卑弥呼の時代の鉄の鍛冶遺跡、彦根の稲部遺跡

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image卑弥呼の時代の鉄の鍛冶遺跡、彦根の稲部遺跡

弥生末から古墳時代前期(3世紀~4世紀) の近畿北部の中心的な大都市集落 「彦根市稲部遺跡」 2016.10.…

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コメント

  • 菟上神社(うながみじんじゃ)2012.8.11


    伊勢之國 一之宮 都波岐・奈加等神社から多賀大社へ向かう途中、何か引き寄せられる感覚で参拝した。境内は、いつも無人のようで、連絡先が張ってあったが、本殿を覗きこむと美しく感動した。菟上耳利神社とも言われ、論社である。


    御祭神:應神天皇 
     配祀:菟上王・大山祇神

  • 誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟で あった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。 師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
    □ さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は 比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、 つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造 とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。というのも、銅鐸について『記・紀』はあか らさまに語らないが、齋部宿禰廣成が上申した『古語拾遺』には鉄鐸を「サナギ」としており、 佐那造の名に重なる
  • 海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、生田神社社家の先祖。

    上総国海上郡の海上氏(祖・天穂日命)との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代の生田神社祭主となったという。

    麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。なぜ戦った相手の子に奉祀させたかは不明。本当であるとすると、壬申の乱の後の石上麻呂の様に、敗者側関係者が栄達を遂げたこととなる。あるいは子だけが、神功皇后、応神天皇側についたのかも知れない。

    名前の五十(い、いと、いそ 等)の部分は皇室関係の古い名に散見されるが、意味は不詳。

    海上五十狭茅の子孫は、海上氏から、やがて村田家などの名字を称するようになる。
  • 彦根城が築城される以前、彦根山には、近江の国司藤原房前が亡母の供養に建立した彦根寺という霊験あらたかな古刹がありました。房前の護持仏であった金色の亀の背に乗った一寸八分の観音様を本尊としていたため、彦根山を金亀山と呼ぶようになりました(彦根城を別名金亀城と呼ぶのもこのためです)。彦根寺は建立当初より名刹の聞こえ高く、陸続と参拝者が後を絶たなかったようで、参拝者は彦根山に登る前に、ここで連着を解くのが通例であったので、今にその名が残りました。 往時は連着を解く際に腰掛石として多くあったであろう露頭石も、代々の古老たちが藤原時代から存在する唯一の記念物として、この石の失われることを恐れ、誰がいいだしたか、この石を腹痛石と云い、さわると腹が痛くなるといい伝えて来たものです。今も連着町四辻に祀られてある石がそれであり、巡礼の腰掛石ともいいます。
    所在地:〒522-0068 滋賀県彦根市城町(スミス記念堂から徒歩1分)
  • December 2018 編集されました
    多賀大社
    和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い。

    『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏(姓は君)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。
    ーーー
    西郷信綱は古事記注釈(1989)で、
     ・古事記写本のうち一番古い真福寺本に「淡海」とあり、古事記伝もそれに従っているが、これは伊勢本によって「淡路」と改訂さるべきであろう
     ・神名帳に“近江国犬上郡多何神社二座”とあり、これを多賀神社に比定しているが、社格は小社である。古事記でイザナギを祭るとの由緒のある社が小社に留まるとは、ちょっと考えにくい
     ・近江の多賀大社がもてはやされ、“お多賀さんには月詣り”などといわれるようになるのは、近世に入ってからであろう(15世紀末-室町初期頃-以降という)
     ・淡路島は、国生みにおいてイザナギ・イザナミ双神が最初に生んだ島であるから、イザナギが淡路に鎮まったというのは、話としても相応しい
     ・書紀の記述と照らしても「淡海」は「淡路」であって、写本時の誤記とみられる
    として、イザナギの幽宮は淡路にある伊弉諾神宮(名神大社)だといい、多くの識者もこれを有力視している。

     当社は、イザナギの幽宮は近江の当社だというが、近江には当社以外にイザナギにかかわる伝承等は見えない。
     一方の淡路には、
     ・イザナギ・イザナミによる国生みで、最初に生まれたのが淡路島であること
     ・書紀・履中天皇5年条に、「天皇が狩りのために淡路島へ出かけた時、島に居ますイザナギ神が、『供の飼部(ウマカイベ)たちの文身の血の匂いを憎む』と託宣した」とあること
     ・書紀・允恭天皇14年条に、「天皇が淡路島に狩りに出かけた時、島中に獲物が充ち満ちているのに一匹も捕れなかった。占うと、島の神が顕れ、『明石の海底にある真珠を採って吾に供えれば、獲物は捕れる』との託宣があった・・・」とあり、託宣した島の神とはイザナギを指すという
    などの伝承があり、イザナギの原姿は淡路島を中心とする海人たちが崇敬する神というのが大方の理解となっている。
     これらのことから、イザナギの幽宮は淡海(近江)の多賀大社ではなく、淡路の伊弉諾神宮とみるのが順当であろう。
     ただ、“神は死なない、唯隠れるのみ”との理念からいうと、国土をはじめとする万物を生み出された祖神としてのイザナギを奉祀する神社は幾つあってもおかしくはない。

     当社の創建時期について案内は何も記しておらず、それを記した古資料もなく不詳だが、新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806)に、
      「山津照神六戸 山田神五戸 田鹿神六戸 日向神二戸 並近江国天平神護二年(766)奉充」
    とある田鹿神が当社を指すことから、8世紀に当社があったのは確かだが、何故か、当社に対する神階綬叙記録はみえない。


    ーーー


    藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。

    なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。

    多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。敏達天皇の時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となる。
  • 不破の南宮大社

    社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる。

    平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。

    1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。

    1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。

    近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。

    神階 編集
    承和3年(836年)11月4日、従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「仲山金山彦大神」
  • December 2018 編集されました
     『琵琶湖畔』にも、『伊勢・阿』村だけでなく、和名抄「野洲郡」となる『近江國の益須郡(やすのこほり・夜珠)』(紀下 523頁)や『薩摩や柳川』、それに「栗太郡」の『南笠・上笠・下笠』の地名や『笠氏』本貫の寺「西照寺」がある『笠の郷』、一帯には「奈良時代」中期の『製鉄炉跡11基』も確認された『野路小野山遺跡』(滋賀県の地理 320頁)もあって、

    「続日本紀 703年」条には、『志紀親王に近江国の鉄穴を賜ふ』(続紀一 73頁)などの記録もある「有力な産鉄地帯」で、砂鉄ではなく『鉄鉱石をもってする製鉄』があり、「和同開珎」も鋳造した古代の重工業地帯であったと言う。

    「720年」には、『隼人の反乱』だけでなく「6ヶ月遅れ」て、

    『蝦夷反(そむ)き乱れて按察使正4位下上毛野朝臣広人を殺せり』(続二 79頁)
    と、『蝦夷』も『隼人』と「同年」に『反乱』を起こしている、 のである。

     「700年の大宝律令」の「職員令第2 70大国」条で、『守』の職務に『陸奥、出羽、越後等の国は、饗給、征討、斥候知れ』(律令 193頁)とあることを考慮するとき、「西暦500年前後」と思われる『清寧4年』に記録される「初見」の『蝦夷・隼人並内附』以来、『大和朝廷の東西の皇師』として「海外」にまでも遠征していた『蝦夷・隼人』が「200年」余り経たこの『元正天皇の養老4年・西暦720年』に 『東西』呼応するように『乱』が記録された
  • December 2018 編集されました
    近江の『胡宮神社』 に祭られる『神代の笠沙の国主・事勝國勝長狭』
    拝殿・本殿が並ぶ
    祭神:伊弉諾尊【いざなぎのみこと】、伊弉冊尊【いざなみのみこと】

    当社の北方約2kmの所に、多賀大社が鎮座しているが、『延喜式』の多何神社二座とは多賀社・胡宮神社両社の併称であり、多賀社に伊弉諾尊【いざなぎのみこと】、胡宮に伊弉冊尊【いざなみのみこと】が祀られていたという説がある。祭神は事勝国勝長狭尊【ことかつくにかつながさのみこと】(別名:塩土翁【しおつちのおじ】)であり、伊弉諾・伊弉冊の御子であるとの説もある。(だから「このみや」か?)

    景山春樹氏は『神体山』において、胡宮【このみや】は高の宮【こうのみや】のつづまったものであるという。多賀の宮(多賀大社)は高の宮【たかのみや】であり、同じ信仰形態からきた社号であるとのこと。水源である山を敬う信仰である。高の宮には、目につく巨木や磐座など、神の依り代が存在するのも共通している。

    「系譜」資料の碩学「太田亮」が『姓氏家系大辞典』の『中原』氏の項に、 『容易に信じ難たけれど』と述べられながら、「蘇我・物部の争い」の後の「592年」、蘇我馬子の刺客によって暗殺された『崇峻天皇』の孫から出た『近江発祥の大族「江州中原氏」の系図』(姓氏家系大辞典 4254頁)なるものを載せているのが目に入った。
    そこには『肥後守や薩摩大夫』が付記された人物とか、『薩摩、泉、大浦、二階堂』などの名まで載せられ、
    先に挙げた近江の地名『薩摩、柳川』など、「587年」の『蘇我・物部の争い』のそのころには『隼人族』が拠点としていたノデワと思わせたのであった。

    「日本歴史地名大系」その他によれば、『敦賀に根拠をもつ中原政康なる神人が琵琶湖から日本海にかけての湖上・海上交通に従事し、金融・交通・年貢請負などを営んでいた』(滋賀県の地名 32頁)「13世紀」の人物もいた。


    磐座参道」石柱近くの石碑

    石碑に以下の文章が書かれていた。
    一、磐座
    青龍山の頂上に大きな岩がある。大昔からこの岩を磐座とよび深く信仰して龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞の祈願をした。これを原始信仰と云い、麓から遙拝するため社殿を造ったのが胡宮である。磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。
    一、頂上付近の神聖な場所を境界【いわき】と呼び一般の人は立ち入りせなかった。「お池」で身を清め、供物を洗い祭典の広場で、春秋の祭りの式典を行った旧跡もある。
    一、胡宮磐座は、社殿信仰以前の原始信仰の姿を見せてくれる神体山である。
    一、滋賀県内でも数少ない山岳信仰の聖域である。

    当社の氏子地区である敏満寺だが、古くは水沼村【みぬま】と呼ばれ東大寺の荘園だった。ミヌマに「敏万」あるいは「敏満」の佳字を宛てて村の名とした。そこに創建された寺を敏満寺と称した。敏満寺は堂塔四十八ヶ所、もしくは僧房八十八宇、衆徒二十宇といわれた大伽藍を誇ったが、浅井長政ついで織田信長の焼き討ちにあう。直後、般若坊、成就坊が多賀社境内に移転している。現在境内には福寿院【現社務所】、大日堂、観音堂が建つ。室町末期に作られた庭園もあり、磐座やお池に足を運び境内をまわると私の場合約2時間かかりました
  • December 2018 編集されました
    多賀大社
     重要な境外末社を2つ紹介する。
     一つは「胡宮神社」(このみや神社)。多賀胡宮とも呼ばれ多賀大社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭の3柱を祀りる。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

    社伝によれば、第30代敏達天皇の勅願所であり、聖徳太子によって創祀されたと伝えられ、鎌倉時代の頃から隆盛をきわめた敏満寺の守護神として祀られてきたとされています。

     敏達天皇の勅願によりつくられたといわれ、また、多賀二座の一つとも伝えられている。古くは、背後の青竜山の巨石「磐座」崇拝を起源とし、鎌倉時代には天台宗敏満寺の鎮護の神として栄えた。
     多賀神社に於いては、中世の頃より胡宮を末社と称し、寛政年中(1789~1800)に入り、胡宮側よりこれを否定して奥宮と主張したため紛争を生ずるに至ったことさえあったという。奥宮伝説がおきた事由として、両社における祭り行事の関係がある。
     多賀大社祭礼に先立ち、御使殿と称し7日間宮籠り、さらに毎日胡宮へ社参。 そして、胡宮祭礼の後、胡宮の神輿は敏満寺丘陵を下って多賀社へ渡卸、明けて午の日(22日)が多賀社の年中一度の大祭を行うのを例としています。こように例祭に先立つ神幸が繰り返されてきたのを見ても、相互の間にただならぬ関係を思わせている。
     胡宮神社の信仰の元は背後の青竜山にある磐座だ。ここに龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞い、の祈願をした。これを原始信仰と云い、麓から遙拝するための里宮を造ったのが胡宮である。磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。

     もう一つは「大滝神社」だ。胡宮神社から南へ約4km、犬上川の清流に面して大滝神社が鎮座している。ここは俗称「滝の宮」と云われ、上流に犬上ダムが建設されるまでは、「大滝」の名に恥じない堂々たる瀑布であったという。大滝神社境内より見降ろすあたりの岩瀬は「大蛇ヶ淵」と呼ばれる景勝の地だという。
  • 兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町)にある「舟木遺跡」は弥生後期の高地集落遺跡で、淡路島北部中央部の標高160mほどの山間にある。1世紀中頃に突然出現したので、海岸部から移住してきたのでしょうか。
     弥生時代末期(2世紀中頃~3世紀初め)に存在したとみられ、1966年に発見された。面積は東西500m、南北800mの約40万㎡(12万坪)。

     淡路市の教育委員会が舟木遺跡を発掘調査し、新たに鉄器生産工房跡から鉄器57点などが発見され、手工業品生産工房跡も見つかったと1月25日に発表された。
     舟木遺跡は過去に淡路市黒谷で見つかった近畿最大の鉄器生産工房「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性があり、今後も発掘調査が続けられる。
     五斗長垣内遺跡(標高200m)は1世紀中頃に突然出現した高地集落であるが、舟木遺跡も2世紀中頃に突然出現した。

     西暦180年頃に勃発した北部九州の「倭国乱」により、倭国から淡路国へ隠遁した伊弉諾尊の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)は両遺跡に近く、関係があると私は考えています。その頃(2世紀末)に両遺跡は最盛期を迎える。伊弉諾神宮については2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
     赤が舟木遺跡、黄が五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)、紫が伊弉諾神宮


     五斗長垣内遺跡の鉄器生産が終わった後も、舟木遺跡では少し鉄器生産が続き、やがて終了する。高地集落は大和国(天皇家)が強大になり近畿地方を中央集権的に支配するようになると消滅していった。弥生時代の一つの特徴である銅鐸祭祀も消滅し、古墳時代に突入していく
  • 10/08編集されました
    箸墓古墳やホケノ山古墳が3世紀前半~中頃に作られたということが間違い無さそうですが、これら国内最古級の前方後円墳よりもさらに古い時期に作られたと言われている「前方後方墳」が存在します。

    滋賀県東近江市(旧神崎郡能登川町)にある神郷亀塚古墳は近年の調査で220年頃に築造されたと推定されています。

    さてこの神郷亀塚古墳の形である「前方後方墳」ですが、ヤマト王権に対抗していた勢力である狗奴国の有力者の墓だという説があり、ヤマト王権の有力者が「前方後円墳」を作っているのに対抗して狗奴国の有力者は「前方後方墳」を作ったと考えられています。
    その根拠として前方後方墳は中部地方や関東地方に多く見られます。

    しかし、神郷亀塚古墳が纒向古墳群の箸墓古墳やホケノ山古墳よりも古いということになると対抗して作ったということにはなりません。

    神郷亀塚古墳は小さな古墳ですが、大変気になる古墳です。
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