倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
image倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤

「隋書」にある倭王、「阿毎多利思比孤」とは一体だれだったんでしょうか? 「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎…

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コメント

  • 倭王は倭人
    「三国史記」が書かれた時期史書には、半島各国の王の出自については書かれているものもあるが、倭王の出自については全く出てこない。宋書の倭王武の上表文でも、「私は倭人」と言っている。「海北を渡って95国を平らげた」とも言っている
  • September 2016 編集されました
    新羅本紀第一巻に脱解王が四代目の王に即く話がでている。
    脱解は、倭国の東北千里にある多婆那国の生まれとある

    三国史記に
    列島から脱解という賢者が4代目の新羅の王になり、倭人を大臣に任命した、と書いている。大臣になったのは瓢箪を着けて海を渡ってきた瓠公である。この倭人コンビが新羅王朝の基礎を築いた。
    脱解の孫が金王朝の始まりと、三国史記に書いてある。
  • September 2016 編集されました
    「年輪年代法」に依る芯柱の伐採年確定と言う革命的事実を受けて、川端仮説に先行し、10年前に米田良三氏の「法隆寺太宰府観世音寺移築説」が発表された。


    川端氏は法隆寺建立に使われた「ものさし」で新説を展開する。法隆寺は中国南朝尺で寸法が合う。日出処天子の太宰府は、もと南朝の都督府で倭国の首府、その遺構も南朝尺だ。遣隋史のころ筑紫で落成し、大和へ移築された法隆寺は、隠された王朝交代を測る「ものさし」でもあるという説の展開。観世音寺説を否定すれば当然それに変わる存在を提示しなければならない。残念ながらこの論証中に具体的提示は為されていない。しかしこの建物が海東の天子を名乗った多利思北孤によって営まれたものである以上、隋書に書かれた倭王の都「ヤミタイ」に接しX寺が存在したに違いないと推論している。仮定の論証の弱点を補う意味で日本書紀の記事を援用している。即ち崇峻紀及び推古紀の法興寺関連記事である。 これは在来元興寺(飛鳥寺)の記事とされていたものであるが、川端氏はこれこそ九州王朝関連記事の取り込みであり、日本書紀の常套手段であるが、これにより辛くもその存在が資料的に実証出来たと述べている
  • 九州年号の倭京2年は619年に当たり、先の三条件の内の創建年代は該当する。

    古田史学会の古賀達也氏は更に新しい仮説を唱えている。すなわち大和朝廷によって存在そのものが隠された九州王朝の寺院の名称が伝わっていなくとも、不思議とするに当たらない。法隆寺五重塔心柱の伐採年が五九四年であったことから、創建年代が六世紀初頭であること。次いで、西に金堂(東向き)と東に塔を持つ観世音寺型伽藍配置であること。そして、上宮法皇を模した釈迦三尊像が安置されるほどの寺格であることから、九州王朝の中枢領域内に存在した寺院であることである。この条件に一致するものは文献史料上では、一つだけ存在する。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号とその細注は九州王朝の事績を記した貴重な史料であるが、その中に見える「倭京 二年難波天王寺聖徳造」 という寺院創建記事は、倭京二年に創建された難波天王寺ではないかと推論する
  • 801年成立の『通典』に以下のようにあります。
    隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。(通典 第一百八十五 邊防第一 倭)
    阿輩雞彌は、「オホキミ」でありましょう。華言天兒也、すなわち、中国語では天子様のことを日本語では阿輩雞彌と号するのだ、と書いてあります。
    『隋書』においては、「倭王、小徳阿輩台(あはいだい)を遣わし」とありますが、阿輩台は、日本語の「オホトモ」のモが脱落していることでしょう。、大礼・哥多[田比]はヌカタベのこととされていますが、日本人の名前が長く聞こえるので、はしょっていると考えられます。はしょっているのは、鼻音系が優先されるようですが、理由はわかりません。
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