法隆寺金堂、釈迦三尊光背銘の上宮法皇 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
法隆寺金堂、釈迦三尊光背銘の上宮法皇 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

法隆寺釈迦三尊の光背銘に刻まれた「法興 32年」は622年である。この元号を定めた王が「上宮法皇」である。従って、その命日を元号「法興」を使って表 示したのである。

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コメント

  • 県犬養三千代は法隆寺を祀った

    県犬養三千代と光明子の母子は、法隆寺を丁重に祀っている。
    西院伽藍の西北に位置する西円堂は、県犬養三千代が建立を発願した。また大宝蔵館に祀られる「伝橘夫人厨子」の阿弥陀如来は、県犬養(橘)三千代の念持仏だ。聖徳太子等身像の救世観音 の眠る夢殿を建立したのは光明子で、なぜかふたりは法隆寺を重視している。

    梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めているといい、藤原氏が危機に瀕したとき、かならず法隆寺が丁重に祀られていると指摘した
    その理由。聖徳太子の子・山背大兄王の一族(上宮王家)を滅亡に追い込んだのは蘇我入鹿だが、これには黒幕がいて、中臣の(藤原)鎌足かまたりが入鹿を操っていたと推理した。そのため藤原氏は、聖徳太子の怨霊を恐れ、一族が危機に見舞われると、法隆寺を祀りあげたというのである。
    しかし、藤原氏が法隆寺と特別視し出すのは、上宮王家滅亡事件から百年弱たってからのことである、両者に因果関係を見いだすことはできない。

    ならばなぜ、県犬養三千代や光明子、そして藤原氏は、法隆寺を重視したのだろう。

    答えは簡単なことだと思う。県犬養三千代や藤原氏らは、藤原四兄弟の滅亡後、必死に法隆寺を祀りはじめた。
    誰もが、長屋王の祟りを連想し、恐れたのだろう。『日本霊異記にほんりょういき』は、祟る長屋王の話を書き残している。

    なぜ、長屋王を法隆寺で祀ったのだろう。長屋王は天武天皇の孫であり、蘇我系の王家の一員とみなされたのだ。藤原氏は、長屋王の名を伏せ、他の「藤原に痛めつけられて恨みを抱く蘇我」とともに、法隆寺で名を伏せて祀まつったのだろう。

    県犬養三千代と光明子は、不本意ながら、藤原のいいなりになって、多くの恨みを買っていたのであり、汚れた手を、必死に洗い流そうとしたのだろう。

    これまで、光明子は「藤原の娘」とみなされてきた。
    藤原の力を背景に、聖武天皇を操り、藤原の天下を築くことに邁進したと信じられていた。

    しかし正体は「県犬養三千代の娘」であった。そう考えれば、多くの謎が解けてくる。

    光明子は聖武天皇と宮子を引き合わせている。もし仮に光明子が「藤原の娘」で、聖武天皇を「藤原の傀儡かいらいとして飼い続ける」と決めていたのなら、宮子を隠し通したであろう。しかし光明子は、宮子を開放した。藤原不比等の罪深い仕打ちを知れば、聖武天皇がどう思うか、わかった上での行動である。

    聖武天皇が「藤原の子」から「天武の子」に豹変したのも、光明子がすべてをさらけ出したからだろう。知識寺ちしきじに感動した聖武天皇の背中を光明子が押したのは、聖武天皇とともに、藤原の穢けが れた手を払拭したいと考えたからではあるまいか。
    母・県犬養三千代もまた、「藤原不比等の妻」を装い、藤原不比等のために後宮で暗躍した。
    しかしその正体は、「美努王や葛城王の幸せを願っていた心優しき女人」であった。

    聖武天皇崩御ほうぎょののち、光明子は夫の遺愛の品を東大寺に移す。それが正倉院しょうそういんの秘宝であった。

    「聖武の愛された品々を見るにつけ、涙が止まらなくなる」

    と、光明子は願文に記している。そうして光明子は、これらの秘宝を、「天皇の許可がなければ開けることはできない」と決めて、夫婦の思い出の品を封印したのである。
  • 正倉院

    先ず「正倉」の語意であるが、もともとは役所やお寺の倉庫のことで(一般名詞)奈良七大寺もそれぞれに正倉を持っていたがことごとく喪失した為、唯一残った東大寺の倉が「正倉院」と固有名詞的に呼ばれるようになった こと。

    その二は (正倉院は当初は「武器庫」でもあった。)というのは「恵美押勝の乱」(AC764)の時に倉にあった大量の武器がゴッソリ無くなったという記録が残っている。

    その三は 香木「蘭奢待」(ランジャタイ 三字のなかに「東大寺」がある)ことである。千年以上も経た今も馥郁たる香りがたちのぼるというこの沈香はその時々の権力者の憧れの的であった。この香木を切り取った人の付箋が残っている。足利義政、織田信長、明治天皇記録上では足利義満、義教 伝承では秀吉、家康も。
  • 豊浦寺 - 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部
    www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga08_2.html
    抜粋
    仏教公伝をめぐる『日本書紀』の記述から、向原にあった稲目の邸宅を寺にしたことが知られる。その後の変転は『元典寺緑起』に詳しい。敏達天皇11年(582)には、向原殿の寺を桜井道場とし、翌12年(583)には司馬達等(しめだちと)の娘、善信尼とその弟子2人を桜井道場に住まわせている。この3人の尼は、崇峻天皇元年〈588)に百済に留学し、崇峻天皇3年〈590)に帰国し、前のように桜井寺(桜井道場)の住持となった。こうして桜井寺という尼寺が整備されると、僧寺の必要性が高まってくる。そこで飛鳥寺建立が発願され、桜井寺の中に現場事務所が崇峻元年に開設される。推古天皇元年(593)には豊浦の宮を寺とし桜井寺の機能を移すことになり、豊浦寺が史上に登場する。
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