日本の古代の年号、法興について – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
日本の古代の年号、法興について – 古代史俯瞰 by tokyoblog

日本最初の公年号は孝徳天皇の制定した「大化」であるが、中世に成立した寺院縁起・年代記には、大化前代から年号があたかも使用されたもののごとくに記載され、これらを俗に古代年号と呼ぶことがある。
古代年号は総じて仏教的色彩が濃く、殊に太子信仰の影響を強く受けていることから、現在そのほとん…

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コメント

  • 法王(ほうおう、生年不詳 - 600年)は、百済の第29代の王(在位:599年 - 600年)。先代の恵王の長男。諱は宣、または孝順。599年に恵王の死去に伴い即位した。『隋書』百済伝では昌(第27代威徳王)の子とし、余宣の名で現れる。

    ハングル: 법왕
    漢字: 法王
    発音: ポプワン
    日本語読み: ほうおう
    ローマ字: Beop-wang
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    仏教を厚く信仰していた王で、即位年12月に殺生禁止令を出し、民家で育てる鷹をすべて放生するようにして狩りに使われる道具も焼却した。600年には王興寺の建立を開始し、僧侶30人を得度させた。また、旱魃が続いたため、漆岳寺で雨乞いを行った。同年5月に死去し、法王と諡された。

    王興寺は次の武王の35年(634年)に完成した。寺址が忠清南道扶余郡窮岩面新里の蔚城山山腹とされている。
  • November 2017 編集されました
    587年蘇我馬子はついに物部守屋を滅ぼし,ここに崇仏の基盤が確立した。
    [法興寺の創建]
     翌588年百済は仏舎利,僧,寺工,瓦博士,画工(白加)を献じ,馬子は法興寺(飛鳥寺)建立を発願した。法興寺の造営は596年竣工まで9ヵ年を要している(紀)

    奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。法興寺,本元興寺ともいう。蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な寺院で,百済から招いた工人らが参画して,596年(推古4)ほぼ造営を終え,606年には仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が作った本尊の丈六釈迦如来像が安置されている

  • 600年、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣しました。

    法隆寺と法興寺の寺名は同じ意味を持っているように思えます。
     法を(興・隆)させるという意味と考えられます。

    では、なぜ同じような時期に同一の意味を持つ寺を二つ造ったのでしょうか。
    崇峻元年(588)に飛鳥寺(法興寺)の造営が始まるとあります。
    そして完成は推古4年(596)とされています。
     
    飛鳥寺・ウィキペディア(Wikipedia)
    《『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。しかし、後述のように法興寺本尊の釈迦三尊像が完成したのはそれから少なくとも9年後のことであり、寺は完成したが、9年間は本尊が存在しなかったということになってしまう。》

    また、法隆寺のほうは、日本書紀に、天智9年(670)斑鳩寺全焼したとあり、なぜか、いつ造営されたかは書かれていません。
    ただし、『薬師如来像光背銘文』によると、(一般的な読み方では)丙午の年(586年)用明天皇が病気のときに、推古天皇と聖徳太子を招き、寺と薬師像を造ってほしいと頼んだが、用明天皇が崩御したために、すぐには造れないで、出来上がったのは推古15年(607)だった、とのことです。(丁卯の年ということで、607年に当たるそうです)
  • 推古9年(601)聖徳太子は斑鳩宮を造営するとあり、推古13年(605)聖徳太子は斑鳩宮に移住したとあるからです。なぜ聖徳太子は、飛鳥から離れた斑鳩の地に、宮を造らなければならなかったのでしょうか。
    これは一般的な説では、聖徳太子が政治の中枢からはずれたからだ、とされているようです

    聖徳太子は法隆寺の造られる斑鳩に宮を造ったのではなく、法興寺の造られる飛鳥に宮を造ったと考えてみる方がはるかに自然ではないでしょうか。
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