鷹羽紋と三階松と木瓜紋、九州の代表紋

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
image鷹羽紋と三階松と木瓜紋、九州の代表紋

鷹羽紋は、英彦山、阿蘇、香春と菊池の家紋 木瓜と三階松 (マツボックリ紋)は、高良大社、宮地嶽の紋 三つ巴は、…

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コメント

  • 鷹狩りの技術者について次のように記されている。

    ○貢上鷹養人参拾人、起天平十年六月一日尽九月廿九日  (以下略)
    ○貢上犬壹拾伍頭、  (同右)

     ここに記された犬とは鷹狩り用の犬であろう。同じく「周防国天平十年正税帳」にも次の記述が見える。

    ○四日向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭  (以下略)

     大宰府から献上物として御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が見えるのであるが、この筑後国官僚の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される。現、稲員家の祖先)と同族の可能性が高い。すなわち、九州王朝王家一族の一人と思われるのである。また、六〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わっている
  • 高良山(三一二メートル)がある水縄(耳納)連山の最高峰は鷹取山(八〇二メートル)であり、これも鷹狩りに関連した山名と思われる。このように筑後地方には鷹狩りの伝統を思わせる痕跡が現在でも残っているのである。
     管見によれば、鷹狩りのわが国への伝来を伝える史料は、『日本書紀』仁徳紀を筆頭にいくつか見えるが、その中から四例を紹介したい。

    〇四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて獻る」とまうす。天皇、酒君を召して、鳥を示せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、對へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を號けて倶知と曰ふ」とまうす。是、今時の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち葦の[糸昏]を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊猟したまふ。時に雌雉、多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽に数十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ處を號けて、鷹甘邑と日ふ。
      〔『日本書紀』仁徳紀。岩波日本古典文学大系〕

    〇諏訪大明神之事(佐賀県東松浦郡浜玉町大字浜崎字宮の元)
     當社大明神と申奉るは、人皇十七代仁徳天皇の御宇、百済国より王仁と云ふ官人鷹を獻奉しける。其頃迄は日本に鷹といふ鳥渡らず、其旨皇帝に奏しければ、鷹は所謂霊鳥と聞けり、請取に其法禮有べし、故実を知りたる者やあると、尋ねさせ玉ふと云へども、其作法知りたる者なし、然らば女を出し請取らすべし、其法知らずとも苦しからずとて、官女を撰み玉ふに、往昔神功皇后、三韓征伐平定し玉ひ、大矢田宿禰といふ人を新羅国に留置き、鎮守府将軍とし玉ふ、是鎮守府将軍の始めなり、此宿禰より四代に當って、大矢田連と云ふ人の娘を諏訪の前といふ、則ち宣旨有て鷹を受取らせらる、此官女は三二相相備はり、類ひなき美女にて、和歌を長じ、其外諸道に達したりしかば、帝帳中の姫なり、王仁のセイライと云ふもの、其鷹を渡す時つらつら思ふ様、かかる官女に渡すこと其例なし、直に渡すもいかがなりと、笄を抜き錦の[白/巾]紗を掛て、盥に立て鷹をおろせり、則ち諏訪の前さしよって請取けり、鷹はコノリ也、皇帝御感斜めならず、セイライを三年留置かせ玉ひ、鷹の居様、故実など委敷相傳せり、其中にハイ鷹とハシ鷹を仕立、日本鷹狩始まる、日本にては諏訪の前を鷹匠の太祖とす、(以下略 )
      〔『神道大系 神社編肥前国』昭和六二年刊〕
  • September 2018 編集されました
    八幡(やはた)の鷹見、高見神社群において、興味深いのは社名や神紋の由来ともなる「鷹」の神祇。本宮、穴生の鷹見神社のあたりが「鷹の巣」地名。永犬丸の社地の奥には「鷹(高)見山」の所在など、周辺に「鷹」地名を散在させる。

     市瀬の鷹見神社の縁起は、「役行者が熊野で三所権現の招請を祈願した折、神殿から鷹が飛び立ち、この山に飛来したため、山上に祠を祀って鷹見大権現と号した。」と鷹の神祇を伝承する。

     八幡東区、高見の「高見神社」が天之御中主神、高御産巣日神など十二神を祭神としていた。どうも穴生、市瀬の鷹見神社は慶雲二年(705年)に役行者が祭祀を再興する以前は、熊野神を祀るものではなく、「高見神社」と同じく、古い信仰である十二神の祭祀であったとみられる。「鷹」の神祇はその信仰に由来するものとも思わせる。

     そして、英彦山が鎮座する田川が「鷹羽」に纏わるとされ、「彦山縁起」には田川は鷹羽郡とされ、上古、英彦山の神が「鷹」の化身であったことに由来するとされる。その田川郡、香春の氏神、香春神社が神紋を鷹羽として、元宮とされる「古宮八幡宮」の神域が「鷹巣」と呼ばれる森であった。この社の神は、宇佐の八幡神の正躰として奉納される銅鏡の化身。
  • 鷹羽の神紋を掲げる神社群が、この域に密集し、鷹の巣や鷹取、鷹栖、鷹居など多くの鷹地名を散在させ、「鷹」の神祇が九州北半域を縦断する。その「鷹」地名が秦氏の住地であり、秦氏が拘わる鉱山や精錬に纏わるものとも。また、前述の鷹見神社群の南域は、畑(はた)地名であった。

     日本書紀によると、秦氏は応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を祖とする。新撰姓氏録によれば、秦氏は「秦(しん)」の民の裔ともされる
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