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「神功皇后の侵攻に新羅王は降参し、倭に朝貢することを約束した。また新羅王は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質に差し出して、金・銀・彩色・綾・絹をつけて、神功の軍船に従わせた」 と書紀は記している。
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新羅王波沙寐錦(ハサムキム=五代婆娑尼師今80-112)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ=十七代奈勿尼師今の子,未斯欣)を(注:年代的に18代実聖尼師今402-417?元年402に)人質として、金・銀・彩色(ウルワシキイロ)、及び、綾(アヤキヌ=絹織物)・羅(ウスハタ=薄絹織物)・?絹(カトリノキヌ=細く硬く縫絹織物)をもたらして、八十艘(ヤソカハラ)船に載せ、官軍に従う。新羅王常に八十船(ヤソフネ)の貢物を日本国(ワガミカド)に献上。これその由縁。 高麗(コマ)・百済二国王は、新羅が図籍(シルシヘフミ タ=地図戸籍)を差出し、日本国に降伏と聞き、密かに軍勢(ミイクサノイキオイ)を伺いすぐに勝不可と知り、自ら営(イオリ)外に来、叩頭して曰く「今以後、永遠に西蕃(ニシノトナリ)と称し、朝貢絶えざらん」 それで内官家 屯倉(ウチツミヤツケ=天皇直轄領)定め、いわゆる三韓(ミツノカラクニ)なり。皇后新羅から帰る。 12月14日。筑紫で譽田天皇が生誕。それで時の人はその場所を宇瀰 (ウミ=福岡県糟屋郡宇美町)と言う。
とばして
時に神、その名を称して曰く。 「表筒雄・中筒雄・底筒雄」 これの如くとこの三神名を称し、重ねて曰く。 「私の名前は向匱男聞襲大?五御魂速狹騰尊(ムカヒツオモソホフイツ ノミタマハヤサノボリノミコト)だ」 その時、天皇は皇后に言いて曰く。 「悪しきこと言うを聞く、坐しますは婦人か! 何ぞ速狹騰(ハヤサノボリ)と言う」 神は天皇に言いて曰く。 「汝王。 信じざる如し、必ずその国を得ず。今、皇后懐姙の子、獲る」 この夜、天皇、病発し崩御す。 その後、皇后、神の教えに随い祀り、皇后男の束装(ヨソオイ)し新羅 に征く。神、留まりて導く。隨船の浪(フナナミ)遠く新羅の国中に及ぶ。 新羅王、宇流助富利智干(ウルソホリチカ:于老舒弗邯ウロジョフツカン~253or于老+新羅王11代助賁尼師今ジョフンニシコン230-247 ?)は参り迎えて跪(ヒザマヅ)き、王船取り 叩頭して曰く。 「臣、今以後、日本国に居る神御子に内官家(ウチツミヤケ)と鳴、朝貢絶えず」
是の年、太?己未。 魏志云う、明帝(メイテイ)景初三年六月、倭女王、大夫(タイフ)難斗米など遣り、郡に詣で、天子に詣で朝献を求む。太守鄧夏(トカ)、吏(リ)を遣り、将に送りて京都(ケイト=洛陽)に詣でしむ。
即位40年。
魏志云う、正始(セイシ)元年、建忠(ケンチュウ)校尉(コウイ)梯携(テイイ)等を遣り、詔書印綬(ユウショインジュ)を奉じ、倭国に詣でる。
即位43年。
魏志云う、正始4年、倭王、復た使 大夫伊聲者、掖耶約(?)等8人を遣り上献す。
即位46年 二段
斯摩宿禰(シマノスクネ)は傔人(シタガエルヒト)爾波移(ニハヤ)、卓淳(タクジュン)人過古(クヮコ)の二人を以て百済国に遣り、その王を慰労す。時、百済肖古王(5代166-214:13代近肖古王は346-375)深く之歡喜し、厚遇す。仍て5色の綵(あや)絹各一匹、及び角弓箭(つのゆみや)、鐵?(テツテイ)併せ40枚を爾波移(ニハヤ)に幣とす。 また、宝の蔵を開き、以て諸珍異(チンイ)を 示し曰く。 「吾国、多(さわ)に是、珍宝有り。貴国(日本)に貢(タテマツ)らんと欲す、道路知らず。志が有るも従(ちかずけ)ず。しかるも尚、今、使者に付し尋ね貢献せん」 是に於いて爾波移(ニハヤ)、事 を奉じて還りて志摩宿禰(シマノスクネ)に告げん。便(すなわ)ち卓淳自り之、還るなり。
三十九年。
是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。
四十年。
魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。
四十三年。
魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遣して上献す。
この薄字の部分は「文註」と云って、本文とも云い難いのですが、突然このような文註が現れます。
これは、倭人伝を要約して記載されています。
なぜ『日本書紀』はこの神功皇后摂政記に突然「邪馬台国」の記述である倭人伝を記したのでしょうか?「卑弥呼」の名は一切出ていませんし、「邪馬台国」の文字も出てきません。しかし書記の編纂チームは、倭人伝に描かれた女王を神功皇后に比定する事で、中国の歴史書との整合性を保とうとしています。
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魏志倭人伝に
景初2年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 (岩波文庫33-401-1)
景初二年六月、倭女王、遣大夫難升米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏、遣吏將送詣京都。 (原文)
太守劉夏が太守鄧夏と誤記されていること
他の方がご指摘されているように、
『三国志』に表記されているのは「邪馬壱国」(邪馬壹國)です。
「邪馬台国」が登場するのは、『三国志』より後に書かれた范曄『後漢書』などからです。
日本史の教科書は、
『三国志』にある「邪馬壱国」は「邪馬台国」の誤りだとし、勝手に原史料を改竄しています。
写本は万世一系ではありません。その説では数多く存在した『三国志』の写本(版本)が、なぜことごとく同じ文字になっているのか説明できません。『三国志』では「邪馬壱国」、後の史料では「邪馬台国」とある。
※魏は景初二年の6月には帯方郡を占領しています。
景初二年春に、劉昕と鮮于嗣が海路で帯方郡と楽浪郡を制圧しています。
「明帝景初三年六月」は、元々は「明帝景初二年六月」とあったものを、日本書紀を書写していく間に「二」を「三」に誤った可能性もあるものと考えられます。
また、「劉夏」が「鄧夏」となっておりますこと、「難升米」が「難斗米」となっていることからも、その可能性が高い様に考えます。
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謎の一つは、魏志倭人伝の景初2年の記事を、日本書紀が神功39年のところに、次のように、明帝景初3年として載せていることです。
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39年。是年、大歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
卅九年、是年也太歳己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。 (原文)
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神功紀には、年代の延長のヒントを示すために、次のように、台与に関する記事の前に、干支2巡分の60×2=120年新しい百済王に関する記事を載せています。
六十四年(264年)に、百済国の貴須王薨りぬ(384年)。王子枕流王、立ちて王となる。
六十五年(265年)に、百済の枕流王薨りぬ(385年=60×2+265年)。
六十六年(266年)。是年、晋の武帝の泰初の二年(266年)なり。晋の起居の注に云はく、
武帝の泰初の二年(266年)の十月(十一月)に、倭の女王、訳(通訳)を重ねて貢献せしむといふ。
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魏志倭人伝には、年号として正始と景初2年が使われていましたが、「初め=はじめ」、「始め=はじめ」とはいえ、泰初二年の「初」は景初2年と同様に誤記で、正しくは「始」です。すなわち、武帝の泰始二年だから266年になるわけです。
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
(太和二年)(西暦228年)正月 宣王攻破新城 斬達傳其首
魏畧曰 宣王誘達將李輔及達甥鄧賢 賢等開門納軍 達被圍旬有六日而敗 焚其首于洛陽四達之衢 分新城之上庸,武靈[註1],巫[註1]縣爲上庸郡、錫縣爲錫郡
蜀大將諸葛亮寇邊 天水,南安,安定三郡吏民叛應亮
遣大將軍曹眞都督關右 並進兵
右將軍張郃擊亮於街亭 大破之
亮敗走 三郡平
丁未 行幸長安
魏畧載 帝露布天下幷班告益州曰
劉備背恩 自竄巴,蜀
諸葛亮棄父母之國 阿殘賊之黨 神人被毒 惡積身滅
亮外慕立孤之名 而內貪專擅之實
劉升之兄弟守空城而已[註2]
亮又侮易益土虐用其民 是以利狼,宕渠,高定,靑羌莫不瓦解 爲亮讐敵
而亮反裘負薪 裏盡毛殫 刖趾適屨 刻肌傷骨 反更稱說 自以爲能
行兵於井底 游步於牛蹄
自朕卽位三邊無事 猶哀憐天下數遭兵革 且欲養四海之耆老 長後生之孤幼 先移風於禮樂 次講武於農
・仲哀天皇2年:皇后就任
・オキナガタラシヒメ(神功皇后)は仲哀天皇の即位2年に皇后となった
・皇后は幼い頃から聡明で知恵があり、容貌も壮麗だった
・皇后の父は娘を怪しく思っていた(人間離れした霊威の持主だと思っていた)
・仲哀天皇9年2月:仲哀天皇の崩御
・天皇は神に従わなかったことで早々に崩御してしまった
・異伝にて、住吉三神の神託に従わなかったことで崩御した旨が記される(『古事記』に類似するが詳細は異なる)
・皇后は天皇が崩御したことに心を痛め、神の意志によって財宝の国(朝鮮)への侵攻を決定した
・(仲哀天皇9年)4月1日:神懸って神名を求める
・皇后は斎宮に入って自ら神主となった(武内宿禰は琴を弾く役、中臣烏賊津使主は神託を聞く役となった)
・天皇に神託を下した神の名を問うと、七日七夜の後に返答があった(以下、神名)
・撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)
・尾田の吾田節の淡郡にいる神(不明だが、ワカヒルメという説がある)
・天事代於虚事代玉籤入姫嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシルノカミ)
・表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男神(ソコツツノオ)
・(仲哀天皇9年)4月:筑紫の敵を討つ
・鴨別(吉備臣の祖先)に熊襲国の征討を命じた(後に熊襲は自ら服属した)
・20日、皇后自ら出陣して羽白熊鷲(翼を持つ人)を討伐した
・25日、田油津媛(土蜘蛛の首長)を討伐した
・(仲哀天皇9年):三韓征伐の吉兆を得る
・皇后は三韓征伐の神託の実行時期を占うべく、誓約(「こうなるなら、こうなる」という形の占い)を行った
・肥前国にて誓約をすると、吉兆のシルシとして鮎が釣れた
・神田を造成して水を引こうと祈ると、落雷が岩を砕いて水を通した
・橿日浦にて誓約をすると、吉兆のシルシとして海水で洗った髪が自然と二つに分かれた
・誓約の結果 吉兆を得たため、皇后は軍を起こして三韓征伐の実行を決めた
・(仲哀天皇9年)9月10日:三韓征伐の準備をする
・諸国に兵士・兵器・船舶を集めるよう命じた
・兵士が集まらなかったため、大三輪社を建てて刀矛を奉った(後に兵士は自然と集まった)
・偵察を出して朝鮮半島の位置を確認させた
・出陣の吉日を占い、皇后自ら斧・鉞を持って"戦の掟"を命じた
・神は"和魂に皇后の身を守らせ、荒魂に船を導かせよう"という神託を下した
・このとき皇后は臨月を迎えていたため、腰に石を挟んで"帰国した日に御子が生まれる"よう祈った
・(仲哀天皇9年)10月3日:三韓征伐
・皇后の軍は和珥津より朝鮮半島に向けて出発した
・このとき、カゼノカミが風を起こし、ウミノカミが波を上げ、海中の大魚が浮かんで船の進行を助けた
・大波に乗った船は あっという間に新羅に到着し、そのまま新羅国の中程までに乗り上げた
・新羅の王は倭国と争っても勝てないと悟り、すぐにシロハタを上げて自ら服属した
・新羅の王は、図籍(土地の図面と戸籍)を提出して倭国の飼部になると誓い、朝貢の約束をした
・皇后は矛を新羅の王宮の門前に立てて、後世のシルシとした
・この後、新羅の王は倭国に人質と金銀財宝を献上した
・新羅の様子を見た高麗・百済も、倭国と争っても勝てないと悟って降伏を決めた
・以後、ニシノトナリ(西の異民族)と称して朝貢を絶えず行うことを誓った
・三韓征伐を終えると、皇后は新羅から帰国した
・帰国後、穴門の山田邑に軍を導いた住吉三神の荒御魂を祀った
・異伝にて、新羅に置いた大使が新羅王の妻らに殺害されたことから、新羅を滅ぼそうとした旨が記される
・(仲哀天皇9年)12月14日:応神天皇の誕生
・筑紫で譽田天皇(応神天皇)が誕生し、その地を宇瀰(ウミ)と名付けた
・(仲哀天皇10年)2月:カゴサカノミコ・オシクマノミコの謀反
・天皇の皇子のカゴサカノミコ・オシクマノミコは、皇后の帰国に合わせて謀反を企んでいた
・二人は戦勝を占うため、"謀反が成功するなら良い獣を得られる"とする祈狩(ウケイガリ)を行った
・カゴサカノミコは、そこに現れた赤い猪に喰われてしまった
・オシクマノミコは、怖気づいた兵をまとめて住吉に駐屯した
・一方、皇后はオシクマノミコが待ち伏せしていることを知って、海路を通って紀伊から難波に向かった
・このとき、船が海で回って先に進めなくなったため、務古水門(ムコノミナト)に帰って方法を占った
・天照大神は"我が荒魂を広田国に祀れ"と教えた(廣田神社に当たる)
・稚日女尊は"吾を活田長峽國に祀れ"と教えた(生田神社に当たる)
・事代主尊は"吾を長田国に祀れ"と教えた(長田神社に当たる)
・住吉三神は"吾の和魂を大津の渟中倉の長峽に祀れ"と教えた(住吉大社に当たる)
・皇后が神々を祀らせると、船は平和に海を進むことが出来た
・皇后が紀伊国からオシクマノミコを攻めようとすると、昼間でも暗くなる常夜(トコヤミ)が続いた
・その地の老父に曰く"二つの社の神主を同じ場所に葬ったこと"が原因とされた
・そこで棺を造って墓を分けると日の光が戻った
・(仲哀天皇10年)3月5日:オシクマノミコの討伐
・武内宿禰・武振熊に兵を率いさせてオシクマノミコを討たせた
・武内宿禰は騙し討ちを仕掛けて、オシクマノミコを撃破した
・(仲哀天皇10年)10月2日:神功皇后摂政元年
・群臣らは皇后を尊んで皇太后とし、このときより摂政元年と定めた
・神功皇后摂政2年11月8日:仲哀天皇の埋葬
・仲哀天皇を河内国の長野陵に葬った
・神功皇后摂政3年1月3日:譽田別皇子(応神天皇)の立太子
・譽田別皇子を皇太子にし、磐余に都を造った(これを若桜宮という)
・神功皇后摂政5年3月7日:新羅に人質を返して、俘囚を連れ帰る(『三国史記』にも同様の記述がある)
・新羅王は3人の使者を倭国に派遣して朝貢した
・使者らは倭国に人質として渡していたミシコチホツカンを返してもらうために皇太后を欺いた
・皇太后はミシコチホツカンの帰国を許したが、倭国からもカツラギノソツヒコを派遣した
・新羅の使者はカツラギノソツヒコを欺いてミシコチホツカンを本土に逃した
・欺かれたことを知ったカツラギノソツヒコは使者らを捕えて焼き殺した
・カツラギノソツヒコは俘囚(捕虜)を連れ帰り、捕虜らは後に桑原・佐糜・高宮・忍海の邑の始祖となった
・神功皇后摂政13年2月8日:皇太子が敦賀の気比大神を参拝する
・武内宿禰に命じて、皇太子を角鹿(敦賀)の笥飯大神(気比大神)に参詣させた
・神功皇后摂政13年2月17日:大殿で宴を行う
・皇太子が敦賀から帰ると、皇太后は皇太子と共に大殿で宴を開いた
・神功皇后摂政39~43年:『魏志(三国志)』の引用(神功皇后を卑弥呼と結びつけている)
・『魏志』によれば、明帝景初3年に倭の女王が大夫の難斗米を派遣して朝献した云々(摂政39年)
・『魏志』によれば、正始元年に建忠校尉梯携らを倭国に派遣して、詔書印綬を奉った(摂政40年)
・『魏志』によれば、正始4年に倭王は使者の大夫・伊聲者掖耶約ら8人を派遣して、物品を献上した(摂政43年)
・神功皇后摂政46年3月1日:百済と国交を結ぶ
・倭国の使者としてシマノスクネを卓淳國(朝鮮の国)に派遣した
・そこで卓淳王から"百済人が倭国を詣でたいが、道がわからず困っているらしい"と伝えられた
・シマノスクネは、従者のニハヤと卓淳人を百済に派遣して百済王を慰労した
・百済王は感激してニハヤに絹・弓・鉄材などを与え、蔵の中の珍しい宝物を見せた
・百済王は"朝貢に向かおうと思っているが道がわからず困っている"とニハヤに伝えた
・ニハヤが報告すると、シマノスクネは卓淳國から帰国した(百済との国交を結んだ)
・神功皇后摂政47年4月:新羅と百済の確執
・新羅と百済から朝貢があり、皇太后と皇太子はとても喜んだ
・しかし、新羅の貢物が豪華だったのに対し、百済の貢物は質素であった
・不思議に思った皇太子が百済の使者に尋ねると"新羅人に襲われて貢物を取られてしまった"と答えた
・皇太后と皇太子が新羅の使者を責め、事の真相を突き止めるために新羅・百済に使者を送ることにした
・そこで、天神に祈って使者に相応しい人物を問うと"チクマナガヒコを派遣するべし"との神託を得た
・チクマナガヒコを新羅に派遣して疑惑を責めると、新羅が百済の貢物を奪ったことが分かった
・神功皇后摂政49年3月:新羅と朝鮮諸国を攻め取り、百済と盟約を結ぶ
・倭国はアラタワケ・カガワケを将軍とし、百済と共に新羅を攻めようとした
・その際、新羅の付近の卓淳國を拠点とし、精鋭を集めて新羅を撃ち破った
・また、比自?・南加羅・?国・安羅・多羅・卓淳・加羅の朝鮮七ヵ国を平定した
・さらに西に廻って南蛮の忱彌多禮を討ち取って百済に与えた
・百済王と王子が軍を率いて会いに来た
・この際、比利・辟中・布彌支・半古の4つの邑が自ら降伏した
・ここで倭国と百済の将軍らは百済王・王子と会えたことを互いに喜び、厚い礼を以って別れた
・その後、チクマナガヒコと百済王は百済に向かい、辟支山にて盟約を結んだ
・神功皇后摂政50年:将軍らが帰国する
・2月、アラタワケらが帰国した
・5月、チクマナガヒコが百済の使者と共に帰国した
・皇太后が百済の使者に頻繁に"倭国を訪れる理由"を尋ねると「倭国の恩恵に誠意を示すため」と答えた
・また、百済の使者は"万世に渡って朝貢すること"を誓い、歓んだ皇太后は多沙城を与えて駅とした
・神功皇后摂政51年3月:百済との親交を深める
・百済王が使者を派遣して朝貢した
・皇太后は皇太子と武内宿禰に「百済との親交は天の賜物である、今後も厚い礼を持って迎えよ」と語った
・チクマナガヒコを百済に派遣した
・この際、皇太后から預かったウツクシビを百済王に伝えると、百済王・王子は深く感謝した
・神功皇后摂政52年9月10日:百済から七枝刀などを献上される
・チクマナガヒコが百済の使者と共に帰国した
・百済は七枝刀・七子鏡・種々の重宝を献上した
・また、倭国に毎年朝貢することを伝え、親交を深めた
・神功皇后摂政55~56年:百済王の交代
・摂政55年、百済の肖古王(ショウコオウ)が逝去した
・摂政56年、百済王子の貴須(クルス)が王となった
・神功皇后摂政62年:新羅を攻める
・新羅が朝貢しなかったため、カツラギノソツヒコを派遣して新羅を討った
・『百済記』からの引用文が記される
・神功皇后摂政64~65年:百済王の交代
・摂政64年、百済の貴須王が亡くなり、王子の枕流(トムル)が王となった
・摂政65年、百済の枕流王が亡くなり、年少だった王子に代わって叔父の辰斯(シンシ)が王となった
・神功皇后摂政66年:『晋起居注(中国の史料)』の引用
・『晋起居注』によれば、武帝泰初2年10月に倭の女王は何度も訳(オサ)して貢献したとされる
・神功皇后摂政69年4月17日:神功皇后の崩御
・皇太后は稚櫻宮にて崩御した(このとき、100歳であった)
・10月15日、狹城盾列陵に葬り、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)の名を贈った
宇佐国造の流れから応神天皇が現れ、その弟の稚渟毛二俣命(品夜別命)の後裔から継体天皇が現れた。
応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推される。
大和朝廷の神武天皇による創設は、西暦二世紀後葉で、神武の母胎・故地は、筑後川中流域にあった邪馬台国の怡 土支部国で、これら国々の王族たる天孫族はた、太陽神崇拝・鳥トーテム・天降り伝承や鍛冶屋技術をもち、南伽耶の地から一世紀前半頃に日本列島に渡来してきた。
天孫族の我が国の初祖、五十猛神が八幡神・兵主神に通じ、韓地の安羅伽耶あたりからとらいしたことは神話・伝承をさまざまな角度から検討した結果、明確になってくる。天日矛や神功皇后の伝承や祭祀にもよくあらわれる。応神天皇の遠祖も伽耶から日本列島に渡来してきた天孫系の分派の息長氏族からでたもので、前王統と同じ出自であった。応神天皇は、針間国造の祖・稲背入彦命と垂仁天皇皇女の阿邪美都比売命との間に生まれた。と述べている
稲背入彦命(播磨国造の祖)は、垂仁天皇及び景行天皇周辺の人物は、記・紀や『旧事本紀』で一致しないことが多く、その皇子・皇女について多くの矛盾する所伝が記載されています。この矛盾がなぜ生じたのかというと、結論的にいえば、本来別系であった応神天皇とその祖先の系譜を両天皇の周辺人物に取り込んだからだと推されます。
稲背入彦命(稲瀬毘古命)については、記と紀とでは、記のほうが古伝であって、原型ではないかと考えられるところです。すなわち、稲瀬毘古命は本来王族ではなく、垂仁皇女との婚姻(垂仁女婿となること)により皇子として皇室系譜に取り込まれたと考えるものです。
「稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。」
「倭建命」の子供に「息長田別王」なる人物に始まる。
「息長田別王」とは、倭建命と大吉備建比売の御子「建貝児王(たけかひこのみこ)武卵王。讃岐の綾君等の祖」と同人であり、神櫛王(神櫛別命。『記紀』では 第12代景行天皇の皇子としてあげられる讃岐国造の祖。『日本書記』では景行天皇の皇子としてあげられる稲背入彦(播磨国造の祖)の同母弟とされる。讃岐では、讃留霊王と称される)とも同人で、主に四国北部辺で活動したと見られる。
つまり、「息長田別王」とは
建貝児王
武卵王
讃岐国造の祖 讃岐の綾君等の祖
稲背入彦(播磨国造の祖)の弟
その父「倭建命」とは、『肥前国風土記』の崇神朝の時、九州肥後の土蜘蛛退治に功績があったと記される肥国造(火君)祖の「建緒組命」に比定される。
つまり、「倭建命」とは
肥国造(火君)祖の「建緒組命」
『古事記』では、「息長田別王」の子に「杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)」がみられ、
『古事記』応神段では
第15代 応神天皇が「杙俣長日子王」の娘である「息長真若中比売」を娶って「若野毛二俣(わかぬけふたまた)王」を生んだとある。
杙俣長日子王とは
垂仁・景行朝頃に活動した倭建命と大吉備建比売の御子「建貝児王」(武卵王。讃岐の綾君等の祖)の子孫については、成務・神功皇后朝頃に活動する。そのなかの長子は「大枝命」(大江王。仲哀天皇の后妃・大中津比売命の父)であり、名を「稲背入彦命」(播磨国造の祖としての名。『日本書紀』に稲背入彦皇子、『古事記』には日子人之大江王とあり、垂仁段では稲瀬毘古王として垂仁の女婿とする)とも、大兄水城命ともいい、息長彦人大兄水城命という「息長」を冠した名前でも『姓氏録』にみえる。この者が杙俣長日子王にあたる。
☞つまり「杙俣長日子王」の別名
稲背入彦命(播磨国造の祖)
大枝命(大江王。仲哀天皇の后妃・大中津比売命の父)
日子人之大江王
稲瀬毘古王(垂仁の女婿)
息長彦人大兄水城命
「杙俣長日子王」は、稲背入彦命という名をもつ針間国造の祖であり、息長一族はまず播磨西部に拠点をおいた。稚野毛二俣王命は、兄の応神天皇とともに播磨方面から摂津・河内あたりに入ってきたと見られている。
息長氏について播磨を重視した研究者に金井清一氏がおり、古代史料で「息長」にみえる者が播磨に関係することが多い事情から、「息長氏が播磨に居住していたことがわかる」という結論を導き出した。
大阪市平野区には、中国の王莽時代(紀元8~22年)の貨泉(銅貨)が出土した瓜破遺跡やその東南部には長原遺跡がある。
長原遺跡は、旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡。
古墳時代中期(5世紀前葉)になると、最古式の須恵器や軟質の韓式系土器が多数出土しており、朝鮮半島南部の伽耶や百済の地で出土する土器と類似するものが多く、朝鮮半島南部から移住してきた人々も生活していたことがわかる。
また、鉄などの金属を作る際に使用されるフイゴの羽口が出土し、近畿で最古の鉄器生産遺構とされる。
【長原高廻り1号墳・2号墳出土 船形埴輪】
長原付近には、300-500基に及ぶ小型古墳があったと推定されている。小型古墳にかかわらず、出土する埴輪(はにわ)は大王級古墳に匹敵するほどの種類と出来栄えをもつ。特に高廻り2号墳(直径約21mの円墳)周濠からは、5世紀前半の、現在知られる最大の船の埴輪が出土した。
埴輪の全体比率から実物大の船を想定すると、全長約15m、幅約3m、総20~30トン、数十人を乗せることができると思われ、当時は朝鮮半島や中国大陸との交渉が始まった「倭の五王」の時代にあたり、十分外洋にこぎ出せる船であったことは注目に値する。
杭全郷域の喜連村の「息長氏」
大伴家持は、難波宮で役に着いた翌年の天平勝宝八年三月七日には、聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇太后と共に河内国伎人郷(今の東住吉区喜連の地)の馬国人の家で宴を催されました。万葉集に当地で歌った歌がある。
☞大伴家持
「住吉の浜松が根の下延(ば)へて我が見る小野の草な刈りそね 」
☞主人である馬国人が大伴家持に贈ったとされる一首
「にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽きめやも 」
「にほ鳥」は、「息長」の掛詞
歌に織り込まれた「息長川」は従来、近江国に在る河川のことだと解釈されてきました。しかし、帝が行幸した宮が「難波(なにわ)」であり、その一行を迎えてわざわざ宴席を設えた役人が「河内国伎人」郷の住人で、この河内国伎人郷を流れる川で、『東成郡詩』には名所旧蹟墳墓の項に「息長川 今川の旧河身なり。今川、旧河内川と称せり、河内丹北部より流れて喜連村にはいりて息長川と称せり」とある。
これは、古えの「息長川」が河内にもあったことで、「息長氏」は、近江坂田郡の息長氏よりも喜連村の息長氏の方が先行し、息長氏は河内国から近江へ入ったとの説がある。
『古事記』応神段では、第15代応神天皇が「杙俣長日子王」の娘である「息長真若中比売」を娶って「若野毛二俣(わかぬけふたまた)王」を生んだとある。稚野毛二俣王命の娘は、第19代允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。忍坂大中姫は河内出身とされ、当時仁徳の難波高津宮あたりで、河俣ないし杙俣にあたる「杭全(くまた)郷(摂津国住吉郡、大阪市平野区、河内の境界近く)、河内の杭全郷の喜連村(平野区)の名家北村氏は息長氏と伝える。
喜連には往時の古墳を思わせる塚名があり、東喜連にある山王塚の円墳は、『大阪府全志』は允恭天皇の皇后で、父は稚野毛二派皇子の忍坂大中姫の御陵の墳と伝える。またその南東の中筋塚は沙弥王の墓、西喜連の広住塚は息長真若中姫の墓と伝える。喜連村には、式内社の楯原神社があり、境内には息長真若中女の石碑がある。
宝賀寿男氏によると、息長氏が近江国坂田郡に移遷したのは、忍坂大中姫の長兄にあたる大郎子(意富富杼王)の時代で、坂田郡の古墳事情も、時期的にほぼ符号する。近江の北部・中部に繁栄した皇親としての息長君一族も、大郎子の後裔に限定されると述べている。
偶然にも「聖徳太子(厩戸皇子)の伝承地「難波」を訪れる」の旅は、鵲森宮から始めて楯原神社で終わった。聖徳太子(厩戸皇子)の伝承地と重なる息長氏の伝承地のテーマの旅となった。
息長氏は宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨→摂津河内→近江とつながる
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◉杭全神社
平安の初期、征夷大将軍坂上田村麿の子広野麿が、杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子当道が貞観4年(862年)に氏神として素盞嗚尊を勧請し、祇園社を創建したのが第一殿である。
◉赤留比売命神社(あかるひめのみことじんじゃ)
杭全 神社の境外末社となっていますが、かつては、住吉大社の末社でした。
『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。
『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一。
河内国伎人郷と言われた地域
喜連村一帯は、往時、大々杼(オオド)国大々杼郷と称した。その由来は、この土地に鎮座する式内社楯原神社の祭神である建御雷男命の御孫建大々杼命に因むもので、その子建彦命が父の御名を国・郷につけたという。
◉楯原神社
平野郷の赤留比売神社(現在は杭全神社の摂社)より水神として勧請した
「息長真若中女媛」の碑がある。
石上神宮の十種神宝を祭る「十種神宝大神」がある。
◉楯原神社の北側の霊峰山如願寺
如願寺は当時は喜連寺として創建された。三十二代用明天皇の時代、聖徳太子が物部守屋を討伐したとき、仏法興隆奇瑞の地として当寺を建てた。