園韓神社、

April 2018 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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園韓神社(そのからかみのやしろ) 園神社(そのじんじゃ/そのかみのやしろ、薗神社)および韓神社(からじんじゃ/…

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  • April 2018 編集されました
    近鉄奈良駅
    韓國神社
    奈良市韓國町

    春日三枝神社
    媛蹈鞴五十鈴媛命ナリ。社伝 小墾田宮御宇天皇ノ御世、大三輪君白堤 勅ヲ承リテヨリ、社ヲ春日邑ノ率川・坂岡両処ニ立ツ。(下略)

    『大三輪神三社鎮座次第』 新校群書類従 巻第十八

    園韓神社三座
    大神氏家牒ニ日ク、養老年中、藤原史亦 園韓神社ヲ建テ斎キ奉ル。神名帳ニ云ク、宮内省ニ座ス神三座並名神大月次、新嘗園神社一座、韓神社ニ座。旧記ニ云ク、件ノ神等ハ素盞烏尊ノ子孫ニシテ、疫ヲ守ル神ナリ。伝ヘ聞ク、園神ハ、大己貴命ノ和魂大物主神ナリ。(中略)
    韓神ハ、大己貴命、少彦名命ナリ。(下略)

    『大倭神社註進状』 新校群書類従 巻第十八

    率川坐大神神子神社 大和国添上郡子守ニ在リ
    推古天皇御宇、大三輪君白堤、勅ヲ奉ジテ神殿ヲ率川邑ニ造リ、五十鈴命ヲ奉斎ス。率川阪岡神ハ同ジク養老年中、右大臣藤原不比等、益シテ神殿ヲ造リ奉ル。

    『大国主命分身類社抄』

    漢國神社
    人皇三十三代 崇峻天皇六年癸丑春二月亥酉朔日、春日里率川旧庭ニ於テ、社壇一所宮柱ヲ立テ安鎮シ奉ル。  神躰ナリ。

    養老元年丁巳朔日甲子 漢國社鎮壇 率川御門北面ノ内、蘭林坊艮ノ方、三所宮桂太敷立テ安鎮シ奉ル。  神鉢 淡海(鎌足)公曽孫藤原是公建立ナリ。

    人皇五十六代 清和天皇御宇 貞観元年春正月廿七日、平安城宮内省ニ薗神一座・韓神ニ座ヲ勧請ス。此レ則チ当国漢國社ヲ大内裏ニ遷都ス。本位正四位、此ノ時一階ヲ加フ。

    『元要記』

    奈良市漢國町、漢國神社の境内に鎮座の林神社は、わが国へ初めて饅頭を伝えた林浄因命を斎きまつっております。

    祭神、林浄因命は中国浙江省西湖の人、林和靖の末裔で、嘉元年間に京都建仁寺三十五世龍山禅師が入宋された際、師弟の契を結び、貞和五年禅師に随従して来朝された方です。

    その後、奈良に居を構え、故国で習い覚えた饅頭を作られました。中国には肉饅頭、菜饅頭、餡饅頭などがありましたが、わが国で餡の入ったものの創始であります。

    奈良の人々には、初めて口にするこのおいしい饅頭が人気を呼んで店頭には市をなす盛況で、日に増して繁栄しました。この店は漢國神社々頭、林小路にありました。

    その後龍山禅師に師の礼を尽くし度々機嫌を伺うため上洛し、その度に謹製の饅頭を携える事を忘れませんでしたが、たまたま足利将軍に之を差出し、将軍もこれを賞味して非常に喜び、将軍家を経て宮中に献上する光栄を得ました。

    帝は殊の外の叡感で、官女を賜いて配せしめ給いました。また足利義政公より直筆の「日本第一番本饅頭所」の看板を許され一門は光栄に輝きました。その後林家は京都烏丸三条の北家と、奈良林小路の南家に分れ、共に饅頭屋として繁昌しました。以後、代々、塩瀬を家号とし、江戸に移っては将軍家の御用をつとめ、明治初年より宮内省御用となり始祖以来連綿と栄えておられるのが東京の塩瀬総本家であります。

    室町末期から桃山初期にかけて、この饅頭屋、林家から碩学の林宗二が出ております。初期の国語辞書である「饅頭屋本節用集」はこの人の著わしたもので、宗二は別号を方生斎といい、節用集の他に数多くの抄物の筆録者として有名です。
  • April 2018 編集されました
    近鉄奈良駅そばの韓國神社

    漢国社は本来「狭加岡神社」の名称で延喜式神名帳に登載されていたが、「加」の字を脱したために「狭岡神社」とされ、法蓮町の狭岡神社が論社となった。
    開化天皇率川坂上陵を祀る形に現在鎭座している。
    養老5年百済王が献上した白雉を元正天皇が奉納した。『奈良曝』には漢国から七賢人が来て居住し、雉子を愛したので氏子は一生雉子を食べないといわれる。
    境内には饅頭の祖神(林浄因)を祀る林神社がある。
    『神名帳考証』は「今林小路加牟古不社者、神御子之訛乎」として、率川坐大神神御子神社を漢国神社に比定している。
    延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
    【由緒】
    推古天皇元年大神君白堤が勅により園神を祀る
    養老元年(717)藤原不比等・韓神の二座を祀る
    養老5年百済王が献上した白雉を元正天皇が奉納
    神亀元年(724)にこの雉を埋めた白雉塚がある
    貞観元年(859)1月27日平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請
    平成16年(2004)3月家康の具足奈良市文化財に指定

    【関係氏族】
    【鎮座地】開化天皇陵(春日率川坂岡上陵)との関係からこの地に創設
    【祭祀対象】開化天皇?
    【祭祀】社名も変わり、式社としての継承性は薄
  • April 2018 編集されました
    淡海とは近江の事ですし愛荘町にある八幡神社には淡海公御墓と刻まれた不比等の 墓が存在します。 不比等には四人の息子が居て、彼らは藤原四子政権という独裁に近い政治を行った時期が ありました。そんな四兄弟の中で次男の房前も不比等と同じように近江国司として彦根の 安清に住んでいた時期があったと言われています。彦根では不比等と房前が建立した寺社 が形を変えて伝わっている例もあるそうです。古記の記すところでは彦根村(元町)には七 堂伽藍大寺院として淡海公が建立された天台宗養花院が数々の滅びと再建を繰り返し臨済宗慈眼院(佐和町)と改名したのです。ここには不比等の娘の墓があります。
    慈眼院は井伊直孝が藩主の時代に龍潭寺の末寺となり淡海公から伝わったとされる宝物は龍潭寺に納め られたのだとか...
    彦根の歴史を紐解くとよく目にする彦根山周辺にあった彦根寺や門甲寺は房前の建立と伝
    わっています。
    その他にも、滋賀県内のあちらこちらにひっそりと佇む古い社の由来を調べるとこの二人
    に辿り着くことが多いそうですよ。
  • 今昔物語
    今は昔、淡海公と申す大臣(おとど)おわしけり。実の御名は不比等と申す。大織冠の御太郎、母は天智天皇の御后なり。

    然るに、大織冠失せ給いて後、公に仕り給いて、身の才極めて止む事なく御わしければ、左大臣まで成上り給いて、世の政ぞ御わしける。男子四人ぞ御わしける。

    太郎は武智麿と申して、その人も大臣にまで成上りてぞ御わしける。二郎は房前(ふささき)の大臣と申しけり。三郎は式部の卿にて、宇合(むまかい)とぞ申しける。四郎は左右京の大夫にて、麿(まろ)と申しけり。

    此の四人の御子を、太郎の大臣は祖(おや)の御家よりは南に住し給いければ南家と名づけたり。二郎の大臣は祖の御家よりは北に住し給いければ北家と名付けたり、三郎の式部の卿は官の式部卿なれば式家と名付けたり、四郎の左京の大夫は官の左京の大夫なれば京家と名付けたり。

    此の四家の子孫、此の朝に満ち広がりて隙間なし。その中にも二郎の大臣の御流れは、氏の長者を継ぎて、今に摂政関白として栄え給う。世を欲しいままにして天皇の御後見として政給う、ただ此の御流れ也。

    太郎の大臣の南家も、人は多けれども末に及びては大臣公卿などに成る人難し。三郎の式家も、人はあれども公卿などに至る人なし。四郎の京家は然るべき人は絶えにけり。ただ侍などの程にてか有らむ。

    然れば只、二郎の大臣の北家目出度く栄え給いて、山階寺(興福寺)の西に佐保殿という所はこの大臣の御家也、然れば此の大臣の御流れ、氏の長者として其の佐保殿に着き給うには、先ず庭にして拝してぞ上り給う。それは其の房前の大臣の御形を、その佐保殿に写し起きたる也。

    然れば淡海公の御流れ、かくなむ御わしける、となむ語り伝えたるとや。
  • April 2018 編集されました
    蘇我 娼子(そがのしょうし/そがのまさこ、生没年未詳)は飛鳥時代後期の蘇我氏の女性。「娼子」という名前は『尊卑分脈』に依る物で、『公卿補任』では蘇我 媼子(そがのおんし/そがのおうなこ)と書かれている。

    略歴

    天武朝末期頃に藤原不比等に嫁ぎ、武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた(但し、宇合については武智麻呂、房前と生年が離れるため、疑問を呈する意見も根強い)。大宝元年(701年)頃に不比等と再婚した県犬養三千代について『続日本紀』に「(不比等の)後妻」と書かれていることから、娼子は藤原不比等の最初の正室で大宝元年までには死去したことが分かる。しかし、『日本書紀』などの同時代史料には全く記載がないため、事績には不明の点が多い。

    藤原房前 ふじわらの-ふささき

    681-737 奈良時代の公卿(くぎょう)。
    天武天皇10年生まれ。藤原不比等(ふひと)の次男。母は蘇我連子(そがの-むらじこ)の娘,娼子。北家の祖。霊亀(れいき)3年(717)参議となり,元明上皇の没時には長屋王とともに後事を託される。正三位にすすみ,民部卿,初代の中衛(ちゅうえの)大将などをかねた。天平(てんぴょう)9年4月17日流行病で死去。57歳。正一位左大臣,ついで太政大臣を追贈された。

    房前の屋敷は興福寺の西にあったという。法蓮町付近という説もある。1129年に焼失しているが1151年位藤原頼長が灘を尋ねた時に佐保殿に宿泊しているので、この時点には再建されている。佐保殿が消失した時点で400年を経過している。

    ちなみに淡海公(不比等)は、今の薬師寺に居を構えていたらしい。第一では天武天皇から鎌足に下げられた后が産んだ子が「多峰の定恵和尚」で、鎌足の間に生まれた子が不比等ということになっているが、不比等自身も天武天皇の落胤で有るという説が昔からある。

    壬申の乱で藤原が一掃されてしまうが文武天皇擁立に功績があって、表舞台に登場してくる。元明天皇の女官(橘三千代)と婚姻関係をもつ辺りから皇室との関係が深まり、不比等の娘(藤原宮子)が文武天皇后となることなどから、藤原姓は不比等の子孫だけに限定されることとなる。
  • 不比等の妻室には、武智麻呂・房前の母である石川娼子、宮子の母の賀茂比売、麻呂の母の五百重媛、光明子の母の県犬養橘三千代などがいます。石川娼子は680年に武智麻呂を、681年に房前を生んで以降史料にみえなくなります。代わって683年頃に宮子を生んだのが賀茂比売です。次男の仲麻呂時代にできた武智麻呂の伝記である『武智麻呂伝』には、武智麻呂は幼くして母を喪い、「おもゆ」も喉をとおらず、重い病になったと記されています。「幼い」時が武智麻呂が何歳の時かですが、これは角田文衛氏も検討されているのですが確たる論拠がありません。わたしは意外と早い時期ではないかと思っています。683年に賀茂比売が宮子を生んでいることや、不比等が22歳で武智麻呂を得たことを考えると、682年頃には亡くなっていたのではないかとも考えています。
     石川娼子と賀茂比売が不比等の妻であった時期が重複していても不思議ではありませんが、不比等は22歳過ぎたばかりの頃ですから、二人の妻をもっていなかったとも考えられます。石川娼子を亡くして、賀茂比売を次の妻に迎えたということもありえます。そうすると、房前の出産時に難産かその後に体調をくずして亡くなったという可能性も考えられます。
  • April 2018 編集されました
    中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)は朝廷において神道の伝統的な儀式を行なう神祇官の長官に指名されましたが、病気と称して再三辞退し、三島に住んでいました。この三島は伊豆の三島ではなく、大阪の三島です。後年藤原仲麻呂があらわした鎌足(鎌子)の伝記『家伝』によれば、ここに鎌子の別邸があったようです

    『日本書紀』によると、鎌子は「為人(ひととなり)中正(ちゅうせい)にして匡済(きょうさい)の心有り」だそうで、真心があり、正しい人だったそうです。ここには『日本書紀』編纂者である藤原不比等の意向が強く入っているのですが、まあそれはそれとして、『日本書紀』の記述に沿って、語っていきます。

    ……鎌子は蘇我氏の専横につくづく憤っていました。
    「蘇我の一族にも困ったものだ。どうにかしなくては…」
    そこで中臣鎌足は軽皇子はじめ幾人かの皇族と接触し味方に引き入れられないか探ります。やがて蘇我氏と姻戚関係の無い中大兄皇子に目をつけました。

    「あのお方なら、きっと立ち上がってくださる」
    しかし、鎌子は中流の豪族であり、相手は皇子です。なかなか接触する機会がありませんでした。
  • 中臣鎌足は西暦614年(推古天皇22年)に「和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)」あるいは「大和国大原(現在の奈良県明日香村)」で誕生したと伝えられています。
    父は推古天皇などの天皇に仕えた大夫「(まえつぎみ)」に就いていた「中臣御食子(なかとみのみけこ、中臣弥気(なかとみのみけ)とも言う)」、母は天皇に仕えた「大伴連噛(おおとものむらじくい)」の娘である「智仙娘(ちせんのいらつめ)」。
    若いころから中国史所に興味を持った鎌足は「六韜(りくとう、中国を代表する兵法書の1つ)の暗記に励むと見事習得。
    隋・唐へ遣唐使として派遣されていた僧「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」が開いた塾で儒教を学び、秀才として評価されるように。
    このころからすでに歴史に名を残す準備は進んでいたのですね。
    鎌足の生まれた「中臣家」は古くから神事・祭祀(さいし)を取り仕切る豪族であり、鎌足も644年(皇極天皇3年)に「神祇伯(じんぎはく、朝廷の祭祀を司る)」に任命されますがこれを拒否、摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部にあたる)三島の別邸に退くことになります。
  • April 2018 編集されました
    法華寺は奈良の平城京跡の大極殿跡地の東方にある。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。

    天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。大和国の国分尼寺、日本の総国分尼寺と位置付けられるのは、2年後の天平19年(747年)頃からである。

    内裏は天皇が居住し、政務が行われるところで、平城京の北の中心にあった。不比等の屋敷は内裏に隣接していた。

     不比等の屋敷は隣の海龍王寺にまで及び、「八町」(約十三・五ヘクタール)の広さであった。平城京では天皇以外では、4町が最高の広さであったから、不比等の屋敷はその倍の広さとなる。丁度同時代の長屋王の屋敷跡も近年、発掘されたがその広さは四町であった。

     不比等の屋敷は、平城京への遷都に先立っ
    てつくられていた。

    当時の都は藤原京である。
    藤原京は飛鳥の北の大和三山に囲まれたところにある。藤原京から不比等の屋敷までは、直線距離にしても20kmは離れている。このような遠方の地に屋敷を作った理由はどこにあるのか。聖徳太子の斑鳩への移転と似ているところに注目したいところである。

     不比等の育ちの影響が考えられる。不比等は幼少の頃は、山科史(やましなのふひと)のところで育てられている。山科は平城山を西の方で越えてさらに北に行った所である。山科で育った不比等にとて、平城山の南は決して遠いところではない。
  • 右大臣従二位の長屋王と参議従三位の藤原朝臣房前
    を召して、自分の死後の事を遺言した。天変地異の多
    かったこの年の5月から、女帝は病気になっていたのだ。
    この前年、養老4年8月に右大臣正二位の藤原朝臣不
    比等が61歳で亡くなっている。鎌足の息子である。
    元明天皇の悲しみは大きく、長屋王と大伴旅人を遣し
    て、亡くなった不比等に太政大臣と正一位を贈っている。
    その翌年の元明天皇の遺言である。
    「汝(藤原)房前はまさに内臣となって、内外に渉って
    よく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて
    永く国家を安寧にするように」
    参照:
    続日本紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
    そう言い残した元明天皇は、12月7日、61歳で崩御。
    翌日、長屋王と藤原朝臣武智麻呂らが埋葬の準備をし、
    大伴宿禰旅人がお墓の担当者になった。天皇に信頼
    され後を任された房前の名は無い。
  • 大化の改新
    中大兄皇子は孝徳・斉明天皇の皇太子となり、鎌足は最高顧問的位置づけとなる「内臣(うちつおみ)」に就任。

    646年(大化2年)に出された「改新の詔(みことのり)」。
    この方では豪族が所有していた人民・土地を回収し天皇の所有とする「公地公民」、全国を「国」に分け「国司(国を治めるために設置される役職)」を置く「中央集権」、公民に「口分田(くぶんでん)」と呼ばれる耕地を貸し与え死後に国家へ返還させる「班田収授(はんでんしゅうじゅ)」、公民に税を負担させる「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」が定められました。
    その他には身分に応じて墓の規模が決まる「薄葬令(はくそうれい)」制定、「伴造(とものみやつこ、朝廷に仕える者を統率・管理した者)」や「品部(しなべ、朝廷に仕えた人々の集団)」を廃止、特定部族による役職の踏襲を途絶えさせ、冠位制度の改訂、礼法の策定なども実施。
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