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鳥見山鳥見山は標高245m、面積約50ha余のなだらかな山容で、登るにつれ北に三輪山・南に音羽山系・東に外鎌山…
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コメント
「えんむすびの神」として崇められています。
三角縁神獣鏡は中国から1枚も出ていないので、畿内説の学者でも、これを卑弥呼の鏡とするには問題があると思うようになった。そこで、三角縁神獣鏡ではなく、画紋帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡とする主張が現れた。
「画紋帯神獣鏡」の分布を見ると、日本では近畿から73面、九州から21面出土しており、近畿から多く出ている。
中国では湖北省から86面、浙江省から46面出土しているが、卑弥呼が使いを送った洛陽のある河南省からは2面しか出ていない
前方後円墳で、この古墳からは、獣帯鏡、ガラス小玉、刀子、針などの副葬品も見つかって
いますが、岡山市の備前車塚古墳(全長48メートル)に酷似しているとの調査結果が出ま
した。
松本1号墳と同じ時期に造られたとされている雲南市加茂町神原の神原神社古墳からは
「景初三年」と銘が刻まれた三角縁神獣鏡が出土しています。なお、景初三年の鏡は、邪馬
台国の女王卑弥呼が魏から賜った鏡と考えられており、他では大阪府和泉市の和泉黄金塚
古墳などからでも出土しています。
問題は松本1号墳と神原神社古墳は、被葬者を納めた木管の埋葬法が、出雲東部の他の
古墳とは異なり、大和や吉備の埋葬法と同じだということです。
つまり、この2つの古墳は、大和や吉備との関係性が考えられるのです。しかも、どちらの
古墳も斐伊川近くに造られています。このことは、『古事記』にある、ヤマトタケルが斐伊川で出雲タケルを討った伝承を思い起こさせます。
門脇禎二は、当時の出雲が吉備王国に侵攻されてその支配下にあったとした上で、松本1号墳と神原神社古墳の被葬者は、吉備から進駐してきた指揮官である、とします。
バス停「生田」の直ぐ北西が「安倍寺史跡公園」で、草がぼうぼうと生えた「仲麻呂屋敷」と呼ばれる一辺15mの方形の土壇があり、昭和41年と43年の調査で出土した瓦等から昔は崇敬寺とも呼ばれた「安倍寺」の塔跡で、また、東方にある土壇は、金堂の跡と推定され、北方にある土壇は、講堂の跡と推定され、おそらく、安倍寺も法隆寺式伽藍配置だという。
履中天皇の磐余稚桜宮跡(いわれわかざくらのみやあと)だとする説がある。
延喜式内社「磐余稚桜神社」とされる、旧村社。
多くの石灯籠が有り、古いものは宝暦10年(1761)のものが有る。
伝承では、
履中天皇が皇后と、船を磐余市磯池(いわれいちしのいけ)に浮かべて遊宴されていた時、盃に時ならぬ桜の花びらが散りかかりました、この奇譚をめでて、この宮を磐余稚桜神社と改めたということである。
桜井の地名の起こりの伝承:その桜を探しだし、桜樹を清水の湧く和泉のほとりに移し植えさせた、この泉は、大和の七つ井戸のひとつであったという、若桜神社の北50mほどにある「桜の井」だという。
『大和志』に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたこともあり、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)の跡地であるとする説がある
ウォーナー博士は1881年アメリカ生まれ。東洋芸術史家で日本美術をこよなく愛していたとある。第二次大戦、日米開戦において戦争防止を進言し、開戦となると、アメリカ政府、軍上層部に辛抱強く、奈良、京都をはじめとする古都の文化的価値の説得した。
その甲斐あって、アメリカ軍の日本本土空襲の空爆リストから外されたのであった。
桜井市の市民が、その感謝の気持ちとして、ここに「ウォーナー博士報恩供養塔」を建立したという。