Forum_tokyoblog
ディスカッション
アクティビティ
ホーム
›
韓半島
ログイン
•
アカウントを作成する
ようこそ!
初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
ログイン
アカウントを作成する
カテゴリ
最近のディスカッション
アクティビティ
カテゴリ
すべてのカテゴリ
556
関東
5
伊勢
4
出雲
9
河内
5
近江
7
播磨
7
吉備
7
九州
29
讃岐・阿波・伊予
25
空海
4
韓半島
19
ヤマトタケル
12
古代史書
28
出土品/交易
38
神社
39
倭国・倭人
25
大和王朝
15
神武ー開化
22
崇神ー仲哀
10
応神ー武烈
15
継体ー推古
12
舒明ー聖武
13
古代氏族
59
一般/歴史書
147
高句麗の平壌は、現在の平壌ではない – 古代史俯瞰 by tokyoblog
System
July 2017
December 2018 編集されました
カテゴリ:
韓半島
高句麗の平壌は、現在の平壌ではない – 古代史俯瞰 by tokyoblog
wikiによれば、
高句…
Read the full story here
コメント
tokyoblog
July 2017
July 2017 編集されました
後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。
384年 : 建国。慕容垂、鄴を包囲。
385年 : 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。後燕将軍慕容農、夫余余巖を攻め殺す。
394年 : 慕容垂、華北東部に移動してきた西燕と衝突し、これを滅ぼす。
395年 : 燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
396年 : 燕王慕容垂、軍を率いて北魏を攻めるが、陣中で病没。太子慕容宝即位。
397年 : 魏王拓跋珪、燕の都である中山を攻撃。燕王慕容宝、龍城に逃走。
398年 : 慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
400年 : 慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回。
401年 : 慕容盛が暗殺され、太后丁氏が慕容熙を擁立。
402年 : 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
405年 : 慕容熙、高句麗の遼東城を攻めるが勝たず。
407年 : 後燕の漢人将軍馮跋が慕容熙を廃し、高雲を擁立(北燕)。
年号
燕元(384年 - 386年)
建興(386年 - 396年)
永康(396年 - 398年)
建始(397年)
延平(397年)
青龍(398年)
建平(398年)
長楽(399年 - 401年)
光始(401年 - 406年)
建始(407年)
前燕と前秦
370年9月、前秦は6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍を慕容評に与えて対戦させただが晋陽(現在の山西省太原市)や上党(現在の山西省長治市)など主だった都市が次々と攻められ、11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した[7][9]。
国家体制と国勢
前燕は、華北の争乱により発生した漢人の流民や在地の漢人を積極的に受け入れることで官僚機構を構築、さらに中原の進んだ農耕技術や文化を導入して独自の政権を形成した
また慕容暐の時代には太宰・太傅・太保・太師・太尉・大司馬・司徒・司空の八公を頂点とする中央の支配機構が構築され、以後名実共に中国王朝化していった。
人口に関しては次の統計がある。中華統一を目指した慕容儁は歩兵150万人の徴兵を図っている(ただし慕容儁の急死で頓挫)。
また前秦が前燕を滅ぼした際に入手した前燕の戸籍によると、370年の前燕の人口は998万7935だったと記録されている、これらの統計から、仮に王朝末期の争乱で多大の戦災者が出ていたとしても、前燕の全盛期における人口は1000万を猶に超えたであろうことは想像に難くない。
tokyoblog
July 2017
July 2017 編集されました
後燕の始祖である慕容垂は前燕の皇族で、前燕の初代皇帝慕容皝の五男である。前燕が慕容垂の叔父慕容評の執政により乱れて衰退すると、東晋の桓温の攻撃を受けて連敗し、一時は皇帝慕容暐も龍城への還都を検討するまでになるが、慕容垂は燕軍を率いて東晋軍を撃破したので、一躍前燕で台頭するようになった。ところがこの功績を慕容評が嫉視して謀殺を企んだため、前秦の苻堅の下に亡命し、泉州侯に封じられ、前燕攻撃にも貢献した。
383年の淝水の戦いで前秦軍が大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。。その際、慕容垂は苻堅に河内方面の鎮撫を提言し、認められて同地に至るが、当時同地を支配していた苻堅の庶長子苻丕からは敬遠され、丁零の鎮定を命じられた。祖廟の拝謁を許されず不満を抱いた慕容垂は、苻丕の命令に従い丁零を従えて3万の兵力を擁するようになると、これを背景にして384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国した。
ただし、慕容垂本人は河北一帯を支配して勢力を確立するも、形式的にはなおも前秦の配下を称していた。臣下らがいくら進言しても皇帝に即位することは拒否しており、これは甥で元皇帝の慕容暐がまだ存命していたことと西燕との関係、また苻堅に対する恩義から遠慮していたといわれている[3]。その後、慕容暐が384年12月に殺され、385年8月に苻堅が殺害されると、386年1月になって慕容垂は中山で皇帝を自称した[3]。
全盛期
慕容垂は苻丕と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配した。また、弟の慕容徳や子の慕容麟を中枢に起用して内部を固め、392年6月には翟魏を、394年8月には前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕をも凌ぐ最大版図を形成した。
398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳が滑台(現在の河南省滑県)で燕王を称して自立、南燕を建てたため、後燕は分裂した。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において舅の蘭汗に殺害された。蘭汗は昌黎王を自称しており、慕容氏の皇族でもないため、後燕はいったん滅亡したことになるが、7月に慕容宝の庶長子慕容盛が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後燕を再興した。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落しており、慕容盛は国力増強を目指すも実現せず、400年1月には自ら庶民天王に位を貶号するほどだった。
401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害されたため、新天王には叔父に当たる慕容熙が皇太后の丁氏により迎えられた。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契丹遠征を繰り返して国力を消耗した。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害された。これにより、後燕は完全に滅亡した。
ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)を擁立しており、また国号も燕(北燕)としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある。
年表
tokyoblog
June 2019
異民族対策として築かれた長城がある。北方の匈奴に備えた「趙長城」、東胡 に備えた「燕長城」、西方の氐(てい)や羌(きょう)に備えた「秦長城」である。 一説には、鉄器文化を発展させた中原諸国が、古代から中原周辺にいた異民族を辺境 の地に追い払い、彼らが故地に復帰できないように長城を築いたのだという。 構築の理由は別として、この当時の長城は、騎馬で飛び越えられない程度の規模の土 壁でしかなく、騎馬戦に長じた胡族に対応するだけのもので、現存する明時代の万里の 長城とは位置も構造も規模ともに大きく異なる。
『通典』東夷上 周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門戶之閉、而人不為盜。其 後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅 燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。 周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の 教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。 その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮 を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼 東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に 滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だ が、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。 燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族 との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思 われる。 その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常 識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだ ろう。
コメントするには
サインイン
または
登録
して下さい。
Powered by Vanilla
コメント
384年 : 建国。慕容垂、鄴を包囲。
385年 : 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。後燕将軍慕容農、夫余余巖を攻め殺す。
394年 : 慕容垂、華北東部に移動してきた西燕と衝突し、これを滅ぼす。
395年 : 燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
396年 : 燕王慕容垂、軍を率いて北魏を攻めるが、陣中で病没。太子慕容宝即位。
397年 : 魏王拓跋珪、燕の都である中山を攻撃。燕王慕容宝、龍城に逃走。
398年 : 慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
400年 : 慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回。
401年 : 慕容盛が暗殺され、太后丁氏が慕容熙を擁立。
402年 : 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
405年 : 慕容熙、高句麗の遼東城を攻めるが勝たず。
407年 : 後燕の漢人将軍馮跋が慕容熙を廃し、高雲を擁立(北燕)。
年号
燕元(384年 - 386年)
建興(386年 - 396年)
永康(396年 - 398年)
建始(397年)
延平(397年)
青龍(398年)
建平(398年)
長楽(399年 - 401年)
光始(401年 - 406年)
建始(407年)
前燕と前秦
370年9月、前秦は6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍を慕容評に与えて対戦させただが晋陽(現在の山西省太原市)や上党(現在の山西省長治市)など主だった都市が次々と攻められ、11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した[7][9]。
国家体制と国勢
前燕は、華北の争乱により発生した漢人の流民や在地の漢人を積極的に受け入れることで官僚機構を構築、さらに中原の進んだ農耕技術や文化を導入して独自の政権を形成した
また慕容暐の時代には太宰・太傅・太保・太師・太尉・大司馬・司徒・司空の八公を頂点とする中央の支配機構が構築され、以後名実共に中国王朝化していった。
人口に関しては次の統計がある。中華統一を目指した慕容儁は歩兵150万人の徴兵を図っている(ただし慕容儁の急死で頓挫)。
また前秦が前燕を滅ぼした際に入手した前燕の戸籍によると、370年の前燕の人口は998万7935だったと記録されている、これらの統計から、仮に王朝末期の争乱で多大の戦災者が出ていたとしても、前燕の全盛期における人口は1000万を猶に超えたであろうことは想像に難くない。
383年の淝水の戦いで前秦軍が大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。。その際、慕容垂は苻堅に河内方面の鎮撫を提言し、認められて同地に至るが、当時同地を支配していた苻堅の庶長子苻丕からは敬遠され、丁零の鎮定を命じられた。祖廟の拝謁を許されず不満を抱いた慕容垂は、苻丕の命令に従い丁零を従えて3万の兵力を擁するようになると、これを背景にして384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国した。
ただし、慕容垂本人は河北一帯を支配して勢力を確立するも、形式的にはなおも前秦の配下を称していた。臣下らがいくら進言しても皇帝に即位することは拒否しており、これは甥で元皇帝の慕容暐がまだ存命していたことと西燕との関係、また苻堅に対する恩義から遠慮していたといわれている[3]。その後、慕容暐が384年12月に殺され、385年8月に苻堅が殺害されると、386年1月になって慕容垂は中山で皇帝を自称した[3]。
全盛期
慕容垂は苻丕と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配した。また、弟の慕容徳や子の慕容麟を中枢に起用して内部を固め、392年6月には翟魏を、394年8月には前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕をも凌ぐ最大版図を形成した。
398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳が滑台(現在の河南省滑県)で燕王を称して自立、南燕を建てたため、後燕は分裂した。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において舅の蘭汗に殺害された。蘭汗は昌黎王を自称しており、慕容氏の皇族でもないため、後燕はいったん滅亡したことになるが、7月に慕容宝の庶長子慕容盛が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後燕を再興した。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落しており、慕容盛は国力増強を目指すも実現せず、400年1月には自ら庶民天王に位を貶号するほどだった。
401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害されたため、新天王には叔父に当たる慕容熙が皇太后の丁氏により迎えられた。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契丹遠征を繰り返して国力を消耗した。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害された。これにより、後燕は完全に滅亡した。
ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)を擁立しており、また国号も燕(北燕)としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある。
年表
『通典』東夷上 周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門戶之閉、而人不為盜。其 後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅 燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。 周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の 教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。 その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮 を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼 東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に 滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だ が、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。 燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族 との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思 われる。 その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常 識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだ ろう。