阿太加夜奴志多岐喜比賣と和加布都努志命

October 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image阿太加夜奴志多岐喜比賣と和加布都努志命

阿太加夜奴志多岐喜比賣を祀る神社は、 出雲・伯耆において米子市の阿陀萱神社、松江市東出雲町出雲郷の阿太加夜神社…

Read the full story here


コメント

  • 出雲国の隣にある伯耆国・・現在の鳥取県の米子市には宗像三女神を主祭神として祀る「宗形神社」があり、この宗形神社周辺の地名は現在でも「米子市宗像」と言います。
    米子市宗像には現在でも宗像姓を名乗る方が多く住んでおられ、地元の伝承では、古代において宗像姓の先祖である宗像一族が九州の筑紫から船で米子にやって来て、この地に住んだのだと伝えます。
  • オオクニヌシとタギリヒメとの婚姻関係を結んだ出雲と筑紫の宗像とは相当関係が深かったようです。これはオオクニヌシの妃である宗像三女神のタギリヒメが出雲大社の本殿のすぐ横に堂々と祀られていることからもわかります。

    タキツヒコの父神はアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根命)で母神はアメノミカジヒメ(天御梶日女命)。そして祖父神がオオクニヌシ(大国主命)、祖母神が宗像三女神のタギリヒメ(多紀理比売命)です。


    タキツヒメはタキツヒコにとっては祖母の妹に当たります。そしてタキツヒコは『出雲国風土記』では「多伎都比古」と書き、タキツヒメは『古事記』では「多岐都比売」と書かれています。

    タキツヒコ・・・多伎都比古
    タキツヒメ・・・多岐都比売

    『出雲国風土記』では、母神のアメノミカジヒメは出雲の神奈備山の一つである大船山の麓でタキツヒコを産んだとされますが、この「虹が滝」はタキツヒコが産湯に浸かった場所だと伝えられています
  • October 2016 編集されました
    阿陀萱神社 あだかやじんじゃ

    大国主命と結ばれた八上姫との間に生まれた多岐喜姫が、因幡の国への里帰りの途中に指を挟まれここにとどまり、鎮守神になったとされる神社。
    住所:鳥取県米子市橋本623g
    社伝によると、主祭神の多岐喜姫は大国主命と八上姫と一緒に因幡の国へと帰る途中、榎の股に指を挟まれ当地に留まり住んでいたのだとか・・。この地方は成美地区と呼ばれいて、

    多岐喜姫の別名「加夜奈流美命」

    の奈流美は成美である可能性も高いです。

    本によると、「かっては非常に大きな神社だったということです」とありますが、畑に沿ってずっと上がって行く道や石段、本殿前のスペースなど、それを窺わせる内容でした。

    社格  村社

    祭神
    主祭神  阿陀加夜奴志多岐喜比売命(父神大国主命、母神八上姫命)
    合祀   宗像大社祭神(市杵島姫命、田心姫命湍津姫命)
         大山祗命、素戔鳴命、誉田別命、武内宿禰命、八ツ耳命(神武天皇の皇子)
         宇迦之御魂命(稲荷大社祭神)”

    歴史1:鳥取県神社誌より
    多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す、神代の昔出雲国直会の里にて誕生あり。
    八迦美姫命因幡へ帰らんととて大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓姫命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて寶石山に鎮座し給へり、(郡家正南十二里八十歩、保荷神恵比原を開給ふ故、恵野喜原と云ひしを、神亀三年榎原の庄と改む正倉にあり。
    )往古よりの大社にして延慶元戊申年京都北野に王城建築の時、三公家の内東家関白公勅使たり、長く伯伎国へ逗留の内社児司となり神領数多ありしが、後百四十二石となり(御図帳に神田が谷と号す)。
    天文元年壬辰尼子伊予守経久より八幡宮と両社へ七十二石寄附ありて永く祭祀の式厳重なり。
    其後文禄元年秀吉高麗陣の時諸国高知行の神々を勧請し、日本勝利の記念を仰られし時に、社司山川剣撿校十三にして父に離れ御供致さず神領差出せしが、慶長六年辛丑七月五日米子城主吉川氏御供田高三石一斗九升二合寄附あり。
    然るに山川相馬火災に逢ひ、吉川氏寄附の証今に焼残りあれど神領地敷等寛永十一年甲戌年堤になり後替地なし。

    多記理毘売、市寸島比売、多岐都比売命三神は人皇四十七代淳仁天皇の御宇、天平寶字六年壬寅九月十五日安芸国市杵島神社より勧請す。
    産石神は神代の昔寶石天降り一夜の中に出現せし故此山を寶石山と称す、此の石社伝秘訣有り、異名石似て側に小社を建て産石神社と崇敬せしを、明治元年神社改正の際合祀す。
  • 歴史2:米子の民話散歩道より
    神代の昔、宝石天降り一夜の中に(石が)出現せしゆえ、この山を宝石山と称す。
    この石社伝秘訣あり。 異名石にて側に小社を建て、産石神社と崇敬した。
    この石を産石神と崇めたことからわかるように、安産祈願の石として拝まれてきた。
    なぜ産石といわれるようになったのかは、「社伝秘訣」で語られていませんが、ある人は大国主命伝説にあると説かれます。大国主命は、兄神たちに妨害されながらも美女八上姫を得ましたが、八上姫は大国主の正妻スセリ姫のしっとにいたたまれず、娘阿陀萱奴志喜岐姫を連れて、因幡に帰ることになりました。
    帰路、橋本を通られた時、娘の姫が榎の枝に手の指を挟まれて抜けなくなりました。
    そこで娘の姫は「私はこの地で住むから、お母さんは因幡に帰って」といわれました。
    その娘姫の住居が阿陀萱神社で、この阿陀萱姫はまことに安産で生まれられたので、それでこの石を産石というのだ。
  • 伯耆国二宮  大神山神社 (式内社)

    所在地
    本社=鳥取県米子市尾高1025
    奥宮=鳥取県西伯郡大山町大山

    現在の奥宮は、山腹に大山山頂の遥拝所として設けられたものと伝えられる。
    その後、奥宮は冬季に祭祀が行えないため、山麓に冬宮(現在の本社)が設けられ、夏季には奥宮、冬季には本社で祭祀を行うようになった。
    本社は当初は大山山麓にあったが、数度の遷座の後に明治初年に現在地に遷座した。

    社格
    式内社(小) 伯耆国二の宮 国幣小社 別表神社
    神階=貞観九年正五位下

    祭神
    本社(里宮):岸本町丸山→米子市福万→米子市尾高へと遷宮
      主祭神=大穴牟遅神(=大国主神)
      配祀=大山津見神,須佐之男神外二柱神,少名毘古那神

    奥宮
      主祭神=大己貴命(=大国主神)
      配祀=速須佐之男命、多紀理毘売神、宗像三女神 他

    歴史
    大山は、出雲風土記に伯耆の国の「大神岳」として記載されている。
    そして、この「大神岳」は、別に「大神山」ともいわれ、この「大神山」の神が省略されて、平安時代には、「大山」になったといわれている。
    中古には山麓と山腹に社殿を造営し、それぞれ冬宮と夏宮にと称した。
    冬宮はのちに二宮大明神と称し、延宝年間には現在の米子市尾高に社殿を移したが、夏宮は社僧によって本地仏が置
    かれて大山権現となり、明治の神仏分離令により今の大神山神社奥宮となった。
    現社殿は寛政8年に焼失し、文化2年(1805)に再建されたもの。

    補足
    本宮は佐陀川上流に位置する
  • 「虹が滝」と呼ばれる美しい滝

    『出雲国風土記』では、母神のアメノミカジヒメは出雲の神奈備山の一つである大船山の麓でタキツヒコを産んだとされますが、この「虹が滝」はタキツヒコが産湯に浸かった場所だと伝えられています。

    タキツヒコは出雲の王であるオオクニヌシと宗像三女神の一柱であるタギリヒメの孫神に当たります。

    出雲大社では、主祭神オオクニヌシをお祀りしています本殿のすぐ西隣の「筑紫社」にタギリヒメをお祀りしています。このことから出雲大社においてもタギリヒメの存在を特に重要視しているのがわかります。

    そして「タキツヒコ」という名前を聴くと、宗像三女神の一柱であるタキツヒメ(多岐都比売命)を思い浮かべます。


    タキツヒメはタキツヒコにとっては祖母の妹に当たります。そしてタキツヒコは『出雲国風土記』では「多伎都比古」と書き、タキツヒメは『古事記』では「多岐都比売」と書かれています。

    タキツヒコ・・・多伎都比古
    タキツヒメ・・・多岐都比売

    タキツヒコ(多伎都比古)という名前はまさにタキツヒメ(多岐都比売)の名前に影響を受けたものと思われます。

    古代においてオオクニヌシとタギリヒメとの婚姻関係を結んだ出雲と筑紫の宗像とは相当関係が深かったようです。これはオオクニヌシの妃である宗像三女神のタギリヒメが出雲大社の本殿のすぐ横に堂々と祀られていることからもわかります。
  • December 2016 編集されました
    『出雲国風土記』
    出雲郡の伊農郷に坐す赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の妃・天甕津日女命。 国内をご巡行になった時に、伊農郷にお着きになっておっしゃったことには、「ああわが夫よ、伊農よ」とおっしゃった」とある。

    また『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。

    『尾張国風土記』逸文
    垂仁天皇の御子・品津別皇子が七歳になっても言葉を話さず、 皇后の夢に、多具の国の神、阿麻乃弥加都比女が出現し、私を祀れば皇子は話すだろうと告げる。

    天甕津日女命 を祀る神社

    伊努神社 島根県出雲市西林木町376
    多久神社 島根県出雲市多久町274
    久多美神社 島根県松江市東忌部町3000-17-2
    忌部神社 島根県松江市東忌部町957
    花長上神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼1211-1

    出典 http://www.genbu.net/saijin/amenomikatu.htm
  • 京都の櫟谷宗像神社
    祭神は、奥津島姫命と市杵島姫命。つまり宗像三女神のうちの多紀理毘売命と狭依毘売でもある市寸島比売命の二柱が祀られている。そしてこの神社には、とある伝承がある。

    「ここ地元では、櫟谷・宗像両神社と渡月橋をはさんだ対岸の大井神社を合はせて宗像三神すべて揃ふと伝へられ…」

    という由緒である。

    現在の大井神社の祭神は、宇賀霊神になっているが、本来の祭神は「大綾津日神、大直日神、神直日神」
    大直日神は、八十禍津日神の分割された神であろう。
    「大綾津日神」は馴染みの薄い神だが、近江国蒲生郡の八千鉾神社の祭神は大屋彦神(大綾津日神)八千鉾神」となっている。また大和国宇智郡山陰の大屋比古神社の祭神は「大屋比古神(大綾津日神)」だ

    大綾津日神は大禍津日神や枉津日神とも記され、筑前国遠賀郡では疫神社の祭神に禍津日神がある。またこの神はしばしば「大直日神」「神直日神」と供に祀られる。つまりだ、この大綾津日神も八十禍津日神の分身であり、その本体は瀬織津比咩であるという事だろう
  • 京都府向日市五塚原古墳

    説明会資料。
    五塚原古墳は後円部3段、前方部2段で、これは標準的らしいです。
    今回の調査は、第7次調査で後円部の東斜面と北東斜面が現場です。

    平面形は奈良県桜井市の纏向東田大塚古墳に似ているそうです。
    桜井茶臼山古墳では後円部の段と前方部の段が同じ高さです。
    これが一般的だそうです。
    箸中山古墳では後円部の段と前方部の段の高さが違います。
    五塚原古墳でも後円部の段と前方部の段の高さが違います。

    後円部と前方部の段の高さが不整合なのは、いまのところ箸中山古墳と五塚原古墳だけの特徴らしいです。

  • 05/18編集されました
    阿太加夜奴志多岐喜比賣命は、実は宗像三女神の次女、「多伎津姫」(タキツヒメ)のことであると富氏は記します。

    ーーー
    宗像氏の始祖「吾田片隅」王(アタカタスミ)は6代出雲大名持「臣津野」(オミツヌ)の子でした。
    その吾田片隅の娘、三姉妹が宗像の三女神です。

    三女神の長女「田心姫」は7代大名持「天之冬衣」王に嫁ぎ、8代少名彦「八重波津身」いわゆる事代主を儲けました。

    次女「多伎津姫」は8代大名持「八千戈」王に嫁ぎ、「味鍬高彦」(アジスキタカヒコ)を儲けました。
    こうして出雲王家は血の結束を高めていきます。

    ーーー
    『雲陽誌』(1717年)は出雲江の項にみられるの説明の中で、「大穴持命の御子阿陀加夜怒志多伎吉比売命は神門郡多岐に坐となり、今此里に阿太加夜社勧請なるへし」と現在の出雲市多伎町の鎮座する多伎神社から勧請したというような説明をしています。
    b070682-2017-11-13-23-00.jpg
    西出雲に位置する「多伎神社」は西出雲王家「神門臣家」の領地であった神門郡にあり、その主祭神は「阿陀加夜努志多伎吉毘賣命」となっています。
    神門臣家出身の八千戈王、いわゆる大国主に嫁いだ多伎津姫は、大国主が枯死したのを知ると、意宇群のアダカヤに住む姉の田心姫を頼って、移り住んだということです。
    https://omouhana.com/2017/12/07/多伎神社:八雲ニ散ル花%E3%80%80番外/

    ーーー

    当地は松江市に合併する前は、「八束郡東出雲町出雲郷」と呼ばれていました。
    松江市でありながら「東出雲」の地名がついているのは、ここが東出雲王国の中心地だったからだと思われます。
    そして「出雲郷」、これは「あだかえ」と呼びます。
    なぜそのような不思議な呼び方をするのかと言えば、それは当社がここに鎮座していることが理由のようです。
    b070660-2017-11-13-23-00.jpg
    阿太加夜神社のすぐ側には意宇川(おうがわ)が流れています。
    意宇川とは「王川」のことで、上流には東出雲王家の王宮だった神魂神社が鎮座しています。

    ーーー
    出雲市多伎町、そこにあると云う「多伎都姫」(タギツヒメ)の古宮を訪ねてみました。

    海抜45mと表示された境内に鎮座するのは「多伎神社」(たきじんじゃ)です。
    御祭神は「阿陀加夜努志多伎吉比賣命」(アダカヤヌシタキキヒメノミコト)であり、配祀神として「大己貴命」を祀っています。

    阿陀加夜努志多伎吉比賣命は記紀に名が見えない神であることから様々な疑問をもたれていたようですが、多伎吉比賣の類音から多伎都毘賣命を祀るようになったものであろうと推察されているようです。

    また意宇郡の「阿太加夜神社」と祭神が同名であることから、神名は「出雲郷」(アダカヤ)の守護神であったのを、後にこの多伎に来て鎮まられた神の意であろうと考えられています。

    もとは、外半場元宮という地に鎮座していましたが、延享二年、現在地に遷座したとあります。
    富家の話によると多伎神社は、宗像から八千戈・大国主の元へ嫁いできた多伎都姫が住んだ屋敷だったと云います。
    ぽしかし大国主が不慮の死を遂げると、多伎都姫は姉の田心姫の住まう出雲郷(アダカヤ)の屋敷に移り住みました。
    そこが阿太加夜神社です。

    姉、田心姫も息子の八重波津身・事代主を亡くしていますので、姉妹はしばらくそこで暮らしたそうです。

    やがて田心姫は住まいを東に移し、米子市の「宗形神社」の場所で暮らしたと云います。

    過去に遷座したとありますので、ここが多伎都姫の屋敷跡だというわけではないと思います。

    境内の左奥に稲荷社がありました。

    大国主と多伎都姫の間には、3人の子宝に恵まれます。

    その子ら、「高照姫」は火明・徐福が妻にと求め、これに応じました。
    「美良姫」は葛城に移住したクシヒカタに嫁ぎます。
    そして「アジスキタカヒコ」は出雲に残り、神門臣家の当主として当家を守り続けました。
    彼は地位的にも9代少名彦となって、同大名持の富家「鳥鳴海」とともに、出雲王家を受け継いだのではないでしょうか。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。