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古事記に、イザナギが黄泉の国から還って来た場面に、 ここでイザナギは「私は、いやな見る目も厭わしい穢れた国に行…
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帝国陸軍の軍神とされた橘 周太中佐の出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」がある。
これによると銅像建立と橘神社「大正8年2月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。
なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。
徳島県東部,紀伊水道に面する湾。リアス海岸で,湾内には阿南市に属する小勝島,高島,野々島,弁天島などの小島が点在し,阿波松島と呼ばれる。弁天島には天然記念物の熱帯性植物群落がある。湾内にはキャンプ場も多く,室戸阿南海岸国定公園に属する。
谷川健一氏は在野の民族学者。谷川健一氏の著書『日本の神々』(岩波新書1999年)の中で、イザナミの黄泉の国から命からがら逃げてきたイザナギが禊をした場所の候補地として、阿南市の橘湾を上げている。
イザナミは禊をするために「粟門」と『速吸名門』を見たが、潮流が早いので、ここでは禊ができないと「橘の小門」へ向かう。
橘湾は蒲生田岬や舞子島に囲まれ、古代より「さきのみなと」と呼ばれる良港で、「延喜式」によると橘や柑子が貢進されたという。
橘湾に流れ込む福井川の河口には二畳敷もある大きなエイが卵を産みにくる。かつては鮫や海亀も入ってきていた。
『神代紀下(第十段・一書第四)』に塩筒老翁が「海神の乗る駿馬は八尋鰐なり。これその鰭背を竪てて、橘の小門にあり」とあり、大きなエイが現れる橘湾は海神の住まう海神宮への入り口でもある。
対馬には「二人が暮らした海宮(わたつみのみや)の神跡」とする神社伝承が十三社ほどある。これらの中で、当地こそ豊玉姫とヒコホホデミとが三年間暮らした海宮であるとするのが豊玉町仁位(にい)にある和多都美(わたつみ)神社で、ヒコホホデミと豊玉姫が祭られている。その北方約2㌔には二人が三年間暮らしている間に豊玉姫が懐妊し、生んだとされる皇子ウガヤを祭る和多都美御子神社があって、ウガヤが祭神として祭られている。両社の祭祀から、和多都美の神とはヒコホホデミと豊玉姫であって、その二人の御子がウガヤとして祭られているらしきことが推定される。
この地で実際にウガヤが誕生したというのであれば、もう少し具体的な誕生譚や、幼少時の伝承、あるいは後に妻となったとされる玉依姫との関係を示す伝承が近辺に少しはあってもよさそうなものが、それらについては皆無である。それは豊玉町から美津島町にかけて、豊玉姫とヒコホホデミの海宮の古跡であったと伝える十三箇所の神社の祭神面からもいえることで、ヒコホホデミは過半数の六社に、次いで玉依姫が五社、豊玉姫は四社に祭られているが、ウガヤを祭る神社はわずか一社に過ぎない
出典、http://kenkokusi.web.fc2.com/tamayori/1.4.html
豊玉姫については、姫島神社と志登神社が主祭神として豊玉姫を祀っていた。姫島神社は玄界灘にうかぶ糸島市志摩姫島にあり、姫の誕生の地との伝承が有る。もう一つの志登神社は糸島市志登にあり和多津見神らともに祀られている。
玉依姫(磐余彦の母親)については、奴国比定地に含まれる志賀海神社(福岡県福岡市東区志賀島)に祀られている。本殿の左殿に仲津綿津見神、中殿に底津綿津見神、右殿に表津綿津見神が祀られる。
鵜葺草葺不合は、叔母の玉依姫と結婚して五瀬や磐余彦等をなすことになっているが、不思議なことに事蹟を全く持たないのである。また、磐余彦(後の神武天皇)は山幸彦と同じ彦火火出見という諱(本名)をもつ
その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
女木島には玉依姫をh地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島と男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
男木島の豊玉姫神社の鳥居は西の方向に向いており、そこから沖合を眺めると、五色台沖にある大槌島と小槌島が鳥居の両側に立つ門柱のように見えます。この二島の辺りは、槌ノ戸(つちのと)といわれる海で、山幸彦が釣針を探しても見つからず思案に暮れていたときに塩椎神(しおつちのかみ)が現れたところといわれています。大槌島・小槌島の間には、龍宮城があると信じられ、その入り口は、亀水の淵(亀水町・下笠居)と考えられていました。
男木島の北に豊島(てしま)があります。この島には豊玉姫・玉依姫姉妹の父である大綿津見神すなわち豊玉彦を祀る「豊玉神社」があります。豊島の地名は、その由来は豊玉彦を祀る島という意味だといわれています。また、この島の西南には、鵜葺草葺不合命が生まれたという伝承の残る「神子ヶ浜(みこがはま)」という海岸があり、その海上にはかって石の鳥居が立っていたそうです。
また、男木島・女木島から南東の方向に海を渡り四国本土に向かうと、屋島の西側にある新川の河口に行き着き、そこを南に遡っていくと現在の三木町に辿り着きます。そこには「鰐河(わにかわ)神社」と「和爾賀波(わにかわ)神社」という二つの古い神社が鎮座しています。いずれも、豊玉姫を祭神としており、豊玉姫が鰐に乗って川を遡上して来たという縁起が残っています。これらの神社が鎮座する地は、現在ではかなり海から離れたところになっていますが、古代は海岸線がもっと南に後退していたと思われ、川を通じて海との往来も可能だったのではないかと考えられます。
そして次に、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おおしま)、姫島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごじま)、と6つの国土を生みます。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は香川県の小豆島、大島は山口県の周防と屋代島、姫島は大分県の国東半島の北東に浮かぶ姫島、知訶島は長崎県の五島列島、両児島は五島列島よりさらに西の沖にある男女群島の男島と女島を指すと考えられています。
二社とも現在の三木町にあり、「鰐河(わにかわ)神社」は下高岡、「和爾賀波(わにかわ)神社」は井戸にあります。いずれも讃岐延喜式二十四社のうちの一つといわれる古社で、豊玉姫を祭神とします。
「鰐河神社」は、縁起によると、その昔、豊玉姫が亀に乗って山田郡(現高松市屋島町潟元)へ来られ鵜葺草葺不合命をお産みになった。そこで、その地を「浦生(うろ)」と呼ぶようになった。次いで、鰐(わに)魚に乗って川を遡り四条まで来られたので、その地に祠を建てて祀り、その川と神社を、それぞれ鰐河、鰐河神社と呼ぶ。
「和爾賀波神社」は玉依姫も祀り、その縁起も、豊玉姫が鰐魚に乗って川を遡り、この地に来て鎮座したというものです。鰐に乗った豊玉姫を描いた絵馬があります。
小豆島(あずきじま)、別名を大野手比売(オホノデヒメ)、
大島別名を大多麻流別(オホタマルワケ)、
姫島(大姫島・姪姫島)、別名を天一根(アメヒトツネ)、
知訶島(直島諸島)、別名を天之忍男(アメノオシヲ)、
両小島(大槌島・小槌島)、別名を天両屋(アメフタヤ)の六島です。
この六島を地図上で辿るとおもしろいことに気づきます。これらの島々の中央には豊島があるのです。それを裏付けるように豊島には数々の遺跡と伝承があります。豊島は、上古から備讃瀬戸の海人族の信仰の地だったのです。
豊島は、豊玉姫命(姉)と玉依姫(妹)姉妹の父であるわたつみの命(海神・綿津見豊玉彦)を祀っていたためその名で呼ばれた。
豊島の家浦港より南西方向に約2,9㎞行くと、遠くに大小の島影が浮かぶのどかな瀬戸内海の風景を間近に見渡せる神子ヶ浜に着きます。
この神子ヶ浜の地名の由来は「古事記」「日本書紀」に登場する海神(ワタツミ)の娘である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)がこの地で鵜の羽を集めて造った産屋で鵜草萓不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を出産したと言う伝説から神の子の浜、神子ヶ浜と呼ばれるようになったと言われています。
彦火火出見命(山幸彦)が海神の綿津見豊玉彦の勧めで龍宮に赴いた際、豊玉姫命はその妃となり、山幸彦が帰国したのち、あとを追って来て、山幸彦の国で御子を産みたいと告げる。そして神子ヶ浜に産屋を建て、山幸彦に中を覗かないように禁じて産屋に籠った。しかし、産屋が出来上がらないうちに御子が産まれ、山幸彦は好奇心を抑えられず、覗き見してしまうと、出産中の豊玉姫命は八尋鰐と化していた。姫は正体を見られたのを恥じ、御子・鵜葺草葺不合命を置いて、父の海神のもとへ帰ってしまう。しかし、恋しい夫と御子のことが忘れられず、妹の玉依姫命に御子を養育させるべく、彦火火出見命のもとへ赴かせる。
豊島でご生誕の鵜葺草葺不合命が、神武天皇の父となられます。
大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであったが、添下郡のほうも無縁ではなく、長髄彦の勢力範囲であった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
亀水の隣には生島(いくしま)地区があり、『古語拾遺』には大八洲島の霊が宿るところとある。男木島にある豊玉姫神社は南に向いているし、上段中段の鳥居も南からの参拝者を、迎えている。ところが参道はそのまま南に下りず、西に向かうのである。そして、下段の鳥居から西の海上を眺めた時、なんとそこには大槌島・小槌島が海上の鳥居のごとく出現するのである。夕日が、西の海上に沈む時、正に豊玉姫神社の鳥居から眺めた夕日は大槌・小槌の鳥居の間に沈んでいくのである
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。
立花-橘、尾東-小戸、青柳-阿波岐と対応しており、青柳川から海に出るのに遠くない所。この説は卓見。
福岡県古賀市教育委員会は、2013年4月18日古賀市の谷山北地区遺跡で、6世紀末〜7世紀初頭に築造されたと考えられている船原(ふなばる)古墳(直径20メートルの円墳)に隣接した穴から、同じ時期の金銅製の馬具が一式そろって見つかったと報告しました。馬具埋納坑は7世紀初頭前後に築かれた船原古墳の5メートル隣に存在し、長さ5.2メートル、幅0.8メートル、深さ0.7メートルほどの長細い穴であり、その中に馬具がまとめて納められていた。
鉄製の壺鐙(つぼあぶみ)や輪鐙(わあぶみ)、金銅張りの鞍(くら)、ひもを連結する辻金具(つじかなぐ)や引手(ひって)、雲珠(うず)や杏葉(ぎょうよう)、鈴などの装飾品のほか、馬用の冑(かぶと)や甲(よろい)ではないかと見られる鉄製品も多数ある。鞍や鐙の数から2セット以上の可能性もあるということです。
藤の木古墳をはじめとしてほとんど例のない出土であり、国宝にならぶ優品だとか、葬送儀礼を解明する手がかりとなるなどの報道がされています
時は、6世紀末。朝鮮半島が大きく揺れ動いた時期でもあります。日本書紀には「任那日本府」が新羅によって滅ぼされたとの記述がありあす。任那日本府の存在は議論のあるところですが、そこで起こっていたのは新羅の伸張と、倭(ヤマト政権)の影響力の追い出しでした。私は、少なくとも新羅により朝鮮半島との外交権が奪われたのだと考えています。
推古天皇の時代となり、蘇我氏、聖徳太子との三頭政治が始まります。推古天皇8年(600)任那救援を掲げて、朝鮮半島に出兵します。征討大将軍は境部摩理勢(さかいべのまりせ)でした。蘇我一派のヤマト政権の重鎮です。6つの城を陥落させ、難波吉士神(なにわのきしみわ)が新羅におくられます。この後、任那と新羅は倭に朝貢をはじめたと記されています。しかし、現実は厳しく、倭が退いた後、新羅は再び任那に侵攻します。
船原古墳の西に、大型建物跡が確認された鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡があり、528年の磐井の乱により、筑紫君葛子(磐井の子供)が献上した糟屋屯倉があったのではないかと言われている
博多の住吉神社
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」の表現どおり筑紫を現福岡県とすると、博多の住吉神社から西に約10kmに日向峠があり北東に約10kmに古賀市青柳(阿波伎)があり、立花(橘)山、その北が尾東(小戸)山麓と地名が多く対応しているという意見もある。 創建は1800年前とされる。 また、宮崎市の住吉神社の場合は日向=宮崎とされ、半径10km程度の範囲内に橘、小戸、阿波伎原のいずれの地名もあり文献とよく一致している。ただし、地名が当時からのものかは不明である。創建は紀元前300年と言い伝えられ、丸に元の社紋をもつ。
伊邪那美神を祭神とする式内社は全国で一社阿波だけです。伊邪那岐神の場合には、淡路、摂津、近江など7社となります。
神社の格式も、淡路伊佐奈伎神社は貞観元年(859)無品勲八等から一品に昇格しています。それまでが無品だったのが面白いところです。近江の多賀大社は貞観元年(859)
に従五位下になっています。一方、阿波の伊射奈美神社は貞観十一年(869)に、正六位上を従五位下に昇格しています。
伊邪那美神が焼け死んだのは火の神の阿遇突智神を生んだからです。女神の嘔吐物になる神は金山毘古神・毘売神、次ぎに屎には波邇夜須毘古神・毘売神、次ぎに尿になる神は彌都波能売神、和久産日神。この神の子は豊宇気毘売神。
イザナミの墓とされる場所が、『古事記』では、出雲と伯伎の境の比婆山です。『日本書紀』では、『一書第五』では紀伊の熊野の有馬村としています。花の時は花をもってお祀りしと記されており、これは花窟神社で今日まで続いています。『日本書紀』では、一書第一から第十一までで第五を除いては場所を記述していません。
黄泉の国から帰って来たイザナギ命が禊ぎをするのは『古事記』では竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原です。
『日本書紀』では、一書第六では、築紫の日向の川の橘の檍原、
一書第十では、出かけて阿波の水門の速吸名門は流れが急なので、帰って橘の小門で祓いを行ったとしています。
『延喜式神名帳』では、賀志波比賣神社[カシハヒメ]
この女神の名は『記紀』には見えませんが、一説には天照大神の幼名だとか。
この神社の鎮座する津峯から眼下に橘湾は見えます。谷川健一著『古代海人の世界』によりますと、津峯の山の麓に青木と言う地名があるとのこと、イザナギ神が禊ぎをした阿波岐原と近い名前です。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギ神にイザナミ神は一日に1000人を殺す、そうするとイザナギ神は一日1500人を誕生させると応答しますが、津峯の神を連想するお話です。
国生み神話は阿波や淡路を中心に活躍していた海人が語り伝えたお話なのでしょう。阿波と言う言葉は”太陽”を意味するともされ、また阿波には式内社で、事代主神社が二社、伊射奈美神社、弥都波能賣神社、波尓移麻比メ神社、天石門別豊玉比賣神社、和多都美豊玉比賣神社、多祁御奈刀弥神社と言う国生みにからむ神々、海神、国譲りの神と神話を凝縮したような神社が見られます。
人は笹を束ねて浜へ下り、潮水に浸けて『お潮井』と称して祖神の神前にも供するなどした。『あらたま』である。
「古事記」は『玉器(たまもひ)』の『神がたり』で始めて、
人皇初代『神武天皇』の東征の段で『宇陀の水取』を載せ、「宮廷のまつり」で『その玉』は『美保伎玉(みほきたま)』と称されて『内裏』内の殿舎の四隅に飾られた。
そのような『水取・もいとり』は「地名」や「苗字」にも認められ、定説が「隼人の移配地」とする『京田辺市』や、『豊後高田市』の地名『水取』にも、やはり『玉』にかかわる『祭り』の痕跡を認め、
「記紀・仁徳天皇」の段の『枯野』も同じ「祭りの船」で、『美保神社の青柴垣(あをふしがき)神事』や『豊後高田市のホーランエンヤ』等の『船競争と水掛けまつり』は『たまもひ』を求めるまつりと、いう。
次には、3番目『福井県小浜市』の『水取』なる地を訪れることにする。ただし、
『三方五湖』のちょうど南のあたり『向笠』地域の『向笠沿革史』に、
『神武天皇が大和国平定後、全国に役人を遣わし、地方に住む者を治めさせたが、そのとき向笠へ日向国吾田邑の人が来て向笠を開いたとされている。(『向笠沿革史』)
『日向国吾田邑の人』は、和名抄「阿多郡」の『阿多隼人』か?
『若狭に来た』と『土地の文書』にあるというのである。
また、『福井県史 通史編』のホームページによると、
≪『本朝月令』所引の「高橋氏文」によれば、景行朝のこととして、東国巡幸の折、磐鹿六命が白蛤と堅魚とを取り、料理して献上した功により、膳臣の姓と大伴部を賜い、また若狭国を永く子孫の国家とせよと授けられたという。これらにより、膳氏が若狭の国造に任ぜられたことはほぼ信じてよいのではなかろうか≫とある。
和名抄「若狭国加佐郡」の『加佐』は『ウケ』で、『高橋郷や笠氏』だけでなく、『小橋や吉見』も知られる
『膳夫・膳部』の系譜について「古事記」は、「大国主の国譲り」の場面で、
『出雲国の多芸志の小浜に天の御舍(みあらか)を造りまして、水戸(みなと)の神の孫(ひこ)櫛八玉神(くしやたまのかみ)膳夫(かしはで)と為りて、天の御饗(みあへ)を献る時、
祷(ほ)ぎ白して、櫛八玉神 鵜に化(な)りて海の底に入り、底のはにを咋ひ出(い)でて、天の八十(やそ)びらかを作りて、海布(め)の柄(から)を鎌(か)りて燧臼(ひきりうす)を作り、海蓴(こも)の柄(から)を以ちて燧杵(ひきりぎね)に作りて火を鑚(き)り出でて云はく、』云々(記 124頁)と、『土鍋』と『火』を挙げながら、ここで「初見」となる『膳夫(かしはで)』を始めている。
東征して大和に入ろうとする「神武勢」が『吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚を取る人有り。爾に天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子と謂ふ」と答へ曰しき[此は阿陀の鵜養の祖]』(記 154頁)と、日本最古の書物は載せ
古事記が、『此は阿陀の鵜養の祖』と記す『阿陀』は地名で、現在の『奈良県五條市阿田』の地域とされ、『阿多津姫』が祭られる式内『阿陀比売神社』も鎮座して、和名抄「阿多郡」域の人々が移り住んだところとされ、両地域間では『共に隼人の末裔』として交流がなされている。
小戸と橘湾、徳島?
『天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二(ふた)渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ』
『阿多津姫』、『小橋君』の次に『高橋氏』
次を『久米氏』とする
雄略天皇「9年3月」条には、『是の夕に、大伴談連及び紀岡前(きのおかざきの)来目連、皆力(きは)めて闘(たたか)ひて死ぬ』(紀上 482頁)とある。
この14年後に
『是歳(ことし)、百済の調賦(みつきもの)、常の例より益(まさ)れり。筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣(うまかひのおみ)等、船師(ふないくさ)を率(ひき)ゐて高麗(こま)を撃つ』(紀上 498頁)とある。
『安致臣』は『阿智・阿知』とも表記され、関連する系譜記録は『坂上氏系図』になる。
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『倭漢直』一族の「阿多部」なる人物が、『内大臣になり斉明天皇(女帝)と結婚し、生まれた三人の男子の二番目に大蔵姓を賜った。
阿知使主→ 安致臣(雄略の頃)→都賀直→ 阿多部→ 倭漢直→ 大蔵姓市來氏
「若狭国」一宮『若狭彦神社』の、神紋が「宝珠に波」とある。
『豊玉姫命』を主祭神としている『若狭姫神社』が、境内社に『玉守神社』を持つ
「珍の子」が「海導者・珍彦・椎根津彦・棹根津彦・倭宿禰」であったのではないか。
「静岡県岡崎市」鎮座の式内社『日長神社』に、『社傳に據れば、繼體天皇の勅言によって日向国笠狹御崎の神を此の地に移して、皇室の遠祖の二柱を合せ祀った』(式内社調査報告第九巻 55頁)とある
阿南市は那賀川の河口デルタ地帯で、昔から湧水がたくさんある
その湧水の痕跡は、七見、西路見、横見などの見(み)の付く地名に残っている。つまりこの見は水を意味するのである。西路見という地名は、ここの湧水の水の出方で、これから西へ向かう道が水没しているか、通れるかが判断できる場所だったという。
現在は、区画整理がされて面影はないが、かつては砂丘に湧水がたくさん湧き出すようなところだったようだ。イザナギはここのコンコンと湧き出る美しい泉で禊を行ったのである。
ではなぜ、その場所が見能林ということができるのか?それは見能林の西にある津峰山の津峰神社のご神体が太陽神であり、つまりアマテラス大御神であり、それがもともと祭られていたところが見能林町柏野だったから、おそらくイザナギが禊をした場所はそこではないかと思うのである。
津峰神社はかなり古い神社で、724年(神亀元年)に神託によって国家鎮護と延命長寿のために造られたという。つまり、この年に見能林から津峰山の上に上げられたのである。そのご神体の名はカシハ姫といい、穀物の神であるオオゲツ姫の娘であるといわれている。
美濃=見能、?
建日方別命が祀られている神社を調べましたが、主祭神として祀られている神社は、岡山市の国津神社一社のみ、末社に祀られている神社もわずかで、有名な所では、吉備津神社の岩山宮に祀られているくらいです。
吉備地区には、桃太郎のモチーフとなっております、吉備津彦命と温羅(ウラ)の戦いの伝説があります。温羅はどうやら吉備の先住民で出雲の血をひく者のようです。また、児島の由加山にも鬼退治の伝説が残っておりまして、この頃に大和朝廷以前の吉備国、児島の歴史は封殺されてしまったようです。
建日方別が、出雲の神であるならば何か、建日方別と出雲の神を結びつける文献のようなものが無いかと考え、色々調べた結果、吉備津神社の資料の岩山宮(建日方別)に関する部分に、住吉太神之荒御魂神也とありました。住吉太神は表筒男神、中筒男神、底筒男神の三神を表しますが、資料にはその荒御魂とあります。
住吉太神の荒御魂とは、塩土老翁(しおつちのおぢ)と呼ばれる神様で、海の神様であり、名前の通り塩業の神様ともされております。児島はかつて塩業の盛んな土地でありましたので、土地神として相応しい神様です。
吉備臣建日子・御鉏友耳建日子(吉備の祖先)・稚武彦命(吉備の始祖)と「タケヒコ」という名前を持った人物が吉備には多い。これは「建日方別」から統治を任された人物という意味と思われる。
阿蘇の宮の神主友成
播磨国高砂・姥------高砂族寧波・男
摂津国住吉・尉------博多住之江・女
「山川万里を隔つ」
「上代~延喜の御代」
ワキ ふしぎや見れば老人の夫婦一所にありながら遠き住みの江高砂の 浦山国を隔てて住むといふはいかなることやらん
ツレ うたての仰せ候や 山川万里を隔つれども互いに通ふ心づかひの妹背の道は遠からず
シテ まづ案じても御覧ぜよ
シテ 高砂住の江の 松は非情の物だにも 相生の名はあるぞかし ましてや生 ある人として年久しくも住吉より 通い慣れたる尉と 姥は松諸共にこ の年まで 相生の夫婦となるものを
ワキ 謂れを聞けば面白や さてさてさきに聞こえつる 相生の松の物語を 所に言ひ置く謂れはなきか
シテ 「昔の人の 申ししは。これはめでたき世のためしなり。」
ツレ 高砂といふは上代の 万葉集の古への義
シテ 「住吉と申すは。今この御世に住み給ふ延喜の御事。」
ツレ 松とはつきぬ言の葉の
シテ 「栄えは古今 相同じと。」御代をあがむるたとへなり
今から1000年以上前、阿蘇神社の第26代宮司である阿蘇友成が、上京した際に見つけた縁起のいい松の実を持ち帰りました。
それを植えたとされている、松の木が阿蘇神社の境内にあります。
このお話は、能を大成したことで有名な、世阿弥の謡曲「高砂の松」にも謡われており、そのまま「高砂の松」と呼ばれ、人々からお詣りされるようになりました。
男性は左から二回、女性は右から二回まわってお祈りすると、縁結びのご利益があると伝えられているんです♡トライしてみてはいかがでしょうか?
○福岡には住吉神社が多数存在。姪浜住吉神社は、伊邪那岐の禊場所(筑紫の日向の橘の小戸の檍原)の「小戸」付近。「檍が原の波間より(謡曲白楽天)」の句に一致。「高砂」では住吉神を神松とし、「生の松」を名所と謡う。姪浜住吉神社は「生の松原」 に隣接。神功皇后の植えたという「逆松(生松)」も同松原に存在。博多区の住吉神社や福岡城にも 神松の伝承がある。謡曲「老松」も神松が主役。
博多湾岸には神松伝承が集中する。筑紫住吉の神は摂津住吉より遥かに古く、本来の住吉の神は筑紫の神だった。
「高砂やこの浦舟に帆をあげて・・・」と古くからめでたい謡曲「高砂」(世阿弥作)で知られる高砂市は、兵庫県南部播磨平野の東部に位置し、東に加古川が流れ、南に瀬戸内播磨灘を臨み、古くから白砂青松の風光明媚な泊として栄えてきました。市の西部の日笠山や中央部の竜山などの丘陵地には多くの遺跡が発見されており、原始・古代の人々の暮らしぶりをしのぶことができます。
また、日本三奇の一つである「石の宝殿」を含む国の史跡に指定された「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」や高砂神社・生石神社・鹿嶋神社・曽根天満宮・十輪寺などの社寺の多いまちです。
神社の司祭と造営を掌るだけの「神主」から、司祭と造営に加えて社領をも管理する「大宮司」へと転化した。それは、延喜年間(901~22)の友成のときであったといい、阿蘇友成は謡曲の「高砂」の主人公としても知られた人物である。
大宮司職の補任は、律令下にあっては神祇官を経て太政官符が発せられ、国司によって執行されるという国家的な権威を備えたものであった。すなわち、阿蘇氏は大宮司職に任ぜられることで、その地位は国家権力を背景とするものとなったのである。また阿蘇神社の社領を村上源氏を通じて皇室に寄進し、皇室領荘園と化した阿蘇荘の荘官職をつとめた。さらに、甲佐神社、健軍神社、郡浦神社などを末社に組み込むことで荘園の拡大を図り、阿蘇氏の勢力は肥後平野にまで及ぶようになった。併せて南郷十ヶ村を私領とし、それを基盤に大宮司を頂点とする武士団が形成されていったのである。
皇室領の阿蘇荘は領家としては村上源氏を仰いでいたため、平氏政権が成立すると、平家は阿蘇氏を警戒するようになった。このことが、源頼朝が旗揚げしたとき、阿蘇氏が菊池氏、緒方氏らとともに頼朝に味方する要因となった。
今を去る一〇六〇年前、阿蘇友成(当社第二十六代宮司)は、天皇より位階上昇(位があがること)の御沙汰(しらせ)をうけて、宮中参内の為京に上りました。
その道すがら播州の尾上で縁起よろしき松に詣でました。
このことは世阿弥元清の謡曲(高砂)の冒頭(はじめ)に ―――吾こそは九州肥後国阿蘇の宮の神主友成とは わがことなり―とでており又、尾上神社の社記には「人皇第六十代醍醐天皇の御字内子春肥後国の神主友成此の松に詣でけるにより瑞松のいわれ名高き事しめし給う云々」と録されてあります。
友成宮司は縁起よろしきこの松の実を持ち帰られまして当神社境内に植えられました。
爾来一千年あまり枯損(かれる)した時は植え替え植え継いで大切に育てて今日に至りました。
昔より縁結びの願い事には特に霊顕(効能)ありとされて御祈願いただいております。
お詣りの方法男性は「左より二回」女性は「右より二回」松の周辺を廻り祈念(おいのり)します。
肥後一の宮 阿蘇神社 (以上現地説明板より)