宇陀、久米歌、橿原神宮、磐余 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
宇陀、久米歌、橿原神宮、磐余 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とし、師木、ハエ、速の名の付く後裔が出ます。
『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。
『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。

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コメント

  • 播磨風土記の大和三山の争いの説話について

    揖保郡・上岡の里にかかわる伝承として、大和三山の争いと、出雲の阿菩の神によるその 調停についての説話を残している。 「出雲の阿菩の神、大倭の国の畝傍、香山、耳梨、三つの山、相相闘ふと聞かして、此れ を諌め止めむと欲して、上り来ましし時、此処に到りて、及ち闘ひ止みぬ、と聞かし、其 の乗らせる船を覆せて坐しき」(古典体系『風土記』所収)
    この説話はおそらく揖保川に係わる伝承であり、古来より揖保川を北上するルートは出 雲とつながっていたのであろう。
    しかし、私の観点からすれば、少なくとも大和三山の争いを調停し得るのは、大和三山 とは別な祭祀圏(山)であったこと、その司祭は、出雲系の神を祭祀していたらしい、と いうことである。(出雲の阿菩の神が到着する前に大和三山の争いは終わっているが、その 終結をもたらした、ある祭祀圏(山)に出雲系の司祭が居たということになる)。此れが卑 弥呼の共立によって、80 年にわたった大乱が収拾された、という「魏志倭人伝」の記事と どう符合するのか(or しないのか)は、この説話の、より一層厳密な分析のうえで論議さ れねばならないと考えられる。即断は許されない。
  • 久米御県神社
    奈良県橿原市久米町宮の谷
    祭神--高皇産霊神・大久米命・天槵根命
                                                      
    延喜式神名帳に、『大和国高市郡 久米御県神社三座』とある式内社。社名は“クメノミアガタ”と読む。

     近鉄・橿原神宮駅の西約250m、駅西口を出て西進、二つ目の信号(久米川原東)を右折(北へ)、突き当たりの小公園前を右(東へ)へ行った左手(東北角)に社叢が見え、その手前の辻を社叢に沿って北へ入った右側に鳥居が立つ(角に久米寺への案内表示あり)。
     突き当たりが久米仙人説話が残る古刹・久米寺で、当社はその南に当たる。

    ※由緒
     社頭に掲げる案内によれば、
     「創建は明らかではないが、来目(久米・クメ)に関わる伝承は古事記・日本書紀の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
     書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」
    とある。

     当社は古代氏族・久米氏がその祖神を祀った神社で、記紀には、久米氏にかかわって次の記述がある(いずれも大意)。
    *天孫降臨の段
     ・古事記--そのとき天忍日命(アメノオシヒ)・天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。

     ・書紀(一書4)--大伴連の遠祖・天忍日命が、来目部の遠祖・天槵津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・
  • 宮崎県土々呂の櫛津神社
    櫛津神社は、土々呂湾の奥、天神山にある。
    「神武東征」の先導をした大櫛津大久米命(アマクシツオオクメノミコト)を主神にし、船つなぎの岩や、天皇山とも遠征山、また手柄山と呼ぶ神跡もあり、伝説に包まれている。とにかくこの地域には古い石塔が多い。 創建等不詳。旧称天満宮。明治4年(1871)に字エンセキ山にあった天神社を合祀して、今の社名に改めた。元の社地は現在地より上の方であったが、約150年前、神殿改築の際、今の地に移した。神社の周辺はかっては海であったところで、神武天皇御船出の際、潮の変わりをこの地で待たれたとも言われている。また、櫛津の由来も、祭神の天櫛津大来目命の御名にちなんでいるとも言われる。
  • 奈良県高市郡明日香村岡に鎮座する、治田神社
    明日香村役場から東へ五〇〇mほど、岡寺の西隣り。
    『延喜式』神明帳の大和国高市郡に、「治田神社」がみえます。

    社号の「治田」は、推古天皇の小墾田宮や蘇我稲目の小墾田家があった地名にもとづくと考えられています。
    『古事記伝』がいうように、「飛鳥の地を広く小治田と云しなるべし」とするのが妥当でしょうか。

    『大和志料』のように、小治田を豊浦付近に限定し、当該神社にあてることを否定する見解もあります。

    祭神は、品陀別天皇、素盞嗚尊、大物主神。

    式内治田神社に比定されるまでは八幡神社だったため、応神(品陀別)天皇が祀られます。
    素盞嗚尊は、現地由緒書きによると、岡村字城山にあった八坂神社を合祀したもののようです。

    社地は、岡寺の旧寺地だったことが、発掘調査から確かめられています。
    ここに古代から継続して神社があったことは、否定されます。

    『五郡神社記』によると、安康朝に武内宿祢の曾孫で石川俣合氏の祖、石川楯が甘樫岡を開墾し、大地主神を祀る神殿を水田のほとりに建てたのが小治田神社の創建であり、今の豊浦神社だとする伝説があるようです。
    また、石川楯の追放後は蘇我韓子(稲目の祖父)にその家地・田部を賜ったとされます。
    飛鳥が蘇我氏の主導で開発されたことに結びつけられたのでしょうか。
    大地主神は大物主神と同一視されます。

    蘇我氏の同族には、『古事記』孝元段や『姓氏録』右京皇別に小治田臣(小治田朝臣)がいます。当地を本拠とした豪族と見られます。
    同じウヂ名を持つ集団に、小治田連(小治田宿祢)があります。『姓氏録』左京神別や右京神別に確認できる、物部氏の同族です。

    小治田には安閑紀元年十月条にみえる「小墾田屯倉」があり、天武紀元年六月条によると「小墾田兵庫」という武器庫があったようです。
    小治田連氏は、この屯倉の管理者として配置されていたものでしょうか。

    治田神社の奉斎集団も、蘇我系、物部系の小治田氏のいずれか、あるいは『姓氏録』左京皇別にみえる彦坐命後裔の治田連が候補に挙げうると思います。


  • 大 歳 神 社
    奈良県橿原市石川町宮ノ本
    祭神--大歳神 大山咋命

    喜式神名帳に、『大和国高市郡 大歳神社二座』とある

    近鉄・橿原神宮前駅の東約600m、駅東口を出て県道124号線を東へ約600m、駅前交差点(丈六)の次の信号を少し過ぎた処を左折、北へ進んだ右側に神社への石段がある(県道側にも、境内に入る細い石段があり、境内の横からも入れる)。
     神社のある小丘の南、道路を挟んで石川池(剣池)があり、その南側に孝元天皇陵(剣池嶋上陵-ツルギノイケノシマノエノミササギ)がある。

    ※由緒
    境内に案内表示がなく由緒など不明だが(神社名もみえない)、式内社調査報告(1982)には、
    「当社の由緒については古記はなく、五郡神社記(1446・室町後期)には、
    『社家の説に曰く、陸田ゝゝ二座、保食神(ウケモチ)、大歳神保食神之子也、是又石川俣合の祖・楯が社を建て祭祀する所か』
    とあり、これを奉齋したものは、当社が鎮座する石川村(現石川町)を開発した草始の人物と思われる石川楯であろうとしている。
     天保年間以降、境内社として天児屋根命をも配祀して今日の至っている」
    とある。
    五郡神社記がいう石川俣合の祖・楯とおぼしき人物が、
    書紀・雄略2年(5世紀中頃か)条に、
    「七月、百済の池津媛は、天皇が宮中に入れようとしておられたにもかかわらず、石川楯と通じた。天皇は大いに怒って、大伴室屋大連に命じて、来目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて、桟敷の上に置かせて、火で焼き殺させた」とでてくる。
     一方、同じ五郡神社記に、
      「治田神社一座 ・・・安康天皇の御世、武内宿禰の曾孫で石川俣合の祖・楯 甘樫岡を墾開して大田地を営む。然る後、楯、水田上に神殿を建て大地主神を奉斎、号して小治田神社と云う」
    ともある(式内社調査報告・治田神社の頃)。

    この二つを結びつければ、安康天皇が雄略天皇の一代前の天皇であることから、その頃、石川楯なる人物が実在した可能性はある。

    ただ、石川俣合氏の系譜は不詳(新撰姓氏録にはみえない)。石川楯が武内宿禰の曾孫ということ、宿禰から出たとされる蘇我氏発祥の地が高市郡葛城県蘇我里とされること(橿原市に曽我町あり、ただ渡来人説・河内の石川出生説など諸説あり)、蘇我氏が武内宿禰の子・蘇我石川宿禰から発すると伝わることなどから、石川俣合一族は蘇我氏に連なる氏族で、その一族が、その祖神を祀ったのが当社か、とも思えるが、それを証する史料はない。
  • 雄略記の百済の池津姫

    蓋鹵王はかねてより渡来人として百済民族の東漢人を集団移動させており(「遠き飛鳥近き飛鳥」参照)一種集団疎開先が倭にあった。自国の前途にいよいよ危機を感じた蓋鹵王は倭との親交を保つ為、皇女や高官の子女を送りこんでいたらしい。ところが倭は彼女らを後宮に入れ蓋鹵王に無礼な態度に出た。日本書紀によるとその中の池津姫に石川楯という恋人がおり、雄略天皇の後宮入りを拒んだ為、二人を焼き殺した。蓋鹵王は、倭王に対し激怒し次の皇帝文周王の弟(蓋鹵王の実子)の昆支王を461年に倭につかわした。蓋鹵王は昆支王に百済の血を絶やさないことを頼んだ。そして昆支王は倭にきて河内飛鳥に住んだ。河内飛鳥の飛鳥戸神社は昆支王を祀っている。昆支王は5子おり2子を百済に返し、第3子以降倭に留まったという。
     やがて475年、高句麗軍が百済の首都漢城(ソウル特別市)を攻撃してきた。これに先立ち、文周王(22代)は重臣木劦満致らとともに南方に逃れて、応援を求めて(倭?)再度帰国したときは王都は陥落しており、蓋鹵王は処刑されていたという。文周王は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都したが暗殺された。やがて三斤王が即位したが若年で死し、昆支王の子東城王を倭から送り返し百済王とし東城王となった。その後、武寧王、聖明王と帝位についた。聖明王は538年欽明天皇のとき、仏教公伝となり日本の歴史に登場した。
  • 久米歌(くめうた)

     大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)を歌っている。
     「宇陀の高城に鴫罠張る
      我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る
      前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね
      後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね
      ええ しやこしや こはいのごふそ
      ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ」
     現代語訳

     「宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。
      私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨(鷹)がかかった。
      古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
      新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
      エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。
      アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。」

     道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
     屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
     兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
     穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
     そして、穿邑顕彰碑周辺の宮を拠点として内牧川を遡った。
  • 『日本書紀』神武天皇4年2月条によると、「霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原(はりはら)と曰ふ」とあります。

    この上小野榛原(かみつおののはりはら)が宇陀市内の鳥見山で、下小野榛原(しもつおののはりはら)が桜井市内の鳥見山ではないかと推測されます。元々、霊畤は二箇所あったのかもしれません。

    標高734mの宇陀市鳥見山と、標高245mの桜井市鳥見山。

    もちろん、それぞれ別々の山なのですが、神武記に書かれている鳥見山は ”鳥見山” というある地域を表しているのではないか?そんな風にも思えるのです。広いエリアを指して上と下と言っていたのではないか、そんな仮説が立ちます。
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