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ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫…
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コメント
ヤマトタケルに従軍した武将に大伴武日連がいます。久米さんが大伴さんに従っていたのかも。恋人の宮簀姫を守るために尊が久米を残していったのかもしれません。
尤も、大伴氏各地の軍事・治安の仕事にあたったので、久米氏も同様だったのでしょう。各地に散らばっていった氏族ですから、簡単には言えないでしょうね。愛知県の場合、常滑市に久米地名が残っています。
三重県のHPによりますと、白鳥陵と確定した古墳のようなものは江戸時代に無かった。
明治期になって、政府が皇子墓の治定を推進すると、もっぱら高宮村白鳥塚と長沢村(現鈴鹿市)双子塚がその候補として取り上げられた。前者は神戸藩、後者は亀山藩が願い出て、それぞれの古墳の整備を進めた。廃藩置県後、政府は職員を派遣し現地調査を行い、1876(明治9)年1月ようやく高宮村白鳥塚を能褒野墓と治定した。
ところが、1879年10月、宮内省はそれを改定し、今度は丁子塚を治定した。こうした陵墓の改定は少なく、皇子墓ではほかに例がない。改定の要因は何か。当時の文書によれば、丁子塚の方が能褒野墓にふさわしいと建言した者があったという。それは誰かわからないが、ともかく政府が動いた。地元に図面の提出を求め、検討の上、丁子塚を能褒野墓と定めた。白鳥塚は60メートルの円墳、丁子塚は全長90メートルの前方後円墳で「王塚」とも言われた。建言もさることながら、やはり古代伝承中の英雄として描かれた日本武尊の墓は雄大な前方後円墳の方が良いと宮内省は判断した。そして、更に壮大さを増すため、挿図のように墳丘の周りに溝や土堤を設けるよう県に指示した。しかし、丁子塚の現地には歴然とした周溝などの遺構があるわけではない。県では苦慮し、再三宮内省に問い合わせ、結局「見計ヒ」で断崖いっぱいに土堤を設け、墳丘の回りに溝を造った。これらの工事は1882年3月に完成したが、その工事記録『日本武尊御墓修繕書類』が県庁に残っており、詳しい仕様を知ることができる。
しかしながら、最近では当初から丁子塚に周溝や外堤があったと誤解する人もいる。それは、「陵墓」で立入調査などの制約もあって調査研究が進んでいないからで、本居宣長に丁子塚の様相を伝えた坂倉茂樹の記録など、様々な関連資料を分析して、この古墳の実態を少しでも明らかにしていく必要性を痛感している。
13年 御刀媛を高屋宮に召し、妃とする。トヨクニワケ皇子を生む。
17年 子湯県に行き、丹裳小野に遊び、東を望んで国名を「日向」と名付ける。さらにそこで「思邦歌(くにしのびのうた)」をうたう。
18年 筑紫を巡行する。夷守地方の石瀬川で諸県君イズミヒメに出会う。熊県から葦北に到り、さらに火の国(八代)―島原―玉名―阿蘇―三池―八女―浮羽と巡行。
19年 天皇、日向より帰京。
20年 イオヌ皇女に天照大神を祭らせる。
25年 武内宿禰に北陸・東国を偵察させる。
27年 武内宿禰が帰還し、偵察の結果を報告する。八月、熊襲が再び背く。オウス皇子(ヤマトタケル)に征伐を命じる。熊襲の国に到り、宴中の熊襲の首領「川上タケル」を討ち取る。このとき、川上タケルから「日本武皇子」という名で讃えられる。
28年 ヤマトタケルは帰路、吉備と難波で悪しき神を誅伐した上で、王宮に帰還する。
40年 ヤマトタケル、斧鉞を授けられて東国を撃つ。副将は吉備武彦と大伴武日連。
43年 伊勢神宮―駿河―相模―上総―陸奥国(日高見国)―常陸―甲斐―信濃―美濃―尾張と転戦してきたタケルは、尾張氏の娘・ミヤズヒメを娶る。ところが近江の伊吹山に登ったとき、山の神の怒りに触れ、ついに伊勢の能褒野(のぼの)で絶命。武部(たけるべ)を定める。
51年 八月、ワカタラシヒコを皇太子に立てる。武内宿禰を棟梁之臣とする。
ヤマトタケルの系譜(正妃フタジノイリヒメとの第二子が仲哀天皇=タラシナカツヒコ)
52年 皇后イナヒノオオイラツメが亡くなったので、妃ヤサカノイリヒメを皇后とする。
53年 東国を巡行する。十月、上総国の海中で白蛤を得たので、イワカムツカリが膾にこしらえたところ褒められ、ムツカリは「膳大伴部」姓を授けられる。
54年 伊勢の行宮から、纒向宮に帰る。
55年 ヒコサシマを東国十五国の都督に差し向けたが、途中で逝去。
56年 ヒコサシマの子・ミモロワケに父の後を継がせたところ、善政を敷き、東国は静穏になった。
57年 九月、坂手池を造り、その堤に竹を植えさせる。田部・屯倉を興す。
58年 近江国に行幸し、行宮を建てる。高穴穂宮という。
60年 十一月、高穴穂宮にて崩御。106歳。
同様に旧事紀にも倭建命の妃の弟橘比賣命の子にもまた武養蚕命(たけかいこのみこと)がおり、波多臣等祖とあります。
ちなみに旧事紀では、弟橘比賣命は橘媛と書かれており、その子に阿波君等祖である息長田別王も見えます。
武養蚕命と息長田別王は同父母兄弟ということになります。