に弟比売命(おとひめのみこと)なり。

    又娶日向之美波迦斯毘賣
    生御子豐國別王
    又娶伊那毘能大郎女之弟伊那毘能若郎女【自伊下四字以音】
    生御子眞若王
    次日子人之大兄王
    又娶倭建命之曾孫名須賣伊呂大中日子王【自須至呂四字以音】之女訶具漏比賣
    生御子大枝王
    又、日向(ひむか)之(の)美波迦斯毘売(みはかしびめ)を娶せ、
    生(あ)れましし御子、豊国別王(とよくにわけのみこ)、
    又、伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)之(の)弟(おと)伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)【「伊」自(よ)り下(しも)つかた四(よ)字(じ)音を以ゐる。】を娶せ、
    生れましし御子、真若王(まわかのみこ)、
    次に日子人之大兄王(ひこひとのおほえのみこ)なり。
    又倭建命之曽孫(ひひこ)、名は須売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこ)【「須」自り「呂」に至る四字音を以ゐる。】之女、訶具漏比売(かぐろひめ)を娶せ、
    生れましし御子、大枝王(おほえのみこ)なり。

    凡此大帶日子天皇之御子等所錄廿一王不入記五十九王
    幷八十王之中 若帶日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名
    自其餘七十七王者 悉別賜國國之國造亦和氣及稻置縣主也
    凡(おほよそ)此の大帯日子天皇之(の)御子等(ら)、所録(しるさるる)廿一(はたみはしらあまりひとはしらの)王(みこ)、不入記(しるさるるにいれざる)五十九(いはしらあまりここのはしらの)王、
    并(あはせて)八十(やそはしら)の王之(の)中、若帯日子命与(と)倭建命、亦(また)五百木之入日子命、此の三(みはしらの)王に、太子(ひつぎのみこ)之(の)名(みな)を負(お)ほしたまひ、
    其の余(あまり)自(よ)り七十七(ななそはしらあまりななはしらの)王(みこ)に者(は)、悉(ことごとく)国国(くにぐに)之(の)国造(くににみやつこ)亦(また)和気(わけ)及(および)稲置(いなき)県主(あがたぬし)を別(わけ)賜(たまは)りき[也]。

    故 若帶日子命者治天下也
    小碓命者平東西之荒神及不伏人等也
    次櫛角別王者【茨田下連等之祖】
    次大碓命者【守君大田君嶋田君之祖】
    次神櫛王者【木國之酒部阿比古宇陀酒部之祖】
    次豐國別王者【日向國造之祖】
    故(かれ)、若帯日子命者(は)天下を治(をさ)めたまふ[也]。
    小碓命者(は)東(ひむがし)西(にし)之(の)荒(あらぶる)神(かみ)及(および)不伏(くだらざる)人等(ら)を平(やは)す[也]。
    次に櫛角別王者【茨田下連(まむたのしものむらじ)等(ら)之(の)祖(おや)なり】。
    次に大碓命者【守君(もりのきみ)、大田君(おほたのきみ)、嶋田君(しまだのきみ)之祖なり】。
    次に神櫛王者【木国之酒部阿比古(きのくにのさかべのあびこ)、宇陀酒部(うだのさかべ)之祖なり】。
    次に豊国別王者【日向国造(ひむかのくにのみやつこ)之祖なり】。

    於是天皇 聞看定三野國造之祖大根王之女名兄比賣弟比賣二孃子其容姿麗美而
    遣其御子大碓命以喚上
    故其所遣大碓命 勿召上而卽己自婚其二孃子 更求他女人詐名其孃女而貢上
    於是天皇知其他女 恒令經長眼亦勿婚而惚也
    於是(ここに)天皇、三野国造(みののくにのみやつこ)に定めし[之]祖(おや)、大根王(おほねのみこ)之(の)女(むすめ)、名は兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)二(ふたりの)嬢子(をみな)、其の容姿(すがた)麗美(うるはし)と聞看(きこしめ)て[而]、
    其の御子大碓命を遣はし、以ちて喚上(めさ)げしむ。
    故(かれ)其の所遣(つかはされし)大碓命、勿召上(めさぐことなく)して[而][即ち]己(おのれ)自(みづから)其の二(ふたりの)嬢子(をみな)を婚(よば)ひ、更に他(ほか)の女人(めのこ)を求め、名を其の嬢女(をみな)と詐(いつは)りて[而]貢(まつ)り上ぐ。
    於是(ここに)天皇、其(それ)他(ほか)の女(をみな)なるを知り、恒(ひさに)令経(へしめ)て長眼(ながめ)ぬれど、亦(また)勿婚(よばふことなく)して[而]惚(いきどほ)りたまひき[也]。
    故其大碓命娶兄比賣
    生子押黑之兄日子王【此者三野之宇泥須和氣之祖】
    亦娶弟比賣
    生子押黑弟日子王【此者牟宜都君等之祖】

    故(かれ)其の大碓命、兄比売を娶(めあは)せ、
    生(あ)れましし子(みこ)、押黒之兄日子王(おしくろのえひこのみこ)、【此者(こは)三野(みの)之(の)宇泥須和気(うねすわけ)之(の)祖(おや)なり。】
    亦(また)弟比売を娶せ、
    生れましし子(みこ)、押黒弟日子王(おしくろのおとひこのみこ)、【此者(こは)牟宜都君(むげつのきみ)等(ら)之(の)祖(おや)なり。】

     大帯日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)天皇は、纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)にいて、天下を治められました。
     この天皇は、吉備臣(きびのおみ)らの祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘、名前は針間(はりま)の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)を娶り、 御子、櫛角別王(くしつのわけのみこ)、 次に大碓命(おおうすのみこと)、 次に小碓命(おうすのみこと)、別名は倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、 次に倭根子命(やまとねこのみこと)、 次に神櫛王(かむくしのみこ)を生みなされました。
     また、八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)の娘、八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)を娶り、 御子、若帯日子命(わかたらしひこのみこと)、 次に五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)、 また、妾腹の御子、豊戸別王(とよとわけのみこ)、 次に沼代郎女(ぬましろのいらつめ)、 また、妾腹の御子、沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)、 次に香余理比売命(かぐよりひめのみこと)、 次に若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)、 次に吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ)、 次に高木比売命(たかきひめのみこと)、 次に弟比売命(おとひめのみこと)を生みなされました。
     また、日向(ひむか)の美波迦斯毘売(みはかしびめ)を娶り、 御子、豊国別王(とよくにわけのみこ)を生みなされました。
     また、伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)の妹、伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)を娶り、 御子、真若王(まわかのみこ)、 次に日子人之大兄王(ひこひとのおおえのみこ)を生みなされました。
     また、倭建命の曽孫、名前は須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)の娘、訶具漏比売(かぐろひめ)を娶り、 御子、大枝王(おおえのみこ)を生みなされました。
     全体に、この大帯日子天皇の御子らは、所録の二十一人の王(みこ)、記されざる五十九人の王、 併せて八十人の王のうち、若帯日子命と倭建命、また五百木之入日子命、この三人の王に、太子の名を負わせられ、 それの以外の七十七人の王には全員に、諸国の国造(くににみやつこ)、和気(わけ)、稲置(いなき)、県主(あがたぬし)を別け与えられました。
     そして、若帯日子命は天下を治められました。
     小碓命は東西の荒ぶる神と服従しない者どもを平定しました。
     次に櫛角別王は、茨田下連(まむたのしものむらじ)の祖です。
     次に大碓命は、守君(もりのきみ)、大田君(おおたのきみ)、嶋田君(しまだのきみ)の祖です。
     次に神櫛王は、木国(きのくに)の酒部阿比古(さかべのあびこ)、宇陀(うだ)の酒部(さかべ)の祖です。
     次に豊国別王は、日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の祖です。
     ここに天皇は、三野国造(みののくにのみやつこ)の祖に定めた、大根王(おおねのみこ)の娘、名前は兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)の二人の令嬢が、その容姿麗美とお聞きになり、 その御子、大碓命を遣わし、喚し上げさせました。
     そして、その遣わされた大碓命は、喚し上げることをせず、自分自身でその二人の令嬢を妻としてしまい、さらに他の女性を捜して、名前をその令嬢と偽って、献上しました。
  • December 2018 編集されました
    美作
    鐸石別命は垂仁天皇の皇子で、命の曽孫弟彦王が軍功によりこの地に土着し、一族は備前及び美作に栄えた。
     弟彦王の12代の孫が和気清麻呂、広虫姉弟であり、ともに朝廷に仕えた。清麻呂公は、奈良時代から平安時代の転換期に大きな役割をはたした人物で、なかでも道鏡事件、平安遷都などでの活躍は有名である。
     広虫姫は戦乱による多くの孤児を養育し、その仁愛慈育の生涯は女性の鏡と称えられた。
    祭神 鐸石別命 弟彦王命 佐波良神 伎波豆命
        宿奈命 乎麻呂命 清麻呂命 広虫姫命
    祭神は鐸石別命・弟彦王・和気清麻呂としている。鐸石別命は垂仁天皇の子, 弟
    彦王はその三世孫で備前・播磨の国境エリアで活躍, その功で藤原(後に藤野に
    改める)の県主になったという。何世かの後,佐波良-波伎豆-宿奈-乎麻呂
    -清麻呂となる。(日本後紀の「清麻呂薨伝」による)

    一書によれば鐸石別命は河内国大県郡高尾山に葬られ, 鐸彦神社が創始され
    たという。 鐸彦神社は金属技術集団の斎祭した神ト言われています。和気氏は
    精錬に優れていたようです。
    佐波良神社の近くに、八畳石と呼ばれる岩があります。湯原町のたたらの遺跡
    ではないかと言われています
  • December 2018 編集されました
    鞍手でのヤマトタケルの伝承をまとめてみたが、そこに「弟彦公」なる者の名が出て来た。

    佐賀にもその名が出て来たので、確認すると「副大将」として出ていた。鞍手から出てどのようにしてクマソタケルに勝ったのか描かれているので、再掲

    真手山 大願寺の伝説
    日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった

    佐賀市大和町大字川上大願寺のヤマトタケルの熊襲討伐の伝承

    熊襲って、熊本とか鹿児島の話じゃなかったのか?、『日本書紀』のヤマトタケルを読み直すと、地名は書いてない。

    大願寺。その境内から山が見える。頂上部がフラットで、いかにも山城を営みやすい景観です。その中腹に「健福寺」があります。行基の開山

    健福寺の落慶法要記念号(昭和49年4月28日)に「大願寺の伝説」という記事が書かれていました。(読みやすいように、一部変更します)

    景行天皇の頃、筑紫を根城として北部九州をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。景行天皇は皇子の小碓(こうず)尊に熊襲征伐を命ぜられた。尊は時に16歳、しかし英智武勇にすぐれていられる。弟彦王を副大将に武内宿禰を補佐役として筑紫の穴倉陣に攻め入った。その時、熊襲タケルは、いち早く逃げ去った。
    しばらくして逃げ先が川上附近とわかったので、海路、舟で肥前堀江(今の堀江通り)に一度寄港、さらに蠣久(かきひさ)に上陸、ひそかに逃げ先を探索している中に、大願寺の山の中に居て、毎日娘達を集めて大酒宴中とわかった。

     そこで或る日、小碓尊は女に変装して酒宴中に入り、時をみて「我こそは筑紫野で見参せし小碓尊である。天下をわがものに騒がした不埒(ふらち)め、これが天罰だ」
    と二太刀目が急所にきまって倒れた熊襲は息もたえだえながら「我こそは日本一の武勇者として誇りつづけたが、我以上に尊のような智勇権謀者がおる事は知らなかった。尊こそ誠に日本一の武勇者なれば、今後は日本武尊と尊称し奉る。

    我は九州全土をわが家の住いとせしもこれが最後となったこの川上の土地を記念して姓熊襲を川上の姓に改め、川上タケルと称する」と遺言して息を引き取った。

    それ以来、小碓尊を日本武尊といい、熊襲タケルを川上タケルと呼ぶようになったという。
    熊襲の墓が境内にあるといわれているが、もちろん、元真手(まて)山にあった時代でもあるので、彼の地一帯を調査する必要がある。 (一部変更)

    「熊襲」の根拠地は景行天皇の時代は筑紫野だった!
  • 播磨風土記では ワケの犬が 現在の兵庫県と岡山県の県境付近で金属の谷を12箇所だか発見した と書かれています

    鐸 タク ヌデシ さなき ぬて ぬりて 

    鐸比古・鐸比売(ぬでひこ・ぬでひめ)神社
    大阪府柏原市大県4-6-1

    http://kamnavi.jp/en/kawati/nudehiko.htm の解説
    鐸の読み方は「たく」、「かね」もある。

    鐸比古命を垂仁天皇の子沼滞別命とする説明から「ぬで」と読んでおく。
    この皇子の曾孫弟彦王は神功皇后三韓治政と、その凱旋時、

    忍熊王の反逆平定に大功があったとされる。
    岡山の和気神社は、この社の御分霊を祀る。

    清麿公は12世孫である。の解説は以上である。

    和気清麻呂公の 12世代前の先祖は 鐸石別命ヌデシワケの命
    銅鐸文化と関係が深いことが 解る
  • 丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのひこたたすみちのうしのみこ・日子坐王の子・前述)の
    娘である比婆須比売命(ひばすひめのみこと・氷羽洲比売命・前述)を二人目の妻(沙本毘売命亡き後の皇后)とした

    垂仁天皇と比婆須比売命の系統

    印色之入日子命、五十瓊敷入彦命、いにしきのいりひこのみこと

    ・垂仁天皇と比婆須比売命の子
    ・血沼池、狭山池、日下之高津池等の灌漑用水池を造った
    ・太刀千本を石上神宮に奉納
    ・河上部を定めた(刀剣を造る集団)

    大帯日子淤斯呂和気命、景行天皇
    おおたらしひこおしろわけのみこと、けいこう

    ・垂仁天皇と比婆須比売命の子
    ・第十二代景行天皇
    ・九州新征を行い地方平定を行う

    大中津日子命、おおなかつひこのみこと

    ・垂仁天皇と比婆須比売命の子
    ・山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖
    ・書記では大中姫命(おおなかつひめのみこと)と皇女の記載

    倭比売命、やまとひめのみこと

    ・垂仁天皇と比婆須比売命の娘
    ・伊勢皇大神宮の斎宮
    ・倭建命(ヤマトタケル)を支援
    ・倭姫宮(伊勢皇大神宮別宮)

    若木入日子命、わかきいりひこのみこと

    ・垂仁天皇と比婆須比売命の子

    続いて比婆須比売命の妹である沼羽田之入毘売命を三人目の妻とした

    垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の系統

    沼羽田之入毘売命、ぬばたのいりびめのみこと

    ・垂仁天皇の三人目の后

    沼帯別命、ぬたらしわけのみこと
    伊賀帯日子命、いがたらしひこのみこと

    ・垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の子
    ・書記では伊賀帯日子命ではなく膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)と皇女の記載
  • 秀真伝

    鐸石別命。 
    垂仁天皇(イクメイリヒコ) と典侍・ヌハタニイリ姫の第一子。 
    和気氏の祖。

      

    ミマキイリヒコ─┐
      (崇神天皇) ├────イクメイリヒコ(垂仁天皇)
    ミマキ姫────┘       ┃
                    ┃
    ヒコヰマス────────サホ姫[内宮1] ─────── (1)ホンツワケ
                    ┃
    ツヅキ県主タルネ───┬─カバヰツキ姫[内宮2] ──── (2)ヤマト姫
               │    ┃
               └─カクヤ姫[内侍]       ┌ (3)ニシキイリヒコ
                    ┃          ├ (4)ヤマトヲシロワケ(景行天皇)
    タニハチヌシ─────┬─ヒハス姫[内宮3] ─────┼ (5)オオナカ姫
               │    ┃          └ (6)ワカキニ
               │    ┃          
               ├─ヌハタニイリ姫[典侍]───┬ (7)ヌテシワケ
               │    ┃         └ (8)イカタラシ姫
    ├─マトノ姫[内侍]
               │    ┃          ┌ (9)イケハヤワケ
               └─アサミニイリ姫[内侍]───┴(10)アサツ姫
                    ┃
    オホクニサラズ──────カマハダトベ[内宮4] ────(11)イワツクワケ
                    ┃
    ヤマシロフチ───────カリハタトベ[??]─────┬(12)ミヲヤワケ
                              ├(13)ヰイソタリヒコ
                              └(14)ヰタケワケ
  • 針間(播磨)の地名由来は、神功皇后伝承によるもの、播磨の産物に針・釣り針があるからというもの、「墾(は)り浜」が由来というものなどがあり、はっきりしない。
     全国の播磨という地名を調べると、兵庫県加古郡播磨町、神戸市中央区播磨町、大阪市阿倍野区播磨町、広島県尾道市因島重井町播磨、三重県桑名市播磨、山形県鶴岡市播磨などがある。
     いずれも「海峡に面した土地」、「海岸に近い土地」、「川に挟まれた土地」、「山に挟まれた細い盆地」などになっている。針間(播磨)は「針のように狭い海」、「針のように細長い土地」という意味でしょうか。
     奈良市針町(はりちょう)も奈良市東部の山間の小盆地になっています。

     福岡県筑紫野市にも過去に「針磨」があったらしい。現在は筑紫野市針摺(はりすり)となっている。地形を見ると、東西から山が迫り狭くなっている。古代には海峡または川だったようだ。
     この針磨(針摺)の地名が3世紀でも使われていたのであれば、魏志倭人伝の倭国の地名「巴利(はり)国」が当地かもしれない。
     赤のアイコンが針摺、黄は菅原道真が山頂で自分の無実を祈って「天満大自在天神」となった天拝山(258m)。
  • August 2019 編集されました
    鐸(ぬで)比古・鐸比売神社
    ◆河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:278m)を神体山・磐座としている。
    祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。
    鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。『河内名所図会』 には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の再建。〔ウィキ〕
    ◆鉄器生産と関連ある祭神らしい。
  • August 2019 編集されました
    沙本毘売命
    記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命に作る。

    父は彦坐王(開化天皇の皇子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟として狭穂彦王の他に袁邪本王(次兄。葛野別・近淡海蚊野別の祖)、室毘古王(弟。若狭耳別の祖)がいた(『古事記』)。

    ちなみに垂仁天皇の次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王の女であり、姪に当たる。

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    http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

    垂仁天皇の皇后、狭穂姫の祖母であると古事記に記された春日建国勝戸売(かすがたけくにかつとめ)。
    彼女が、千千速姫(孝霊皇女)と物主家のアタカタス命の間に生まれた女性と見抜いたのは、次のヒントからだった。


    ・「春日」・・・母系はワニ氏春日大君家で育ったことを表わす。
    ・「建国勝」・・・父系は物主家であることを表わす。天日方
     奇日方命の子、健飯勝命(飯肩巣見)の例あり。
    ・物主家の男子のうち、アタカタス命だけが妻の名前が明らかで
     ない。これは、皇女の降嫁があったと考える。

    彼女は、一体だれに嫁いだのか。
    彦坐王に娘が嫁ぎ、孫娘が皇后になるような夫の候補者は、当時
    一人しかいない。
    開化天皇の同母の兄、大彦命である。
    大彦命は、娘の御間城姫が崇神天皇の皇后となり、孫が垂仁天皇
    となった有力者でありながら、妻の名前が明らかにされていない。
    日本書紀の筆者達は、歴史を改ざんするよりも、次の事実を書か
    ない道を選んでいる。

    ・春日建国勝戸売は大彦命に嫁した。
    ・彼女は、沙本大闇見戸売(さほおおくらみとめ)と御間城姫の
     姉妹を生んだ。
    ・二人の娘は、開化天皇の皇子達に嫁した。すなわち、沙本大闇見
     戸売はワニ家の姥津媛の生んだ彦坐王へ。御間城姫は、物部氏の
     イカガシコメが生んだ崇神天皇へ。

    そして、沙本大闇見戸売の生んだ狭穂姫は、いとこの垂仁天皇の
    皇后へ。
    狭穂姫・狭穂彦王の謀反は、たちまちに鎮圧されたが、一族への
    加罰は、母の名前を大闇見戸売と暗く変える程度で済まされた様子だ。
    謀反者の祖父母は、垂仁天皇の祖父母でもあったからだ。
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