鎌倉宮 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

August 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

鎌倉宮 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

6歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王と呼ばれ、天台座主となられます。
当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の…

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  • August 2017 編集されました
    西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家[、藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用

    藤原公実の四男通季を祖とする。
    家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実・雅楽(琵琶)。一条家の家礼。江戸時代の家禄は597石。

    通季の曾孫公経は源頼朝の姪全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れがあるとして朝廷によって幽閉されるが、かえって乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をもしのぐ権勢を振るった
    実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。

    鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る

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    建保7年(1219年)、第3代将軍源実朝が暗殺された。実朝には実子が無く、継嗣も定めていなかったため、これにより、初代源頼朝、頼朝の嫡男である第2代源頼家、頼朝の次男である第3代源実朝と、源氏嫡流(河内源氏義朝流)が征夷大将軍を継いだ将軍家は断絶した。

    この3代の将軍を源氏将軍と呼ぶ。

    すでに鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏は、執権の北条義時と、頼朝の正室で頼家・実朝の母であり幕府の指導的立場にもあった北条政子を中心として、後継の鎌倉殿(鎌倉幕府の長)たる将軍の選定を進めた。

    まず、実朝亡き後も、源氏の一門や遠縁が絶えたわけではなかったため、源氏に連なる者を新たな「源氏将軍」として立てることが考えられる。しかし、北条氏の権勢が強まる中で、御家人から信奉を集めやすい「源氏将軍」は、執権政治の維持の上では不都合であったため、源氏の親類縁者の多くは北条氏から疎まれて謀反の罪を着せられ、追討を受けることとなった。

    また、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子の一人を後継将軍として迎えることを望んだものの、上皇ら朝廷方から断られたため、これを断念した。

    結局、藤原氏の九条家より、頼朝の妹の曾孫にあたる2歳の三寅(後の藤原頼経)を将軍として迎えることとした。
    縁戚関係にあったとはいえ、3代にわたり源氏将軍を主宰者とした鎌倉幕府で、藤原氏の将軍は前代未聞のことであり、幕府では頼経の源氏改姓も審議されたが、藤原氏のままとされた。

    頼経の出身の九条家は、公家の頂点にあたる摂家の家格を有しており、近衛家(後に形成される五摂家の筆頭)に次ぐ家門であるとともに、家祖の九条兼実は頼朝の政治的な盟友であり、源氏将軍とは縁戚でもあったため、元より関係が深かった。

    さらに、頼経の母は公家の西園寺家の出身であるところ、西園寺家は関東申次として朝廷と幕府の橋渡し役を果たす親幕府的な家門であることも好都合であった。

    こうして、未だ物心もつかぬ幼児であった頼経が将軍として推戴され、第2代将軍頼家の娘である源鞠子をその室とした。摂家から迎えられた将軍は、3代の源氏将軍と区別して、摂家将軍と呼ばれる。
  • 『太平記』の村上 義光

    元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した9名の1人として登場する。

    『太平記』巻第五 大塔宮熊野落事
    道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉した9名の1人、赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉した9名の1人、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。


    水野年方筆「村上義光芋瀬ニ綿旗奪返ス図」
    遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈(1丈約3メートルなので、12、15メートル)ほどかなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた。

    護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。
    (注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)。

    『太平記』巻第七 吉野城軍事
    元弘3年(1333年)初頭、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。 義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。

    なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。
  • August 2017 編集されました
    鎌倉時代末期の村上氏の当主村上信泰は、祖先が承久の乱に参陣しなかったことが響いて、幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に対して不満を募らせていたと思われる[要出典]。信泰の子村上義光が大番役として京にあったとき、倒幕を考えていた後醍醐天皇の皇子護良親王が接近し、村上氏に対し倒幕を示唆したとされる[要出典]。義光は元弘元年(1331年)の元弘の変が起こると、護良親王に従って十津川、吉野、高野山などを転戦して2年にわたり幕府軍と戦い続け、元弘3年(1333年)幕府軍に追われ吉野から逃亡する際には、護良親王の身代わりとなって腹を切ったと伝えられる(『太平記』)。その義光の子村上義隆も、同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にするなど、倒幕のために働いた。

    義光・義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である村上信貞が家督を相続し、義光親子の功績などもあり信濃国での権益と勢力を建武の新政下で一定の枠内で認められ、「信濃惣大将」と称せられるようになった。建武2年(1335年)に諏訪氏や仁科氏などが北条高時の遺児北条時行を奉じて挙兵した(中先代の乱)の際には、信貞は乱鎮圧のため京から下向して信濃国各所に出兵し、事実上鎮圧軍の主力として北条与党の豪族たちと交戦した

    足利尊氏が天皇に謀反を起こすと、朝廷は東海・東山両道に官軍を発向し、村上義貞は箱根・竹ノ下の戦いにおいて尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍の鎌倉進軍を阻止し(『太平記』)、越前国でも義貞軍と交戦し、これらの戦功により小県郡塩田庄を宛がわれた。それ以降、信濃守護職に補任された小笠原貞宗とともに、信濃国内の北条与党の討伐に邁進(まいしん)した。北条時行とその与党が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。

    惣領家である信濃村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である

    伊予国を中心に瀬戸内海に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、讃岐に流され水軍と深い関係を結んだ[要出典]。その孫にあたる村上定国(前述の村上為国の弟)が治承・寿永の乱の際に、再び関係を持ち、村上水軍の初代となったとされる[要出典]。その村上水軍を味方にするために後醍醐天皇ら南朝首脳は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相続したとされる

    この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。
  • August 2017 編集されました
    信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。本姓は清和源氏の一系統の河内源氏頼清流村上氏の支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺(延暦寺系山門派)別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡)栗田村に住居して栗田氏となった。鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職も世襲し、犬猿の関係にあった両社を支配下に置く有力国人となる。

    源 為国は、平安時代末期の武士・官人。清和源氏頼清流。蔵人源盛満(盛清)の子。後に源顕清の養子となる。義兄弟に宗清、定国、業国、盛国らがあり、子に道清、基国、宗実、経業、信国、惟国、世延(安信?)、宗信らがある。室は信西女など。崇徳院判官代。号は村上判官代。信濃村上氏の祖。

    嘉保元年(1094年)の白河院呪詛事件に連座して信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、都で崇徳院判官代を務めた(『尊卑分脈』)。こうした関係から保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳上皇・藤原頼長方として平家弘らと共に白河北殿に参じたが、敗北後の罪名宣下にその名はなく処罰を免れたものと考えられている(『兵範記』同年7月10日条、同27日条)。これは自身が信西の婿であったことや合戦に深く関与していないことなどが関係したと推測されている。
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