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難波津 (なにわつ、旧:なにはつ) 古代大阪湾に存在した港湾施設の名称である。現在の大阪市中央区付近に位置して…
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住吉津の港を開いたのは、いわゆる倭の五王にも比定される(異説あり)仁徳天皇ということで、早い段階から開かれた港町であり、後の遣唐使などが難波から出航する前には、住吉大社にお参りをし、住吉津から出航。
仁徳天皇については宮を難波高津宮に定め、茨田堤・和邇池・依網池などを築き墨江津を定め難波の堀江を開くなどの事績から、およそ5世紀前半には開かれており、瀬戸内海を通り九州に至る
住吉大社から東に磯歯津路(シハツミチ)が出来ており、途中の須牟地社(住道社)で祓いを行ってこの国の人間と見なしたようです。『忌部記文』に「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない。」とあります。一杯飲め、そうしたら仲間と認めようと云うことのようです。一杯飲んだのは杭全神社の摂社になっている赤留比売命神社だったとか。昔は住吉大社の子神(摂社)でした。
『仁徳紀十年』に、「大道を京の中に作る。南の門より丹比邑に至る。」とあります。四天王寺の南東に大道と云う地名が残っています。どうやら大道は上町筋の東側にあった道のようです。
大道から飛鳥へは大津道(応神陵の北側を通る現在の長尾街道)か丹比道(仁徳陵の北側を通る)で東に行き、穴虫峠か竹内峠を越えて、大和の横大路に合流し、下ッ道、中ッ道を経て飛鳥京に入ったようです
孝徳天皇は宮の建造に倭漢の一族を遣っています。倭漢は渡来人だったと云うこともあったのでしょうが、宮の建造に生国魂神社の木を伐採しています。神道を軽んじたと云うことよりも、孝徳天皇は軽皇子とよばれたごとく、半島の金属採取集団の長のような人だったのかとも思われます。乙巳の変の時、目撃した古人大兄皇子が「韓人が鞍作(入鹿のこと)を殺した。」と云っています。
●官用の鉄一万斤を周防総令のもとに送った。
●官用のふとぎぬ百匹、糸百匹、庸布四百常、鉄一万斤、箭竹二千本を筑紫に発想した。
これは戦の準備ではなかろうか。筑紫に遣わした防人(さきもり)が難破漂流した記事もあり、相手は新羅なのか、海賊なのか、はたまた隼人なのか。
『紀』によれば、「12月14日に難波の大蔵省から失火、宮室がことごとく焼けた。ただ兵器職だけは焼けなかった。」とあります。それでも天皇は飛鳥で連日の宴を催しています。翌年、天皇は病に倒れます。
仁徳紀 住吉郡に依網屯倉
安閑紀 三嶋郡に竹村屯倉
依網屯倉は今の大依羅神社付近としますと、住吉津とは3km程度の距離。
ついでに難波の津の他のもの。
応神紀 桑津 四天王寺の南東2km。
仁徳紀 猪甘津 鶴橋の東
難波京を起点に、住吉区を通過し、丹治比に至るのが、日本国史上最初の国道と言われる難波大道で(個人的には上つ道の方が古いと考えています)、そして「地形からみた歴史」(講談社学術文庫、日下雅義氏著)よれば、難波宮のすぐ北に難波堀江(難波津)があり、帝塚山の少し西の住吉神社の付近に、古代には住吉津や朴津水門がありました。
すなわち、港と道路を扼していたのは物部氏と大伴氏だった訳で、両氏から大連が出たのも不思議ではありません。
この場所には江戸時代以降、旧平野川のこの橋に鶴が良く飛んできていたので鶴橋(つるのはし)と命名されてきた橋が架けられていた。だが、昭和15年(1940年)に河川改修工事のため川は埋め立てられ、つるの橋はなくなったが、1952年(昭和27年)に橋が存在した場所(桃谷三丁目)に記念碑が建てられた。
しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めし ゐかひ津の橋
(忍んではいても、人がそれだと見ているなかを、はじめて猪甘津の橋を渡った)
— 小野小町、(武部健一『道路の日本史』より引用)
平安時代前期の歌人、小野小町がこの橋を詠んだといわれる歌があり、江戸時代の寛政年間(1789 - 1801年)に出版された『摂津名所図会』に載っている。だが、『小町歌集』に
は記載がないため幻の歌だといわれている
秦人を役ちて茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅を作り、また丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(おばしのえ)を掘り、また墨江の津を定めたまひき。
仁徳天皇十四年 猪飼津に橋を渡した。小橋と言った。
仁徳天皇三〇年 天皇は皇后の居ないことを知って、八田皇女を召して大宮に入れた。皇后は難波の渡りに着いてこれを聞き、取ってきた三つ柏を海に投げ入れた。葉の濟(’かしわのわたり)と言った。
仁徳天皇六二年 遠江国の大井川に流れ着いた木で船を造った。南海を巡って難波津に持ってきて御船とした。
履中天皇即位前紀 仲皇子が太子(履中天皇)の宮を焼いた。逃げ出していた太子は河内國に到り、埴生坂で目覚めた。難波の方が燃えているので驚いた。・・・ 太子は瑞歯別皇子に難波に帰って仲皇子を殺せと命じた。
允恭天皇四二年 允恭天皇がなくなったので、新羅の王が多くの調の船に多数の楽人を乗せて奉った。船は難波津に泊まってみな麻の白服を着た。難波から京に至るまで、泣いたり舞ったりした。
清寧天皇即位前紀 大伴大連に助命を受けた漢彦は難波の来目邑の大井戸の田を大連に贈った。
仁賢天皇六年 女が難波の御津にいて泣き声をあげていた。
『日本書記』星川王の乱条に、星川関係者の河内三野縣主小根は星川反乱の罪を逃れるため、大伴室屋大連に「難波来目邑大井戸田10町」を、草香部吉士漢彦に田地を贈ったとある
また雄略朝に百済から貢上した今来才伎(いまきのてひと;新来の手工業技術者)の陶部(すえつくり)・鞍部(くらつくり)・画部(えかき)・錦部(にしごり)・訳語(おさ)などの管理を命ぜられた。仁徳・雄略天皇時代に重用され、東漢氏発展の基礎を築いたという。
乱後、王位を継いだ清寧天皇は、上道臣支配下の山部を取り上げた。清寧天皇は、雄略天皇が葛城円大臣を滅ぼした時に、贖罪を請い献上した葛城韓媛(かつらぎのからひめ)との間の皇子である。再び葛城氏系の皇太子が大王となった。
そして、奈良盆地の西南部の臣の勢力の平群氏が、この5世紀中ごろの擾乱期に乗じ台頭する。大和国平群郡の平群谷を本拠とし平群真鳥(まとり)が、葛城氏没落後の雄略朝に大臣となり、それを契機に興隆した。しかも、平群臣一族は、武烈天皇の時代には、国政を専断し、大王になろうとするまで強盛となった。
そもそも、江戸時代までは河内(かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市あたりに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋あたりであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
上町台地上には「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」、「北山」、「桃山」、「夕陽丘」、「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」、「丸山」、住吉区の「帝塚山」、「清水丘」と続く。
途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされている。江戸時代の大和川付け替えが典型的な例であるが、それ以前にも上町台地を開削して河内の水を大阪湾に流そうという試みはあった。難波の堀江のほかにも、延暦7年(788年)に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。
杭全神社の東側一帯は環濠跡が今もある。杭全神社は坂上氏の祖「阿知使主」(漢人系の渡来氏族)を祭った社で、百済系の神社といわれている。平野郷民の産土神といわれている。しかしこの神社は明らかに新羅系の神々を祭っている。
井上秀雄『古代朝鮮』でも説明されているが、弓月の君の伝承や阿知使主の伝承に代表される氏族の始祖伝承は『百済記』にひかれて百済からの渡来となっているが、いずれもその氏族名からみて、加羅(新羅)からの渡来と見られるといわれている。当社は素戔嗚尊や天日槍の妃を祀っていることも、新羅系の社とみる理由である。
神社の社殿は公園の一角にある。大通りに面して、石の大きな明神鳥居があり、その下から長いコンクリートの参道を進むと神社の杜である。鳥居の前の地名は「宮前」という。杜の入り口に、大きな「杭全神社」と書かれた石柱が建っている。ここからの参道がまた、長い。200mくらいある。
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平野区の新羅の神
杭全神社の拝殿 平野区は東住吉区の東隣である。『和名類従抄』(九三一─九三八)によれば旧住吉郡の杭全(くまた)郷である。なお住吉郡の隣に百済郷があった。この辺りは渡来系の氏族、特に百済系の氏族が多く住んで居た。今でも関西本線には「百済駅」(貨物駅)、旧百済川(現在の平野川)には「百済橋」があり「百済小学校」もある。平野郷は平野川の台地の上にあり、百済野と云われてきた。南北時代から戦国時代にかけての平野郷は堺と同様の自治都市であり街の周囲に二重の濠と土塁を築き十三の惣門を構えたといわれ、平野本郷の北部に杭全神社、南部に赤留比売神社を祭った。平野の地名の由来は、九世紀、坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷征伐の功により、その子広野麿が杭全荘を荘園として賜った。広野麿の広野が平野に転化したといわれている
当社の由緒については『摂津名所図会』などには、小橋村の生土神で今の地は当村の生土牛頭天皇の社にして、天正の兵乱の時天地を失い此天王の社の相殿に移し祭る。下照比売命亦の名、高姫命、亦の名、稚国玉比売命あるいは天探女とも号す。神代に天磐船にのり給い、この地に天降り給うによりこの地を高津と号したという説明がある。従って、この社殿は元の牛頭天王の社殿であり当地は高津といったようである。別名、高津天神といい、近くの山を磐船山といったようである。村の生土神といい、天磐船に乗り、天降りしたというのは、渡来して来たということであろう。渡来は相当古く、素戔嗚尊との直接の関係は不明であるが、下照姫と同神というのは『記紀』の神話の中に、天若日子(天稚彦)が出雲に至り、下照比売を娶りとあり、『大阪府全志』には、天稚彦が下照比売命を娶り、天探女を具して舟に乗り、高津の地に来り住まわせたまう、とあるので出雲の姫神を下照といったのかも知れない。『大阪府全志』には、祭神・比売許曽神とある。元々は比売許曽神であり、下照姫は後世の付加であろう。比売許曽神と赤留比売神は同じ神である。
延喜式には下照比売社は即ち比売許曽神社なりと記してあり、且阿加流比売命を祭れる神社を、住吉郡に赤留比売神社と明記してある。延喜式の赤留比売神社を比売許曽の社名に改めるべきものを改めないで置いたため、混同することとなったようである(『大阪府全誌』ほか)