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敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。 更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。 讃岐で繁栄した後裔は、神内、三谷、寒川、由良、十河の庶子家を分出する。
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古代史を学ぶ者として、律令法典の研究を進めていた。養老令の注釈書(実際は令義解の注釈書)である令集解 を編纂したのは、惟宗直本(これむねのなおもと。9 世紀後半~10 世紀初の明法家)であった。 讃岐国は、平安時代、法律と仏教の国と言われていた。平安前期の中央の明法家の中で、東讃出身者は重要な位 置を占めていた。寒川郡の凡直氏の讃岐永直は、明法博士であり「律令之宗師」と称えられ、令集解が引用する 令の注釈書「讃記」の撰者である。この讃岐永直の跡を襲って讃岐から、明法家が輩出した。惟宗氏は、秦氏の 一族で、秦公直本と弟直宗の本貫は讃岐国香河郡であり左京六条に本貫を移し(『日本三代実録』元慶元年(877) 十二月廿五日辛卯条)、次いで惟宗に改姓した(同・元慶七年(993)十二月廿五日丁巳条)。
讃岐国内には11の郡(評)が置かれますが、それは河川水系を単位としてます。大内(湊川)・寒川(津田川・鴨部川)・三木(新川・吉田川)・山田(新川・春日川)・香河(香東川・本津川)・阿野(本津川・綾川)・鵜足(大束川)・那珂(土器川・金倉川)・多度(弘田川)・三野(高瀬川・財田川)・刈田(財田川・柞田川)の各郡のエリアは、水稲農耕が始まって以来の灌漑にもとづいた地域のつながりが、一つの完成した姿を現したことを意味しているのです。
また郡(評)内には、50戸を目安として里(郷)と里長(郷長)が置かれ、彼らが租税を取り立てるようになります。 地域の集落住民一人一人までもが戸籍に登載され、課税されました。以後、この地方制度は実質を失いながらも300年近く続きます。
承平年間(931~938年)に成立した我が国最初の百科事典である和名類聚抄によると現在のさぬき市の範囲のおおよそは当時寒川郡に属していました。そして寒川郡は難波郷・石田郷・神埼郷・長尾郷・造田郷・鴨部郷・多和郷の7郷から成り立っていました。寒川郡名史料上の初見はさらに200年以上前の『続日本紀』の713(和銅6)年5月12日条になります。
また、難波郷は平安京右京三条一坊六町の発掘調査で9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡難波郷秦武成」と墨書された木簡が出土されています。
東讃の代表的な国造系豪族は凡直(おおしのあたい)氏です。791(延暦10)年に寒川郡の凡直千継が改称を申請した時の言上から次の事が分かります。
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。
ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。
そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたいということが記載されており、結局、千継の21戸が讃岐公になることが認められました。
讃岐公氏は平安時代に明法博士を輩出しました。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。
讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。
讃岐氏は中世にも見られます。石田東の大蓑彦神社に大般若経600巻を奉納した人物として讃岐基光の名が見えます。
讃岐基光は1245(寛元3)年から1254(建長6)年までの約10年間に書写を行い、その後の1336(建武3)年に次本となっていた第124巻を讃岐光俊が奉納しています。第98巻の奧書には「寒河郡司前右衛門尉讃岐基光」の記載が見られます。
「讃岐国戸籍」断簡には物部借馬連が見えます。『続日本紀』の713(和銅6)年5月12日条には寒川郡人として物部乱の名が見られることから物部借馬連も寒川郡人と考えられています。
713年に物部乱は飼丁から良民に復したとあり、物部氏は馬の飼養や馬を貸していた氏族であったと考えられています。
780(宝亀11)年12月29日付けの『大和国西大寺資材流記帳』によると寒川郡内には坂本毛人の献じた塩山があったことが分かります。
ちなみに『続日本紀』によると768(神護景雲2)年に韓鉄師毗登毛人が坂本姓を賜ったとあり、同一人物の可能性があります。
この時に同じく坂本姓を賜った人物に韓鉄師部首牛養がいます。
一方、同じ牛養の名前では791(延暦10)年に岡田臣姓を賜った佐婆部首牛養がいます。
この他、文献に見られる人物として『日本三代実録』で887(元慶元)年に矢田部造利の名が見られます。
発掘調査の成果からは、京都府の平安京右京三条一坊六町の調査で9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡難波郷秦武成」と墨書された木簡が出土しています。
ちなみに秦氏は山田郡の郡司の1人として8世紀中頃に秦公大成の名が見られ、長岡京出土木簡に秦□成□の名が見られます。
香川県観音寺市の西方の沖に「伊吹島」という小さな島(煮干イワシの産地)があるのですが、そこの住民は三好姓が多く、遠祖が三好義継の長子、中務少輔義兼で母は足利義昭の妹「寧姫」であることが「観音寺市誌」にも公式認定されています。
義兼は若江城落城前に阿波に逃れて、そこで成人したのですが、長曽我部の阿波侵入後、三好長冶の妻の実家である観音寺市財田町に一族郎党身を寄せていたのですが、最後の頼みである讃岐の「十河存保」の九州「戸次川の戦い」での戦死(1586年12月)、その後のお家断絶にともない止む無く、翌天正15年(1587)、観音寺市沖・伊吹島に渡ってきたのです。
何故、伊吹島かと申しますと、「観音寺市誌」の記載では、最初、義兼の異母弟「義茂」(義継が将軍義輝の妾であった小侍従の局を側室にし、二人の間にできた子。若江落城当時は乳飲み子で、元服するまで小侍従の局の実家である某公家屋敷に匿われていたらしい。
元服後、一族である十河存保が讃岐に呼び寄せ、政情の安定するまで、西讃の豪族「大平伊賀守国祐」の家老「合田氏」が居住する伊吹島に従者二人をつけて来島させ即ち匿わさせた。
しかし、三好家の武運つたなく頼みの十河家が断絶すると伊吹島に先に来た「義茂」だけでなく、兄の「義兼」の一族郎党(家来50騎~80騎)も路頭に迷い仕方なくというか、とりあえず伊吹島へ避難してきたのではないかと思われます。
(私見ですが、伊吹島は平安時代から京都の貴族の荘園領地であったらしいから、もしかしたら、義茂の母、小侍従の局の実家が所有していたので、その伝を頼って十河存保が世話したのかも知れません。今も伊吹島は言語学的に発音が「平安時代の終わり頃の発音と一箇所しか違わない日本で唯一の方言」ということで注目され「金田一春彦」氏も視察に来たことがあるのです。)
それは、さておき、天正15年に伊吹島にきた、義兼一党は先住の合田氏と争いになり、天正18年義兼が合田氏に鉄砲で狙撃され深手を負い自刃して、一時、島を撤退し観音寺市の山本町で再起をはかり、義兼の4人の男子が成長したのち、合田氏への復讐戦を行い勝利を収めたということです。
細川氏が室町幕府内で確固たる地位を築いたのは、細川頼之(よりゆき)の功労が大であったといわれています。頼之は、南朝方に走った従兄弟の細川清氏を讃岐の白峯合戦で破り、細川一門で随一の実力者となって幕府内で頭角を現していきます。そして、阿波・讃岐・土佐・伊予の守護職を兼任して四国管領と呼ばれ、讃岐の宇多津に本拠地を構えました。その後、京に上り、管領となって幼少の第2代将軍足利義満を補佐します。いったんは康暦の政変(天授5年/康暦元年(1379))で失脚しますが、復帰して管領となった弟で養子の頼元(よりもと)を幕府宿老として補佐し、明徳の乱では山名氏を破り丹波国を分国に加えます。
頼之から細川氏惣領家の家督を継いだ頼元は、讃岐・丹波・土佐の守護職を継承するとともに、新たに摂津の守護職を得て、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国の守護職を兼帯し、従四位下右京大夫に任ぜられます。以後、頼之・頼元系の細川氏は、代々右京大夫の官途を踏襲し、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことから、京兆家と呼ばれました。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国守護職を世襲し、幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元→政元と受け継がれていきます。この中で最も有名な人物が、応仁の乱(1467―77年)のときの東軍の将であった細川勝元です。
また、頼之の弟らを祖とする細川氏傍系は、阿波・淡路・和泉・備中4カ国の守護職を占め、それぞれ阿波守護家、淡路守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、備中守護家として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、頼之からその弟の頼有を経て、さらにその弟の詮春の子・義之に伝えられ、その系統に継がれていきます。京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。なお、頼之が持っていた伊予守護職は、康暦の政変以後、河野氏に復帰しています。
こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は、頼之以来の京兆家直轄地だったところで、京兆家の勢力を支えたるための戦略上の要衝でした。これは讃岐を押さえれば瀬戸内海の海上交通権を掌握できたことによると考えられます。そして、京兆家の讃岐経営の中心都市だったところが宇多津でした。宇多津の港には、京と讃岐を往来する多くの船が出入りしていたと思われます