伊賀国

December 2018 編集されました カテゴリ: 伊勢
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伊賀の国の 風土記 伊賀の国は、昔伊勢の国に属していた。大日本 根子容ノ太造天皇 (H孝霊天皇)の御代の発酉年…

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  • May 2018 編集されました
    伊賀国風土記逸文注釈

    風土記逸文の採集は江 戸時代初期から行われていたが 、それ らのの由来を述 べた部分のみを選出し、これを伊賀国風土記逸文として、 「国号」「吾 蛾 郡 吾 蛾 国」と名付けた。

    秋本吉郎『風土記」(日本資料は、栗田寛 『纂定古風土記逸文」(昭和二年十二月)によ って 集大成された。以後の逸文研究は、この栗田寛の書を土台としている

    その 二編は 「伊賀国号 こ「伊賀国号二」 と 称されている (本稿でもその呼称に拠 ったる。また風土記逸文の注釈も、同じ栗田寛の 『古風土記逸文考設」 (昭和十 一年五月)に基づいて行われ、その注釈の水準も栗田寛が 「首問葉緯』に挙げられた伊賀国の 「風土記残篇」の中かの研究の域を未だに出ていない 、というのが現状である。風土記逸 文の詳細な注釈が栗田以後行われていないのは、その中には古代の 官撰風土記とは認め難いものを数多く含むからであろう。しかし、
    ら、国号の由来を述べた部分のみを採択したのは、その部分に古い 伝承あるいは古風土記の断片が含まれていると判断したためであろ う。以後の注釈書も、栗田の採択を踏襲している。本稿でも、粟田の見解に従って、ひとまず国号に関する記事に限定して注釈を加え ることにする。
    おく必要があろう。また、従来の注釈書では、風土記逸文の内容の 検討が十分に行われていたとは言い難いので、現時点でもう 一度詳 細に検討し直す必要があると思われる。
    な お 、 本 稿 は 、 一九 九 二 年 二 月 に 上 代 文 献 を 読 む 会 の 風 土 記 逸 文 論読会 (於園田学園女77大学)で発表した原稿に基づき、これに補 訂を加えて作成したものである。
    今回取りあげる伊賀国風土記の記事は、初め今井似閑が 「首内葉 緯」巻十七で 「風土記残篇」として 「日本総国風土記」から採集し たものである。その後、栗田寛が、 さらにその中から伊賀国の国名の由来を述 べた部分のみを選出し、これを伊賀国風土記逸文として、 「国号」「吾 蛾 郡 吾 蛾 国」と名付けた。
  • •伊賀津姫の名称は、次に挙げる 「大伊賀姫」や 「伊賀比売命」と同一人物ではないかと恩われる。

    まず、「先代旧事本紀」天孫本紀には 、「八世孫倭得玉彦命。川川にぺ人 此命、淡海国谷上刀鉾為レ妻、 生 一男 一女 。伊我臣祖大 伊賀彦女大伊賀姫為レ妻、生田四男・よという記事があるが、これ は 餓 速 日 尊 の 八 世 の 孫 で あ る 倭 得 玉 彦 命 が 、 伊 賀 臣 の 祖 先 で あ る 大 伊賀彦の娘の大伊賀姫を妻として、四人の男子を生ませた、という 記事である。

    つまり、ここでは、大伊賀姫は伊賀臣の祖の大伊賀彦
    の 娘 と し て 出 て く る 。

    伊 賀 臣 と い う 氏 族 に つ い て は 、 「官 一化 紀 」 元 年五月 一日条に、 「阿倍臣、宜 ド遣 ・伊賀臣・、運中伊賀国屯倉之 穀l。」という記事があり、伊賀臣が伊賀国を本貫とする氏族であっ たことが推測される (伊賀国伊賀郡出身の氏族か。) つまり、大伊 賀 姫 は 、 伊 賀 国 の豪 族 の 祖 先 の 娘 に あ た る の で あ る 。
    天 孫 本 紀 で は、 「伊 我 臣 祖 大 伊 賀 彦 」 と あ っ た が 、 「日 本 書 紀 」 では別の伝えを載せる。即ち 『孝元紀」七年二月二日条に、「兄大
    彦命、是阿倍臣 ・膳臣 ・阿閉臣 ・狭々城山君 ・筑紫国造 ・越国造 ・ 伊 賀 臣 、 凡 七 族 之 始 祖 也 。」 と あ る 。 こ れ に よ れ ば 、 伊 賀 臣 は 阿 閉 臣 (伊賀国阿拝郡を本拠とする氏族)などと共に、大彦命を始祖と していることになる (大彦命は孝元天皇の皇子。母は欝色謎命)。

    大彦命については、 「古事記」の祭神天皇の条に、「此天皇 (崇神天皇)、::・::又妻 ・大毘古命之女、御真津比売命 一、生御子、:・ 次伊賀比売命」。 という記事があり、大毘古命 (大彦命)の孫とし て、伊賀比売命が挙がっている
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