難波宮と孝徳天皇 645-686

December 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。 前期難波宮 645…

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コメント

  • 皇極(斉明)天皇は、舒明の皇后にして、天智・天武の生母であり、 持統・元明にとっては父方の祖母にあたり、文武・元正の父草壁皇子尊 の曾祖母である。皇統譜の上でこうした重要な位置にありながら、彼女 自身の出自は今ひとつはっきりしない。

    皇女でもない皇極天皇が即位できたのはなぜか。
    また史上初の譲位と 重祚を行った経緯も自明ではない。
    ましてや弟孝徳天皇の即位の正当性 を合理的に説明することなどは殆ど不可能であろう。

    皇極・孝徳両天皇は、皇位継承者として異例の立場に あったことが知られよう。
    皇極即位は皇后であったからだとする意見も あるが(岸 1966)、仮にそうだとしても孝徳即位の疑問は残る。
    舒明崩後に、山背大兄、古人大兄、中大兄の三人の大兄がいた。そこ でかれらの対立抗争を先送りする意図で、暫定的に皇極が「仲継ぎ」と して即位したという見方も一理あるが(水谷 2003 ほか)、実際には対立抗 争の先送りどころか、前二者は中大兄らにより殺害されたとみられ(亀 井 1987)、のこった中大兄自身、斉明天皇崩御ののちに七年間という未曾 有の空位を現出している。
    やはりそこには、何かしら深い事情が隠され ていると見なければならない。

    皇極(斉明)天皇の出自

    皇位継承理論を展開された河内祥輔氏も、皇極天皇について は、その譲位や重祚の事実を疑い、さらに天皇はおろか皇后であったこ とさえ強く疑問視せざるを得ないと述べている(河内 1986、p.57 〜 60)。

    古事記(敏達段)には忍坂日子人太子の系譜がみえ、太子が大俣王(漢王 の妹)を娶って智奴王と妹桑田王を儲けたと記す。しかし漢王・大俣王 兄妹がどの天皇から出た王かは不明であるのみならず、『本朝皇胤紹運 録』は大俣王を漢王の御子としている。
    いっぽう『日本書紀』(皇極前紀) は、茅渟王を彦人大兄皇子の御子とするのみでまとまった系譜は伝えて いない。近年、遠山美都男氏もまた、大王の御子でない皇極・孝徳姉弟は「七 世紀の王位継承における例外的な存在」

    皇極・孝徳姉弟の母は、皇極前紀に「吉備姫王」とするのみ。

    皇極・孝徳姉弟の父茅渟王について、『古古事記 』(敏達段)には忍坂日子人太子の系譜がみえ、太子が大俣王(漢王 の妹)を娶って智奴王と妹桑田王を儲けたと記す。しかし漢王・大俣王 兄妹がどの天皇から出た王かは不明であるのみならず、『本朝皇胤紹運 録』は大俣王を漢王の御子としている。いっぽう『日本書紀』(皇極前紀) は、茅渟王を彦人大兄皇子の御子とするのみでまとまった系譜は伝えて いない
  • こんな説がある

     九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
     当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
     また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
     倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。
    http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/ama-tarisihoko-an-emperor-of-wa/
  • 孝徳朝における親唐・新羅的政策が旧来の親百済路線に変化する第一の画期は,大化 5(649)年の左大臣阿倍内麻呂の死(3 月 17 日)に続く,右大臣蘇我石川麻呂の自殺(3 月 27 日) にともなう左右大臣の交代(5 月 1 日)である。
    『日本書紀』大化五年三月辛酉条 阿倍大臣薨。
    『日本書紀』大化五年三月己巳条 大臣......誓訖自経而死。妻子殉死者八。
    『日本書紀』大化五年五月癸卯条 於二小紫巨勢徳陀古臣一授二大紫一為二左大臣一,於二小紫大伴長徳連一〈字馬飼。〉授二大紫一為二 右大臣一。
    左大臣阿倍内麻呂は,大化 4(648)年に四天王寺に対して積極的な寄進を行っているが,注目さ れるのは,先述した恵日の建白の時に,新羅系の仏教献上物が広隆寺とともに難波の四天王寺にも 納められている点である。
    『日本書紀』大化四年二月己未条 阿倍大臣請二四衆於四天王寺一。迎二仏像四躯一,使レ坐二于塔内一。造二霊鷲山像一,累二積鼓一為之。
    『日本書紀』推古三十一年七月条 新羅遣二大使奈末智洗爾一,任那遣二達率奈末智一,並来朝。仍貢二仏像一具及金塔并舍利,且 大潅頂幡一具・小幡十二条一。即仏像居二於葛野秦寺一。以二余舍利・金塔・潅頂幡等一,皆納二 于四天王寺一。
    した難波吉士氏と同族であり,新羅の服属儀礼と推定される吉士舞を奏上することも注目される。 これによれば,阿倍内麻呂が親新羅的立場にあったことが推測される。 一方新任の左大臣巨勢徳太臣は,白雉 2(651)年に新羅の貢調使が唐服を着ていたことを咎め て追い返した際には,新羅征討を建議しているように,反唐・新羅 = 親百済の立場に立つ人物で, 孝徳の進めた政策とは異なる立場の大臣が登庸されている。
    『日本書紀』白雉二年是歳条 新羅貢調使知万沙飡等,著二唐国服一泊二于筑紫一。朝庭悪二恣移一レ俗,訶嘖追還。于レ時巨勢 大臣奏請之曰,方今不レ伐二新羅一,於レ後必当レ有レ悔。其伐之状,不レ須レ挙レ力。自二難波津一 至二于筑紫海裏一。相接浮二盈艫舳一,召二新羅一問二其罪一者,可レ易レ得焉。
    さらに阿倍氏が,新羅の官位「吉士」をカバネ化した氏族であり,対新羅外交や対中国外交に活躍 (17)
    このように大化期には従来の親百済路線からの方針転換がなされたが,左右大臣の交替を契機にし (18)
    て再び親百済派の復活が見られるようになる。白雉期に新羅使が途絶え,白雉 2 年から百済使が復 活するのはこうした動向を反映している。
  • 孝徳を中心とする改新政権が,大化年間に中国からの帰朝者を重用し,新羅との積極
    的交渉を試み,新羅使も来朝していることは,前後の時期に比較して特異である。反対に,大化期 (12)
    には百済への遣使がないことも指摘できる。
    さらに,中臣鎌足の立場も,少なくとも当初は孝徳と関係が深く,留学帰りの南淵請安に師事し
    ていたことから親唐・新羅的立場であったことが推測される。
    『日本書紀』舒明十二年十月乙亥条 大唐学問僧清安・学生高向漢人玄理,伝二新羅一而至之。
    『日本書紀』皇極三年正月乙亥朔条 中臣鎌子連曾善二於軽皇子一。故詣二彼宮一而将二侍宿一。......自学二周孔之教於南淵先生所一。
    問題は,孝徳から中大兄にいつ頃から支持を変えたのかという点である。「鎌足伝」では,軽皇子 が大事を謀るに器量不足であると判断して(「皇子器量不レ足三与謀二大事一」),すでに乙巳の変前夜 の時点からとして予定調和的な描き方をしているが,これは疑わしい。乙巳の変後にも鎌足は,軽 皇子を「民望に答う」という理由により推挙し即位させているが,「鎌足伝」では「実大臣之本意 也」と表現して,当初からの意図であったとする。これに対応して孝徳の側近として「内臣」に任 命されている点や,白雉 4(653)年に中大兄皇子が孝徳天皇と対立し,飛鳥へ帰還した直後,鎌 足に紫冠と封戸が与えられたと記されているが,この措置は孝徳が難波に健在であることからすれ ば,孝徳による指示であったと推測される。すなわち,孝徳の存命中は鎌足と良好な関係を維持し たとするのが自然である。
    『日本書紀』孝徳即位前紀皇極天皇四年六月庚戌条 中大兄退語二於中臣鎌子連一。中臣鎌子連議曰,古人大兄殿下之兄也,軽皇子殿下之舅也。方 今古人大兄在。而殿下陟天皇位,便違二人弟恭遜之心一。且立レ舅以答二民望一,不二亦可一乎。
    『日本書紀』孝徳即位前紀皇極天皇四年六月庚戌是日条 以二大錦冠一授二中臣鎌子連一,為二内臣一。増レ封若于戸,云云。
    『日本書紀』白雉五年正月壬子条 以紫冠授中臣鎌足連。増封若干戸。
  • 藤原宇合卿が派遣されて難波の都を改造したときに作った歌
    312 昔こそ難波(なにわ)ゐなかと言はれけめ今は都引(みやこひ)き都びにけり
     ※「藤原宇合」ふじわらのうまかい。藤原不比等の子。

        難波田舎と昔には
        呼ばれていただろうけど
        今は都を引き移し
        都会らしくなったなあ
  • 海外情勢との関係ということでは、和歌山県橋本市の隅田八幡宮に伝来する人物画像
    鏡の銘文も注目される。この銘文については古来多くの説が出されているが、最も仔細な
    分析を及ぼされた山尾幸久氏は、銘文中の「癸未年八月」を 503 年とし、百済王の「斯麻」 ぶ ねいおう
    王(武寧王)の即位 502 年 12 月と関わらせて「癸未年八月はまさしく即位の直後」で、 とうじょうおう
    前王 東 城 王の廃位・殺害という「異常」な退位を受けて「即位直後の武寧王が倭国に遣 使して前王の修好を尊重して継承するという従属的奉仕関係の更新記念鏡をかなり大量に 製作」したものとされた。事実当時の武寧王は『三国史記』によれば 501 年・502 年と相
    まっかつ 次いで高句麗と戦闘を交え、503 年・506 年と今度は靺鞨と争うなど空前の外交的危機に
    (注25) がいろおう あった。よく知られているように武寧王こと諱「斯麻」は、蓋鹵王が倭国に派遣した夫人
    かから せまきし の「孕める婦」が倭国「筑紫の各羅島」でもうけた子で、ために「島君」と名づけられて
    (注26) 百済に送還された人物という。生前から倭国とゆかりがあったということになるが、この
    伝承そのものの確実性はともかくとして、継体天皇が即位以前から百済と交流・交渉を持
    っていたのは事実としてよかろう。まさに即位以前から「百済王斯麻(武寧王)と交渉を (注27)
    行なっていたことになる」のである。
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