古語拾遺 忌部氏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
古語拾遺 忌部氏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

中心は阿波と讃岐の忌部氏である。
現在の徳島市二…

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  •  阿波の忌部神社は神名帳の注記のように、天日鷲命を祭神とし、延喜式臨時祭の条には「天日鷲神社」とある。嘉祥二年(849)、天日鷲神に従五位下が授けられ、貞観元年(859)大麻比古神とともに従五位上に進み、以後、両神同じく元慶二年(878)に正五位下、同七年に従四位下に昇叙されている。ところが、その後の動向は史料が欠けて詳らかではなく、中世には兵火にかかったりして、わずかに細々と存続したようだ。
     ただし、忌部氏はこの付近に栄え、代々荒妙御衣を貢上して御衣御殿人と呼ばれ、室町時代に及んだ。忌部氏の中心地は社地の西南種野山の平地で、南北朝時代には武士として活躍しており、三木氏を称していた。三木はおそらく御調(ミツキ)の意であろう。この三木氏の一部が、吉野川をさらに遡った美馬郡の、貞光川という支流の流域に移った。鎌倉時代の初期の頃と思われ、そこの端山の吉良というところに忌部神社を分祀し、忌部庄の名が生れた。
     ところで、忌部神社の祠官は、代々阿波忌部氏が務めた。忌部氏は上記のように天太玉命の後裔である。『古代氏族系譜集成』などの忌部氏系図によると、天玉太命の玄孫にあたる飯長媛命に斎主と注記され、神魂命の後裔にあたる由布津主命と夫婦となり、その間に堅田主命が生れている。そしてその子孫が、阿波忌部・安房忌部氏とに分かれている。
     阿波忌部玉淵に至って、麻植郡大領となり併せて忌部大祭主を務めるようになった。以後、玉淵の子孫が代々忌部神社の大祭主を務めたとある。戦国時代、忌部大宮司持光は因幡守を称し貞光城主であったが、長宗我部元親に攻められ降ったことが系図に記され、その孫の景光のときに笠井氏を称している。
  • 「天太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、石凝姥神(イシコリドメノカミ)天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。
    に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、長白羽神(ナガシロハノカミ)伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの事が始まりである。に麻で青和幣(アオニギテ)古くは爾伎弖を作らせ、天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。、天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)倭文の遠祖である。に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。

    古くは爾伎多倍(ニギタヘ)と言う。櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ、手置帆負・彦狭知の二神に天御量(アメノミハカリ)大小の量り雑器などの名である。大峡・小峡の木を伐り瑞殿を造り古くは美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う。

    また、御笠と矛盾を作らせ、天目一箇神(アマノメヒトツカミ)種々の刀・斧・鐡鐸古くは佐那伎(サナギ)と言う。を作らせ、それらの物が揃ったら、天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)古くは佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、天太玉命に捧げ持たせて讃えさせ、また、天児屋命に相共に祈祷させ、また天鈿女命(アメノウズメノミコト)古くは天乃於須(アメノオスメ)と言う。
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