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黄巾の乱 後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。 太平道という宗教の創始者張角は貧窮農民…
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老子(BC6世紀) 牛にまたがり周を出る。道徳教はBC4世紀頃の複数人の収集
荘子(BC369-280) 老子に学び、庶民にわかる説明をする
劉安(BC?-122) 劉邦の孫。淮南王「淮南子」
大平道(張角・?-184) 儒教が衰えた頃、はじめて組織化。黄巾の乱
天師道(張陵・34-156) 仏教を手本に老子を神格化し、自ら初代天師となる
五斗米道 教団維持のため家ごとに五斗の米を奉納させる
に支配されました。
その最初の例は匈奴人きん準(革へんに斤)で漢天王を号し、引き続き羯族人石勒の趙天王(328)・石虎の居摂趙天王(333)、西部地域から起こったてい族(氏の下に横棒)符建の大秦天王(天王大単于)・符堅の大秦天王などなど、天王号は北方民族の好んで使った君主名であつたのです。
趙天王と名乗った羯族人石勒(趙の初代高祖)は、西域出身の僧仏図澄(?~348)を大和尚として尊崇し、居摂趙天王石虎(石勒の子)は、また仏図澄に帰依し、建武元年(335)漢人の出家を公許したといいます。
「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」(『三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯』より)
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中国,五斗米道(ごとべいどう)の大成者。後漢末期,益州(四川省)長官の下で部隊長になり,漢中(陝西省南部)攻略に成功してここに独立した。その政権は,祖父の張陵から父の張衡(ちようこう)を経て伝えられた五斗米道の教法を整備し,その信仰を精神的紐帯にするとともに,教団組織をそのまま行政に活用した一種の宗教王国で,30年近く独立を保ったが,215年(建安20),曹操の軍門に下り,張魯らは曹操の根拠地である鄴(ぎよう)(河北省南端)に移されて,この宗教王国は崩壊した。
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「鬼道」は、倭人伝の他に魏志・張魯伝に出てくる。
張魯は、教団「五斗米道」を率いて、後漢(25~220)末期の200年ごろから漢中郡の漢寧("漢中"と改める)に宗教王国を築いて支配したが、215年に曹操の攻勢を受け降伏した。
もともと五斗米道は、張魯の祖父、張陵が創始した宗教である。
>祖父陵、客蜀。學道鵠鳴山中。造作道書、以惑百姓。從受道者出五斗米、故世號米賊。
祖父張陵は蜀に来て、鵠鳴山(あるいは鶴鳴山)で古い道教の文書を発見[あるいは捏(ねつ)造]し、それによって百姓を惑わした。信者は米5斗(当時は1斗=1.98リットル)を奉じた故に、世間は「米賊」と呼んだ。
祖父張陵は太上老君(老子が死後、神になった姿)のお告げにより、天師の位を得た。死後、教団を張衡が継ぎ、その死後はさらに張脩が継いだが、張魯が張脩を殺して教団を奪い取り、漢中を本拠地とした。
>魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君。其來學道者、初皆名鬼卒。受本道已信、號祭酒。各領部衆、多者爲治頭大祭酒。
張魯は遂には漢中を拠点とし、鬼道によって民を教化し、自ら師君と称した。入信者はまず全員を鬼卒とし、道を身に付ければ祭酒とする。各部が大きくなればそのリーダーを大祭酒とする。
>皆教以誠信不欺詐。有病、自首其過。大都與黃巾相似。諸祭酒皆作義舍、如今之亭傳。又、置義米肉…
誰もが誠をもって人を信じ、だまさないよう教え諭す。病気になれば、(原因となった)過ちを告白させる。都は黄巾に似る。祭酒たちは、今の宿駅のように義舎を作り、義の米肉を置き振る舞う。
義=<漢辞海>「社会規範において宜しきにかなっていると判断される人倫上の正当なあり方。」</漢辞海>
漢中郡は強大な教団組織と一体の宗教王国となり、その政治は義に厚いものであった。五斗米道は後の道教(5世紀ごろ成立)に連なるとされる。
しかし、魏志においては「百姓を惑わす」とか「五斗米を供出するので、世は米賊と呼ぶ」の表現に、シャーマニズムへの冷ややかな視線が感じられる。
【儒教とシャーマニズム】
張魯が自ら行った「鬼道」の内容は具体的に書かれていないが、お告げまたは、呪術のようなもの(シャーマニズム)を指すと考えるのが自然である。
シャーマニズムは、(1)舞踊などでトランス状態になり魂が抜け出すか、憑りつかれる。(2)超自然的な霊や神仏との交信が特徴的である。しかし、普通の精神状態で理性的に神のお告げを語る者もまた、シャーマンであるという。
また、少し性格が異なる「呪術」という言葉もある。豊作祈願とか、天災を逃れるための儀式、呪詛などに用いる。さらに、医学が未確立の状態では、病気治療=呪術であったが、使用する薬草に実際に薬効があったり、最近はスキンシップの治療効果も実証されている。呪術の使い手もまたシャーマンと呼ばれる。
中国では、創始者孔子(551B.C.~479B.C.)以来、歴史を通して儒教が支配的な思想であった。
民間信仰では、孔子が神格化して各地に祀られているが、儒教自体は社会に於ける人の秩序を示す哲学であり、不断の教養の習得を促す道徳である。
ただ、儒教についても、「一般的に祖先への崇敬を重んじる所から宗教である」とする考え方と、「特定の神の設定が排除されているので宗教ではなく倫理思想である」という考え方がある。
いずれにしても、儒教から見ればシャーマニズムは忌むべき迷信であり、知性に反するものである。その考え方が、魏志で「衆を惑わす」という表現の根底にあると思われる。
P90.~道教が道教として実質的に成立するのは、この後漢の末期、三世紀ころからである~これは「三張(教団を統率する張陵、張衡、張魯の三人)道教」と呼ばれました。このとき、思想的影響を与えたのが、いわゆる三玄の哲学であり、老子、荘子の「道」の哲学と易教の「神」の哲学でした。~これを「鬼道の道教」に対して、「神道の道教」といいます。~後漢に曹操という軍事の天才が出現し、三張道教の最後の統率者、張魯と戦って、決定的な勝利を収めます。~そして、この反体制的な三張道教に代わって、江南の茅山に新しく皇帝権力と妥協する体制的な道教、いわゆる茅山道教が成立します。これは仏教や儒教の影響を強く受け、そのエッセンスを採り入れたものでした。~さらに新しく展開するわけです。これを「真道の道教」といいます。~仏教側からの攻撃~それは、道教が不老長寿とか羽化登仙とか自利の個人的な救済だけを問題にして、仏教のように捨身捨命の利他行を説かず、衆生済度の菩薩道を実践しようとしない、というわけです。この批判たいして、道教の側は理論武装する必要がありました。~衆生済度と同義の「度人」や「救苦」を教典とする道教教典が大量につくられることになります。これが「聖道の道教」です。七~八世紀、わが国の古事記神話が成文化されるころまでの道教の歴史~鬼道、神道、真道、聖道。道教はこの四段階の展開と変貌を経てきているということになります。
数学者、天文学者、政治家である。
は
時計と連動して動く精密な渾天儀を作成したといわれている
基本的に術数に関わる者は、太陽時(平均太陽時、真太陽時)と恒星時、そしてそれぞれの違いくらいは知っていたと考えていいだろう。陰陽寮の天文博士がそれを知らなかったはずはないし、ちゃんと水時計で時刻を管理していた以上、六壬式占文で使用されている時刻は平均太陽時であっただろう。
これまでの学者たちの道教研究では、儒教 仏教 道教の三教を横並びにして対立的にとらえ、三教相互宇の相違点の究明に研究の重点がおかれたために、道教の中に持ち込まれている儒教的、仏教的なものはすべてニセモノ、不純物として取り除かれ、純粋な道教の祖型として、2~3世紀の漢魏の時代のいわゆる三張道教が注目重視され、道教とは何かを考える上の学問的な基準とされてきた。
*三張道教とは、「五斗米道(ごとべいどう)」という教団を興した張陵、2代目の張衡、3代目の張魯の教え
しかし、中国における宗教思想史の展開の事実は、三教が重なり積み上げられており、それぞれ分けて考えることは難しいといいます。
そこで福永氏は道教四重構造論を唱えている。
☞道教四重構造論
1段階 殷王朝時代に源流を持つ「鬼道」(巫術)の教え
2段階 前3~後2世紀秦漢時代「神道」の教え
3段階 3~4世紀魏晋 のころ「真道」の教え
4段階 5~6世紀 斉梁のころ「聖道」の教え
1段階 殷王朝時代に源流を持つ「鬼道」(巫術)の教え
中国土着の呪術・宗教的な信仰儀礼☜これが底辺部にある
シャーマニズム、まじない、御札、神おろし右矢印禁呪・呪符・霊媒術などが中心で、巫術ともいう。
この巫術は多くの場合右矢印女性によって行われる。
これらは何を目的にしているかというと、人の寿命を損なう病気や災禍 などを払いのける祈禱祈願する事であり、こういった呪術祈禱が道教の一番古い底辺部にある
▶日本古代の卑弥呼の宗教も鬼道であると中国文献には説明されている
▶日本の神社等に形を変えて今も残っている。
▶中国の鬼道としての禁呪は、日本では修験道などで行われている。
2段階 前3~後2世紀秦漢時代「神道」の教え
『易経』の中の「神」右矢印「陰陽の測られざる。これを神という」
『老子』の「道」右矢印「道は万物の奥、自然に法る」
この二つの哲学を上乗せする。
▶日本では八世紀の初めに成った『日本書紀』が最初に「神道」が用いられている。『古事記』においては、用いられていない。
中国は、秦、漢の統一国家が出現してくる。それをピークとして、1の土着的な呪術・宗教的な信仰儀礼というものが、政治的 社会的に秩序づけれれ、されらに儒家の礼典として整理、体系化される。
そういった宗教的儀礼を執行する最高責任者(司令者)に右矢印帝王があてられる。
また、西暦紀元前後、インド西域から仏教が伝わり、中国の漢字仏教となります。
そして、民族宗教としての教理と儀礼と教団組織を整えた道教が混じりあっていく。
つまり、
土着の呪術・宗教的な信仰儀礼左矢印儒家の礼典左矢印中国の漢字仏教左矢印道教がプラスされていきます。
3段階 3~4世紀魏晋 のころ「真道」の教え
神道の教がさらに『荘子』の「真」右矢印「真とは天より受くる所似なり。自然にして易(か)うべからず」
これをふまえて展開する初期中国仏教の「清浄」の哲学などを導入し、儒教を俗道の教として批判するとともに自らの教を真道と呼ぶに至ったもの。
この時期においては中国仏教もまたみずからの教を真道とよんでいる。とくに浄土と禅の系統の中国仏教が真道の教として『荘子』の「真」の哲学を大幅に導入することになる。
そして逆に、また真道の教としての道教も、同じく真道の教としての中国仏教から、その教理と宗教哲学を様々な形で大きく取り入れていく。
つまり右矢印道教と中国仏教の思想的共通性を根底基盤として展開していく。
4段階 5~6世紀 斉梁のころ「聖道」の教え
インドから中国に伝えられた仏教は西暦3~4世紀までは、自らを真道の教とも呼び、道教と同じく反俗の立場をとって儒教と対立していた。
しかし、5~6世紀 宋 斉梁の頃になると、仏教は真道としての道教を「独善自利の宗教」として批判攻撃します。
それまで俗道として退けていた儒教と手を握る事となります。
これにより、道教は衆生済度の教えは本来あるのだと主張し、往生の済度、救苦を説く道教経典のたぐいが大量に製作されます。
そして、みずからの教を儒教、仏教と同じく聖道の教「聖教」であると主張します。
要するに、道教と儒教・仏教との関係は、複雑に入り組んでいて、いつの時代、どの段階であるかによって道教は何であるのかの答えが相違し、後の段階になるほど三教相互に密接する度合いを強くし、最終段階の唐五代の時期には、儒教も仏教も必要な部分はすべて「聖道」の教えとしての道教の中に大きく取り込まれているということになる。
中国土着の民族宗教である「道教」は、インドから伝わった仏教とかなり早い時期から折衷習合している事が分かります
張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。
張衡は理論的研究だけでなく、実践も重視している。彼は自ら「漏水転渾天儀」や「気候風地動儀」を設計した。「気候風地動儀」は地震を測定する世界初の計器である。紀元138年、張衡はそれを使って、陝西省で起こった地震の記録に成功した。また、「渾天儀」は現在の地球儀に相当するものである。それはもともと他の科学者が発明したもので、張衡はそれをもとに一部の改良を行った。彼はギアシステムを使って「渾象」―今の天球儀に似るものを水時計とつないだ。水時計は水を漏れ、「渾象」の平均した回転を押し動かし、一日にちょうど一回りをする。これによって、人は部屋のなかで、「渾象」を調べることによって、いつ、どの星がどの位置にあることがわかるようになる。
張衡はまた具体的な天文現象を観察・分析した上で、中国の中部地域で眺められる星の数はおよそ2,500粒があることを統計した。彼は月食の原理を基本的に把握し、太陽と月の角直径を計った結果もかなり正確なものである。張衡は、朝晩と正午の太陽はその大きさが同じである。朝晩は大きく、正午は小さく見えるのは、ただ光学作用によるもので、朝晩、観測者がいる環境は比較的に暗くて、暗いところから明るいところを眺めるときに太陽が大きく見え、正午には天地が同じ明るさで、天上の太陽を眺めると小さく見えるのだ。これはたき火に似ていて、夜には大きく見えて、昼間には小さく見える。と説明している。張衡のこのような解釈はそんなに全面的なものではないが、一定の道理がある。
張衡は天文学者だけではく、東漢時代の有名な文学者でもある。そして、彼の絵画もかなり優れたもので、当時の六大名画家に称えられている。中国の史書の記載によると、張衡は一生科学や哲学、文学などの面の著作を三十二篇残した。その内、『応閑賦』は張衡の人柄と学問態度を表したものである。『思玄賦』は人間の宇宙旅行の幻想を語っていて、中国の早期的なSF文章である。そのほか、『東京賦』と『西京賦』は張衡の代表作と言われ、今日まで伝わった。この二つの作品では、張衡は非常に詳しく東京と西京の景色を描き(東京は、現在の陝西省の西安である、西京は現在河南省の洛陽である)、そこの風俗民情を述べ、ロマンチックで誇張した叙述の手法を使っている。その内、各種の民間芸術の実演を描いた内容は、中国古代の雑技芸術を記載するきわめて貴重な史料となっている。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算網論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」、「四愁詩」、「同声歌」がある。
張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという。
そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。
中国での天球儀の最初の発展は、紀元前4世紀の石申と甘德によるもので、彼らはリングが1つの単純で原始的な天球儀を作った。これによって彼らは北極星までの距離を計算した。
その後、前漢の時代になると、落下閎、耿壽昌らによってさらなる改良が加えられた。紀元前52年に耿壽昌は天の赤道にあたるリングを加えた。続いて後漢時代の84年には賈逵らによって黄道のリングが加えられた。有名な政治家、天文学者、発明家であった張衡によって125年に地平と子午線に当たるリングが加えられ、天球儀はほぼ完成した。
また張衡は世界で初めて水力で動く天球儀を発明し、天球儀は水時計としても使われた。
と注しており、張衡によるものとは考えにくい。まずは「思玄賦」に見られる占術表現について考えてみたい。 「思玄賦」は、張衡が侍中となった後、五八歳の時に作ったと
「思玄賦」は『文選』以外に『後漢書』張衡伝(以下張衡伝と表記) にも全文が収録されているが、各々注釈者も異なり、文字の異同 もある。『後漢書』は南朝宋の范曄による撰で、唐の李賢が注を 施し、更に清の王先謙が集解を付した。張衡伝冒頭の集解に「洪
される。作成の動機として、張衡伝には次のようにいう。
亮吉曰、案注最草率。当時不知何人分注。又巻頁独長。蓋注後未
加校勘耳(洪亮吉曰く、案ずるに注最も草率たり。当時何人の注 を分くるかを知らず。又巻頁独り長し。蓋し注の後未だ校勘を加 えざるのみ、と)」とあり、注が長く煩雑であり、まだ草稿段階 であったと述べられている。また『文選』は南朝梁の昭明太子の 撰であり、唐の李善による注がある。「思玄賦」には張衡自身の
「思玄賦」、以宜寄情志。 (後に侍中に遷り、帝引きて帷幄に在り、左右を諷議す。嘗
後遷侍中、帝引在帷幄、諷議左右。嘗問衡天下所疾悪者。宦 官懼其毀己、皆共目之。衡乃詭対而出。閹豎、恐終為其患、 遂共讒之。衡常思図身之事、以為吉凶倚伏、幽微難明。乃作
い あく
て衡に天下の疾悪なる所の者を問う。宦官其の己を毀ることを懼れ、皆共に之を目す。衡乃ち詭対して出づ。閹豎、終に其の患を為すことを恐れ、遂に共に之を讒る。衡常に身を図るの事を思い、以為えらく、吉凶は倚伏し、幽微にして明ら かにし難し、と。乃ち「思玄賦」を作り、以て宜しく情志を 宜べ寄す。)
ここで「思玄賦」の「玄」は、『老子』の一節にいう「玄」で
この記述によると、張衡が侍中の際に帝から天下の害悪を問わ「思玄賦」の内容は、
求める所を探して広く四方上下に赴き、 遠遊するというものである。正しい道を進もうという自身の志が 当時の世に受け入れられないことを嘆き、旅に出る。東↓南↓西 ↓北へと順に巡り、句芒や禹、二妃(女娥と女英)、黄帝らと出 会うが、留まることはなく、地下世界を経て天上界に至る。
神々 に命を下し、星々の世界を遊び、最終的には故郷へと帰っていく というストーリーになっている。当時の他の文章と同じく、宦官が名を挙げられることを恐れて逆に張衡を謗ったことが 「思玄賦」作成の動機となっているようである。
また、李善の『文選』題字注にはこうある。
順和二帝之時、国政稍微、専恣内竪。平子欲言政事、又為奄
竪所讒蔽、意不得志。欲遊六合之外、勢既不能、義又不可。
但思其玄遠之道而賦之、以申其志耳。系曰、回志朅来従玄
() の典拠に拠った賦である。
謀、獲我所求夫何思。玄而已。『老子』曰、「玄之又玄、衆妙
() 之門」。
( )「思玄賦」の『易』占い
(順和二帝の時、国政稍く微え、内竪に専恣せらる。平子政 張衡伝と『文選』の注釈を見ていくと、「思玄賦」には『易』事を言わんと欲するも、又奄竪の讒蔽する所と為り、意志を
に基づいたとされる箇所がある。それも、ただ語句を引用するだ けでなく、『易』の卦を表わす内容を盛り込み、賦全体の中でも 意味あるものとして挿入している。そこでまず、該当箇所を以下 に挙げ、その意義を確認する。以下「思玄賦」の引用は主に張衡 伝に従うが、『文選』と文字の異同がある場合は注に表記する。
得ず。六合の外に遊ばんと欲するも、勢として既に能わず、
義としても又可ならず。但だ其の玄遠の道を思いて之を賦
し、以て其の志を申ぶるのみ。系に曰く、志を回らせ朅来し て玄謀に従う、我が求むる所を得ては夫れ何をか思わん。玄 なるのみ。『老子』に曰く、「玄の又玄、衆妙の門」と。)
『易』占いは賦の初めの部分で、旅に赴くかどうかを決める際に 為された。
張衡と占術
一巻之書互異数事。聖人之言、執無若是。殆必虚偽之徒、以
要世、取資。往者侍中賈逵摘讖、互異三〇余事。諸言讖者、
皆不能説。至於王莽簒位、漢世大禍。八〇篇何為不戒。則知
図讖、成於哀平之際也。且河洛六芸篇録已定、後人皮傅、無
() 所容簒。
(一巻の書互いに数事を異にす。聖人の言、勢い是の若きこ
と無からん。殆ど必ず虚偽の徒、以て世に要め、資を取る。
むかし つ
往 者、侍中の賈逵讖を摘み、互いに三〇余事を異とす。諸
の讖を言う者は、皆説くこと能わず。
王莽の位を簒うに至 張衡と占術
「太一九宮を行ぐる法は、太極が八卦の間に流通変化する、り、漢の世大禍あり。八〇篇何為れぞ戒めず。則ち図讖を知 るは、哀・平の際に成るなり。且つ河・洛・六芸の篇録已に 定まり、後人の皮傅、簒を容れる所無し)
易のいわゆる陰陽の変化消息の法をあらわしたものである」とい
() う。詳細な占い方は明らかではないが、八卦を用いるという点で
『易』に関係しており、また『易緯乾鑿度』の鄭玄注に「太一者
北辰神名也(太一は北辰の神の名なり)」とあることから、星と ここでは、図讖は一つの書物の中に矛盾した内容が併存すると
も関わっていたと考えられる。
伝統的な占術は、星の動きや寒暑の要因を観察するとともに、
述べ、それらは虚偽の記述であるという。また、図讖が哀帝・平 帝の時代に成ったものであるという言及は、讖緯思想の始まりに ついて述べた興味深い記述である。
亀甲や筮竹による占い、巫覡の言葉によって推察するものであるという。巫覡は張衡の「東京賦」にも記述があり、洛陽の追儺の() 様子を表わす際に記述される。張衡は、星や気候の変化を見て先且律暦卦候九宮風角、数有徴効、世莫肯学、而競称不占之
行きを占う行為、また亀甲占いや『易』占い、そして占術に通じ た巫覡の言葉を容認し、正当なものであると捉えていた。
書。譬猶画工、悪図犬馬、而好作鬼魅。誠以実事難形、而虚
一巻之書互異数事。聖人之言、執無若是。殆必虚偽之徒、以
(且つ律暦、卦候、九宮、風角は、数しば徴効有るも、世は 肯えて学ぶことなく、競いて不占の書を称す。譬えば猶お画
要世、取資。往者侍中賈逵摘讖、互異三〇余事。諸言讖者、
工の、悪みて犬馬を図き、好みて鬼魅を作すがごとし。誠に 以て実事は形れ難く、虚偽は窮まらざるなり)
皆不能説。至於王莽簒位、漢世大禍。八〇篇何為不戒。則知
図讖、成於哀平之際也。且河洛六芸篇録已定、後人皮傅、無
() 所容簒。
「不占之書」とは占いの書として効果がないということであろ う。よって李賢注は「謂競稱讖家也(競いて讖家を称するを謂う なり)」という。ここで挙げられた律暦、卦候、九宮、風角に関 して、張衡は「数有徵效(数しば徴効有り)」と価値を認めている。 律暦と九宮については先述した。卦候は、その詳細は明らかでは
(一巻の書互いに数事を異にす。聖人の言、勢い是の若きこと無からん。殆ど必ず虚偽の徒、以て世に要め、資を取る。
往 者、侍中の賈逵讖を摘み、互いに三〇余事を異とす。諸の讖を言う者は、皆説くこと能わず。
王莽の位を簒うに至 張衡と占術
この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。
宦官が権力を私物化すると、それを批判し抵抗する知識人たちの世論が高まった。これを清議と呼ぶ。彼らは自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は清議派を党人と呼んで弾圧した。豪族の中にも清議派と共同するものが現れた。
166年に司隷校尉(首都圏長官)の李膺が宦官の犯罪を摘発したことをきっかけとして第一次の党錮の禁(とうこのきん)が起きる。李膺を初めとした200余人が逮捕されたが、豪族勢力の働きかけにより釈放されて禁錮(禁錮刑のことではなく、官職追放されて以後仕官が出来ないということ)となった。しかし李膺たちは義士として称えられることになり、三君・八俊と言った人物の格付けを行った。
その後、霊帝を擁立した外戚の竇武(竇憲のいとこの子)が168年に清議派の陳蕃らとともに宦官を誅殺しようとする事件が起きたため、宦官勢力は169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。
黄巾の乱が勃発すると、黄巾と戦うために再び外戚が力を伸ばし、また知識人が黄巾と共同するのを防ぐために禁錮を解いた。その後も外戚と宦官の対立は続き、189年に外戚の何進が十常侍に殺害されるが、同年、袁紹に十常侍たちが皆殺しにされたことで外戚・宦官の勢力はともに消滅した。
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経と緯
もともとは機織りの用語で、「経(けい)」は縦糸、「緯(ゐ)」は横糸。紙が発明される以前の書物は、縦に細長い木簡や竹簡を左右に並べてその上端と下端をそれぞれ紐で結んだことから、縦糸を意味する「経」の字が書物の意味をもったともいい、縦糸のイメージからまっすぐの筋道(倫理規準)の意味になったともいう。儒教の経典を「経書」「○○経」などとよぶのはこれに由来する。
これに対し、前漢の末頃から、経書のこじつけ解釈による予言書が捏造されるようになり、これを「緯書」といった。これはオモテの教典である「経」に対してウラ(秘密)の予言書という意味で「緯」の字を使っている。讖緯の「緯」はこれのこと。七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対してそれぞれ何種類もの緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する(例えば「詩緯」にもいろいろな書物があってそれらを総称して「詩緯」という。同じように「書緯」「礼緯」も特定の書の名ではなく分類名である)。孔子の作というが前漢末の偽作である。隋代までに続々と作られた。
『三国志』で有名な荀彧(荀或)の従兄にあたる荀悦(148年 - 209年)の著『申鑑』五篇の中の一つ『俗嫌』に「世に称す、緯書は仲尼の作なりと」とあるが、これが緯書という名辞の出典としては初出(現代まで残っている中では最古の例)である。ただしこの文は後述の荀爽(荀彧(荀或)と荀悦の叔父)の「緯書はホントは前漢の末頃に捏造されたもの」という説を紹介した文章の中からの引用である。
ちなみに古代中国の天文学・占星術において、十二辰(黄道上の12星座)を「十二経」、七曜(1週間のことではなくて日月5星)を「七緯」とよぶこともある。
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讖と緯
讖(しん)と緯(ゐ)は厳密な定義からは別のものである。讖とは未来を予言することであり、未来記や予言書の類を「讖記」などという。これに対し、狭義の緯書は上述の通り経書の注釈書の一種である。しかし、現在残っているのは逸文や断片的なものであるが、讖記も緯書も、神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理、五行説など、神秘学的な未来予知に関するあらゆる要素から成っていたことがわかる。が、後述のように日本のものは五行説による干支の解釈と数字の処理だけでできている。いずれにしろ、中国では、讖も緯も要するに同内容であり、両者の違いは経書へのコジツケが有るか無いかという形式的なことにすぎない。このことから「讖緯」と一纏めにして呼ばれる。「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」などともいう。
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前漢末から隆盛し、後漢では建国の祖たる光武帝本人を含め貴族(政治家)や学者(知識人)まで広く信奉され、大流行したので「内学」とまで呼ばれた。当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、後漢末の人、鄭玄(AD127年 - 200年)は、儒教経典のほとんどに注釈をつけた有名な大学者であるが、彼もまた讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを混じえるという有り様であった。
しかし少数派ながら讖緯説を否定する者らもいた。後漢の建国されるや王充(AD27年 - 100年頃?)あり、彼はその名著『論衡』において緯書を非合理で民衆を惑わす「虚妄の言・神怪の書」と激しく罵倒。次いで、後漢の盛期には張衡(AD78年 - 139年)あり、彼は予言がもたらす社会的弊害を述べ立て大衆が讖緯に取り憑かれていることを慨嘆、その禁圧を奏請した。もっとも張衡は正統な伝統にのっとった占星術や易断などを否定していたわけではなく非正統で異端の邪説を否定したものである。最後に、後漢の滅びんとするや荀爽(AD128年 - 190年)あり、この人は三国志で有名な荀彧(荀或)の叔父だが、その著『弁讖』で緯書を孔子の述作とする通説を否定し前漢末に作られたものと論断。以上のうち張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており前漢末だとする荀爽の説と一致する。哀帝という皇帝は、権勢を振るっていた王莽を逼塞させていた名君だったが25歳で早逝。王莽に暗殺されたんだろう。この期間、王莽は取り巻きに命じて「符命」(天命のしるしとなる瑞祥の類)や「讖文」(王莽が天子になるとの予言)の類をせっせと量産していたことは歴史に明らかな傍証がある。
この後も讖緯説の人気は衰えなかったが、もてはやしたのは後漢王朝だけで、西晋の武帝(司馬炎)、五胡十六国の秦王符堅、南朝宋の孝武帝、梁の武帝、隋の文帝など、国家を脅かす危険思想として何度も禁令を出した。隋の煬帝は、讖緯を奉じる学者は死刑に処する等、厳しく禁圧し、讖緯に関する書物を焚書したため、緯書は散逸した。その上、唐になって『五経正義』(七世紀半ば頃)が出ると正統な儒教の立場からは異端の邪説とされ、継承した学派も存在しない。明清になって、諸書に引用された逸文から復元が試みられるようになり、逸文の集成が何種類も出ており中には30巻以上にもなるものもある。
日食や、月食の原理も知っていました。当時の天文学では、観測を続けた結果、日食は41,42カ月ごとに定期的に起きるということがわかっており、予測することができたのです。そして、当時いわれていたような太陽が月に食われてしまうというようなことではないといいました。
その後卑弥呼が魏(後漢後)の国と交流して、日食の原理と日を教えてもらったといいます。魏の国との交流がなくなると日食の予言はなされないことになり、倭の王室の権威は低下しました。日食を事前に知っていて予言すれば、当時の人から見てそれは、神様に値するでしょう。
善政を施していた三代皇帝の章帝のときに、日食が起きました。多くの人が天が皇帝をけん責しているといいましたが、王充はそれはあやまっていると、皇帝を擁護しました。ただそれらの考え方は、当時の正統的な、儒学の説明と全く違っているということで、王充の考えは、危険な異端思想として、後々まで、攻撃されたという。
潮の満ち引きについても、説明しています。杭州にある銭糖江が定期的に逆流するのは、呉王により伍子しょが、殺され、それを怨んで引き起こしたと、当時信じられていました。それに対してそれは、月との関係による単なる潮の満ち引きで起こることで、誤りであると懇切丁寧に説明しています。
王充が初めて『論衡』に書いた事柄というのは大変多いのです。当時の様々な占いや迷信そして干支などについても初めて資料として書かれました。王充は当時の迷信などを徹底的に批判的に検討しています。
当時、科学の研究は特に道教の学者や技術者によって大きく発展しました。磁石と、それを活用した羅針盤も発明されました。本格的な紙の発明も後漢時代です。このような科学技術の発展が、王充のような唯物論的思想のもとになったといえます。そしてその頂点は、張衡による、天文観測機器、渾天儀や地震計の発明となります。
讖緯は天命を示しているので、権力者は不老不死研究の学問である内丹・外丹の次に、この讖緯にこだわりました。秦の始皇帝は「秦を滅ぼすのは胡」という予言を信じて万里の長城を作ったのです。結局秦を滅ぼしたのは息子の胡亥だったという
儒教を実践する儒家は天道の目的を「仁義礼智信」にあり、身を修め国を治めることが道であるとしました。儒家は不老不死や丹という神秘的なものを嫌い、方士を攻撃しました。彼らは煉丹に対し、測量を基盤とする自然科学を理念としました。天文学の張衡、紙を発明した蔡倫などの科学者が現われ、王充も『論衡』で唯物主義を唱えて煉丹や讖緯を激しく攻撃しました。思想対立が自然科学の発展を促したとする意見もあります。
こうして宮廷から方士は駆逐され、儒教は知識人や官僚の思想として宮中にとどまる一方、原始道教は「官に対するもの」として民間に広まっていきました。結果的に、宮廷内の宗教の対立が官と民の大きな溝を作り出す要因となったのです。暗に儒教をそしり、道教が主役の「封神演義」を庶民は好み、国家は発禁にしたと言われるのも頷けます。ただし、医術に関しては煉丹から発展したものであっても、有効性が高かったせいで宮廷から駆逐されることは無かったようです。とは言え、さすがに皇帝が丹を飲むことはとりあえずなくなりました
呉書孫策伝の注によると、実は張角の太平道は于吉をベースにしていたのです。つまり張角も道士であると言えるのです。民衆が黄巾の旗に集まったのも、民衆の宗教である道教だったからです。
曹操が青州で黄巾賊を撃破したとき、彼らを青州兵と名づけて魏の精鋭部隊となりました。このことから、賊ではなくなったものの、太平道自体は思想的に存在し続けたものと考えられます。ここで張魯が魏に来たことにより、張角を失って分散した太平道は五斗米道に飲み込まれ、魏の信者は増加の一途をたどりました。が、張魯自身は曹操の配下にいる
鬼道 2世紀、後漢(25 - 220年)時代頃まで。最高神・天皇(北極星の神。天皇大帝)。
↓(『老子』の道(タオ)の哲学と『易経』の神(シン)の哲学の影響)
神道 2世紀、後漢の時代の中頃から。太上老君が出現。最高神・天皇(大帝)。
↓(3~4世紀、「真」と「俗」を対比させる『荘子』の哲学の盛行)
真道 3世紀頃から。太上道君が出現。最高神・天皇(天皇大帝)。
↓(聖道を名乗る仏教が、道教を利己的だと攻撃)
聖道 6世紀 元始天尊(仏教の影響)が新たな最高神として出現(当時は新参)。
注に引く劉艾の『献帝紀』によると、張脩は「五斗米師」と号したという。
この張脩に関しては『典略』に詳しい。
『三国志』巻八、張魯伝、注引『典略』
典略曰:熹平中,妖賊大起,三輔有駱曜。光和中,東方有張角,漢中有張脩。駱曜教民緬匿法,角為太平道,脩為五斗米道。(略)後角被誅,脩亦亡。及魯在漢中,因其民信行脩業,遂增飾之。教使作義舍,以米肉置其中以止行人;又教使自隱,有小過者,當治道百步,則罪除;又依月令,春夏禁殺;又禁酒。流移寄在其地者,不敢不奉。
光和年間(178-184)、東には張角、漢中には張脩という妖賊がおこったという。ここでも張脩が五斗米道を興したとしている。
さらに、張脩が滅んだのち、張魯が漢中で張脩の教団システムなどを真似したという。
この『後漢書』と『典略』の記述をあわせて考えると、光和年間(178-184)に漢中で始まった張脩の五斗米道は、中平元年(184)に巴郡にまで影響力を伸ばしたということなのであろう。
ちなみに、後の張魯の五斗米道の勢力範囲もこの漢中&巴郡であり、黄権は劉備に対して「漢中を失えば三巴(旧巴郡)は保てない」と進言している。漢中と巴郡は一体であるといっても過言では無かった。
このころの益州では、益州黄巾の馬相の乱が起こっていた。
『後漢書』本紀第八、霊帝紀、中平五年条
益州黄巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍擊相, 斬之。
馬相の乱は『後漢書』において中平五年の条にあるが、『華陽国志』はこの乱の発生を中平元年としている。
おそらく、中平五年にかかるのは、賈龍が馬相を斬り、乱を鎮圧したという出来事なのであろう。
この乱の中で、馬相は、巴郡を荒らさせている。
この巴郡を荒らしたのが、中平元年の張脩の乱という可能性もある。馬相と連合していたのかもしれない。
張脩は光和年間に漢中で五斗米道を興し、中平年間の混乱のなかで巴郡まで勢力を広げた。
1,五斗米道は光和年間に張脩により始まり中平年間までに漢中・巴郡を影響下においた。
2,張魯は蜀郡で五斗米道とはまた別の教団を指導していた。
3、劉焉は張魯と張脩に漢中太守を殺させたが、その後張魯は張脩を殺し、教団を吸収した。
出典
科学者としての張衡の地動儀を引用した地震を弁じたのは大宰府に左遷され、太宰府天満宮の祭神になった菅原道真、文学者としての張衡の帰田賦の詩「仲春令月、時和気清」を参考にしたと言われるのは大宰帥だった旅人が催した宴での「初春令月、気淑風和」と歌う。
張衡の業績を卑弥呼は知っていたでしょうか。