干支と太陰暦 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

August 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

干支と太陰暦 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

60通りの干支は、1から60までの数字の役目をします。
だから、干支を1から60ま…

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コメント

  • 日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた(『日本書紀』によれば554年)。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇10年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。

    持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。

    2003年2月26日、飛鳥時代の宮殿もしくは役所跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、元嘉暦法に基づく具注暦を記した木簡が発見され、検証の結果、これが持統天皇3年(689年)三月・四月のものであることが分かったと奈良文化財研究所が発表した。元嘉暦による暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料である。

    2011年9月21日、福岡市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中ごろ)で、元嘉暦法による暦日干支推算結果と一致する「大歳庚寅正月六日庚寅(570年1月27日)」と刻まれた象嵌大刀が見つかったと福岡市教育委員会が発表した[3]。この銘文が仮に日本で刻まれたものであるとすれば、元嘉暦使用の実例としては日本最古となる。
  • 儀鳳暦
    唐の儀鳳年間(天武天皇5年(676年)-同8年(679年))に日本に伝わり、儀鳳暦と呼ばれた。ただし、唐からの直輸入であれば、唐が採用していた麟徳暦という名称を用いている筈であり、実際にはこの直前の文武王14年(674年)に採用されたとされている新羅を経由して伝来したという説もある(なお、平安時代に作成された『日本国見在書目録』では、麟徳暦と儀鳳暦が別の暦として認識されて別個に項目が立てられている)。

    儀鳳暦は持統天皇4年(690年)から元嘉暦との並用を始めた(『日本書紀』持統4年11月甲申条)。
    ただし、当初は日食計算などに主として用いられ、『日本書紀』の期日も元嘉暦であったとされている(文武天皇の即位期日(八月朔日=8月1日)の干支を『日本書紀』は元嘉暦、『続日本紀』は儀鳳暦で表記しているためにあたかも2説あるようにも見えるが、実際には同日であった)。

    5年後の文武天皇元年(697年)から儀鳳暦が単独で用いられるようになった(ただし、前年の持統天皇10年説・翌年の文武天皇2年説もある)。ただし、新暦の特徴の1つであった進朔は行われなかったとされている。その後67年間使用されて、天平宝字8年(764年)に大衍暦に改暦された。
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