三内丸山遺跡

December 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっ…

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  • December 2016 編集されました
    三内丸山遺跡は、およそ5,500年前から始まり4,500年前には廃絶した遺跡とされている。花粉分析によれば、遺跡が成立し始めた縄文前期に、急激にクリの花粉が多くなり始め、遺跡の繁栄した中期を通して全樹木花粉の50~80%を占めようになる。それが、遺跡の廃絶する後期以降は急激に減少し、代わってトチノキ、ハンノキ、ナラ類などの増加がみられる。
    このようなクリの花粉量の推移から、クリの栽培が中期に向けて急速に進行し、やがて後期には それが衰亡していったことを推測させる。言い換えれば、人口の増加を、古い狩猟と採取の経済がカバーできず、大陸からの新生産技術による水田稲作へ切り替わっていったことを示唆する。
    しかし、このことはクリの栽培中止を意味するものではない.

    木材・木製品は、柱・板・棒・漆を塗った器など、いろいろなものが出土しているが、そのようなものに使われた木材の3分の1強がクリによって占められる。これにつづくアスナロも17.0%と、クリの半分以下になっており、その後のカエデ属・トネリコ属は、1ケタ台と激減する。
      炭化材については、それが何を意味するのか、考古学的には難しい問題を含んでいる。
    たとえば、煮炊きをし、暖をとれば炭ができる。また、家が焼けると炭ができ、土器を焼いても炭がでる。山火事になっても同様に炭が出る。したがって、遺跡から出土した炭が何の原因で生じたのか、それを判定することは極めて難しい問題である。
     炭化材は、遺跡の北側の斜面にある地域で、ゴミ捨て場とみられている所から出土したもの。したがって、この炭化材はゴミとして捨てられ結果として溜まったものと見てよい。もちろん、燃えてない木も捨てられたのだろうが、炭化してない部分は腐ってなくなってしまったのである。つまり、燃やされた木の大部分がクリだった、という事実が分かっているだけである。
     しかし、木材・木製品や炭化材の多くにクリの木が用いられた事実を、どう解釈すべきだろうか。
     これは縄文人の生活にクリが深くかかわっていたことを示唆する。クリは人里近くに自生し、あるいはそれを栽培して、生活用品・生活用材として用いていたに相違ない。
     三内丸山遺跡には、巨大な六本柱建物と呼ばれる縄文時代中期の遺構がある。
    直径・深さともに2mの丸い穴( が、4.2mおきに1列3個ずつ、2列で合計) 6個が配置され、その穴には直径約1mのクリの柱根 (柱の一番下の部分) が残っていた。
    2mの穴に残る柱根は直径1mだが、この穴に元から建てられていた柱は一体どのくらいの高さがあったのであろうか。これについて、さまざまな研究者が、さまざまの結果を発表している。ある者は20mだといい、他の者は15m、いや30mだという。
    だが、ある建設会社は、穴の底の泥がどのくらい圧縮されているかを測定、その結果から底にかかる荷重を計算して、もとの柱の高さは20mだったと推定した。
    直径2m、深さ2mの穴に建てられた構造物は何だったか。それは単なる6本の柱だけが立ったものか、あるいは櫓状に組まれたものか、議論は未だに続いている。
    この大きく、かつ深い穴の上部構築物は、わずか数メートルほどの小さなものとは思えない。この巨大な穴にふさわしい、巨大な構築物が立っていたに違いない
  • 真脇遺跡は、縄文時代前期の土壌から、大量のイルカの骨が出て、縄文人がイルカ漁をしていたことを示すものとして知られるところだが、この遺跡も巨大なクリ材を用いた縄文晩期のウッドサークルである。
    最大の柱は直径105cmを超え、丸太を半切に、弦の側を外に向けて10本が配列されていたらしく、直径5.3m、同5.2m、7.3mの三環が検出されている。
    真脇遺跡では縄文時代前期のイルカの骨に埋もれて、直径45cm、長さ2.5mもある、彫刻の施された栗の柱が見つかっており、これはトーテム・ポールだといわれている。
    さて、このクリの巨木に象徴される文化は、縄文中期までを全盛時代とし、その後は次第に姿を消し、弥生時代(およそ2,400~2,00年前)を境にして一変する
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