蘇我氏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

July 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

蘇我氏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

『孝元天皇
大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命
その孫
味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)、
武内宿禰(タケノウチノスクネ)
は、 当然、本「嫡流」の王統系である。』 

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コメント

  • 阿波の蘇我石川

    阿波国見聞記、粟の落穂という江戸末期の郷土文献に以下のような内容が記載されています。

    名西郡城内村に曾我氏大明神と申す社坐せり、里人は曾我十郎祐成同五郎時宗を祭れるよしいへど、然にあるまじきが(縁起あれともむげにつたなきものなり)、年長按に、延喜二年板野郡田上郷の戸籍に宗我部といふ氏あり、また永禄元亀などのころの奥書ある古城記に蘇我氏といふも見えたれば、其の氏人此の国に住しが其の社祖先を祀りし社にあらざるか、又永井精古が考あり
    其の説に云、里人は曾我兄弟を鎮ひ 祭りしといへども信じがたし、父の仇祐経を討しは美賞(ほむ)べけれど、此の里に祭るべきいはれあるべからず、今按、孝徳天皇の御宇に蘇我倉山田石川麻呂太宰帥日向臣に譖(しこち)られて罪なく、大倭国山田寺にして経(わな)きて身亡き、此の事に坐(かかり)て彼絞者九人被流者五人と書記に記せり
    此の彼流者の中に此の国に来しも有べし、石川麻呂は実に忠良の士なれば傷み惜(あたら)しみ、且大臣なれば尊みて其の氏の爰に祭りしなるべし、同郡市楽村に石川大明神といふ有、是も同じ大臣を祭りしとは思はるるなり、照し考ふべし、其の社の前なる畠を石川のくぼといふなり、大和ノ国高市郡宗我都比古神社あり考合すべし、応神紀なる石川宿弥を祭りしといへり
  • 越前粟田部郡の蘇我石川の後裔

    同族の蘇我臣日向の讒言によって石川麻呂の妻子や子女はすべて亡くなったと思われたが、生き延びた子供が一人いた。清彦という名の末子である。。余りに幼かったので死を免れ、越前に流刑になった。古代、越前は流刑地だった。奈良時代の中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもりは、狭野弟上娘子さののおとがみおとめとの間に多くの恋の贈答歌を残したことで知られる悲恋物語の主人公だが、彼も越前味真野あじまの に流刑になっている。

    驚くべきことに、清彦の子孫は越前粟田部あわたべに根をおろして存続していた。粟田部の地名は継体天皇の諱いみな の男大迹おおと 皇子の部だった男大迹部おおとべ がなまったものとされている。ちなみに、世阿弥作の能「花筐はながたみ」は、男大迹皇子と日頃寵愛した侍女照日の前てるひのまえの物語である。
  • 越前に根を下ろした山田家の子孫は、薬を京や大阪に売って財をなした。
    石川麻呂から数えて53代目にあたる山田重貞という人物が、江戸時代の末期に粟田部にいた。石川麻呂の事件は冤罪だったことを当時の史書も認めているにもかかわらず、『平家物語』では石川麻呂を朝敵としてさんざん罵倒している。その事を知った重貞は、故無き誹謗に対して祖先の名誉を回復するために、石川麻呂とゆかりの深い山田寺に雪冤碑せつえんひを建てることを決心した。"雪冤"とは、無実の罪をすすぐことを言う。
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