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瀬戸内の備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。 特に伯耆の樂樂福神…
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別名
建諸隅命:たけもろすみのみこと
……
邇芸速日命七世の裔孫で、建田背命の子。
孝霊天皇の時、大臣となって輔弼の任務に尽くした。
諸見己姫を娶って倭得玉彦を生んだ。
武諸隅命 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)
矢田神社 京都府京丹後市久美浜町海士
矢田八幡神社 京都府京丹後市久美浜町佐野
彌彦神社 境内 乙子神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
伊富岐神社 境内社 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1
八世孫に日本得魂(やまとえたま)命という人物が登場する。『先代旧事本紀』尾張氏系譜では倭得魂彦(やまとえたまひこ)命と表記する。
日本得魂命は建諸隅命すなわち由碁理の子供である。
妹は大倭姫命亦の名を天豊姫命とする。
日本得魂命や竹野姫命の母親は葛城氏の諸見己姫(もろみこひめ)である。
古事記は竹野姫を丹波の大縣主由碁理の娘とする。
竹野姫命の母親は葛城氏で、出身地は大和葛城である。父親由碁理は丹波の大縣主であるが尾張氏の当主でもある。
丹波に常駐したわけではなさそうである。
日本得魂命もまた尾張氏の当主であり丹波の支配者である。『勘注系図』によると彦坐王(ひこいますのきみ)に従って、丹波周辺で陸耳御笠(くがみみのみかさ)と戦っている。
丹波にも居たことは推測されるが丹波に常駐したかは不明である。
『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、日本得魂命の妻は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)と、伊賀臣(いがのおみ)の先祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻とする。
倭得玉命の妻の一人谷上刀婢は淡海の出である。淡海とは滋賀県琵琶湖の事?詳しい場所は不明だが海部氏と淡海とは深いつながりが有る。
滋賀県野洲市の三上氏が祀る御上神社の祭神は天御影である。『勘注系図』によれば、三世孫倭宿禰の亦の名が天御陰命である。
また二人目の妻と関係するのは三重県伊賀市西高倉の高倉神社である。高倉神社御由緒によると、祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)である。高倉下命は神武天皇東征の功神で、その七代の孫、倭得玉彦命が祖神である高倉下命を祀ったとされる。
淡路島かもしれない。
『勘注系図』八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。
「崇神の時代当国の青葉山中に土蜘(つちぐも)あり。陸耳御笠(くがみみのみかさ)の者、その状(さま)人民(おおみたから)を賊(ぬすむ)。ゆえに日子坐王(ひこいますのきみ)勅(ちょく)をたてまつりこれを伐(う)つ。時にこの命等仕えたてまつる。余社之大山(よさのおおやま)に到り遂にこれを誅(ちゅう)す。」
日子坐王が陸耳御笠を討った伝承は『古事記』にも記される。崇神の時代の事として『日子坐王者を旦波国に遣わし玖賀耳之御笠を殺すを命ず。』とする。
日子坐命という王権の皇子が、直接戦闘を指揮している。大和王権は若狭から東の勢力と対峙していた。
別名 日子刺方別命:ひこさしかたわけのみこと
……
第七代天皇・孝霊天皇の子。母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄弟姉妹は夜麻登登母々曾毘売命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)、倭飛羽矢若屋比売。
荊波神社由緒
○鎮座地 西砺波郡福光町岩木中宮谷嶋五、〇二四番地
○御祭神 日子刺肩別命(主祭神)
底津海積命、中津海積命、表津海積命、應神天皇、建御名方命
○由緒
「延喜式神名帳」(九二八年)に越中国砺波郡七座の内に『荊波神社』とあり、うばら ともやぶなみとも併記してあるが今日殆ど「荊波うばら神社」と呼ばれている。荊波神社の 主祭神、日子刺肩別命は古事記に「高志(現在の北陸地方)之利波臣之祖也」と記されている。
当社の御創建は甚だ古く不詳であるが、古記録から元正天皇の養老年間(七二〇年頃) かそれ以前の時代に御創建されたものと推察され、これには日子刺肩別命を御祖先神 と祀る利波臣志留志(墳墓は奥宮後背地)が大いに関ったと思われる。
その後山岳信仰の広がりと共に大社として多くの修験道の山伏を擁し 石黒郷二十七ヶ村の惣社として崇敬を集め、荊波神社冨士権現とも称し近隣各村にも 冨士社が勧請されたと云ふ。このように神佛混淆の僧(山伏)により守り伝へられ やがて明治維新を迎え古の随神の道に復し『荊波神社』に戻り今日に至るものであるが、 往時は「花祭り」秋は「盤持祭り」等氏子村民挙りて祝ふところと今に伝はるものである。 猶、当岩木村畑宮中鳥居野は中鳥居の在った所と云はれこの地から「荊波領」と 刻まれた礎石も発掘され、また小矢部川を隔てた桐木村田畠字荊波島は大鳥居の跡とも 云はれ、これらは本殿(奥宮)拝幣殿より一線に結ばれるものである。
底津海積命、中津海積命、表津海積命は古耒河川を鎮める神々として祀られ、 應神天皇は当村八幡社の御祭神で、建御名方命は同社境内社諏訪神社の御祭神 二社共に由緒不詳且維持不備の為神威の汚れるを恐れ、明治末年二社を荊波神社に合祀せり。
荊波神社の所在地は古耒諸説があり今日尚不詳とされるが、神社及び周囲の環境、 神域の形態等々から推し量っても中古の頃より幾度かの戦火或は河川の氾濫等を避けて 現在の場所に御鎮座になったものと思はれる。
-境内由緒書を一部修正しました-
南砺市指定文化財
史跡 記塚と出土品
昭和三四年一一月 五日 指定
平成一八年一一月二八日 名称変更
荊波神社の奥の院後方に、記塚と呼ばれる径約九m、高さ一・五mの塚がある。 明治期に周辺から陶器や刀子、銅板金などが出土し、それらの出土品は、現在、 神社で保管されている。
大正期には、奈良東大寺の盧舎那仏建立に尽力した豪族、利波臣志瑠志の 前方後円墳であるといわれ、昭和三四年に「志瑠志の古墳と発掘物」として 文化財指定された。しかし、平成五年の測量調査の結果から、古墳の可能性は 低いことがわかり、経塚として名称変更を行った。出土品は珠洲焼の壷と 片口鉢、刀子、平安時代後期の鏡、銅板製の経筒等で、珠洲焼などの年代から 一二世紀中ごろと推定され、県下でも古い経塚埋納品と考えられている。
-境内案内板-
オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) と内侍ハエ姫から生まれた三つ子の一人。
孝霊天皇の53年に西国政情不穏のため、イササワケに派遣され越の国を治める。
ヤマトタリヒコクニ┐
(孝安天皇)├────オオヤマトフトニ(孝霊天皇)
オシ姫──────┘ ┃
┃
シギ県主オオメ───────ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトクニクル
┃ (孝元天皇)
カスガ県主チチハヤ─────ヤマカ姫[スケ]
┃
トイチ県主マソヲ──────マシタ姫[ココタエ]
┃
大和国造 ───┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
│ (ヤマト大宮女) │
│ ┃ 三つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
│ ┃ │
│ ┃ └(3)ヤマトワカヤ姫
│ ┃
└───ハヘ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
(若大宮女) │
三つ子├(5)ヒコサシマ
│
└(6)弟ワカタケヒコ
考昭天皇
その第一子が天足彦国押人命と呼ばれる和邇氏の祖です。
第ニ子が、日本足彦国押人命で、孝安天皇として即位
天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として二人の皇子を儲けます。
第一皇子が、大吉備諸進命で、子孫の提原王が武内宿弥の養子になり、第12代景行天皇の勅命によって平群の姓を賜ったとされ、平群氏の祖とされます。
第二皇子が、大日本根子彦太瓊尊で、孝霊天皇として即位します。
孝霊天皇が、倭国香媛を妃にして生れたのが、大物主命の妃となった倭迹迹日百襲媛命です。
そして、孝霊天皇が、絙某弟(はえいろど)を妃にして生れたのが稚武彦命である。
稚武彦命には、諸説ある。
細姫は孝霊天皇即位2年に皇后に決定され、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)を産んだとされる。しかし、古代史の復元では孝元天皇は雀部臣の系統としているので、孝元天皇の母ではないことになる。
伯耆国に伝わる伝承では細姫は孝霊天皇と共に鳥取県の菅福の地にやってきて福姫を産んだ、福姫が15歳になった時目のけがで亡くなり、孝霊71年に宮内の地で110歳で亡くなり、崩御山に葬られたと伝えられている。
福姫誕生を亡くなった年齢から逆算すると孝霊56年となる。細姫は磯城県主大目の女とされているので大和の人間である。孝霊天皇が大和にいる時に孝霊天皇と結婚して、共に伯耆国を訪問したと解釈される。
孝霊天皇は孝霊45年に伯耆国を訪問し、この時は伯耆国の朝妻姫を妻としているので、細姫と結婚したのはこの後と解釈してよいであろう。
妃:春日之千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ、春日千乳早山香媛)
皇女:千千速比売命(ちちはやひめのみこと。『古事記』のみ)
┌─大目─────細姫命─┐
事代主命──鴨主命──豊秋狭太彦──五十坂彦┤ │
└─五十坂媛┐ ├───福姫
├──孝霊天皇┘
神武天皇─綏靖天皇───孝昭天皇──孝安天皇┘l
日本書紀には
磯城県主ー川派比売(綏靖天皇の妃)ー安寧天皇
事代主 ー五十鈴依媛ー 安寧天皇
古事記には
師木県主波延 ー河俣毘売(波延の妹、綏靖天皇の妃)ー安寧天皇
旧事本紀 地祇本紀
都味歯八重事代主神の女(天日方奇日方命の妹) 五十鈴依姫命 子は磯城津彦玉手看天皇(安寧)
三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』
天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。
『古事記』では河俣毘売といい、師木県主の祖先である家系の出身。師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹。生没年不詳。
『日本書紀』第1の一書では川派媛といい、磯城県主の娘。
なお、『日本書紀』本文と第2の一書ではカワマタビメは登場せず、本文では五十鈴依媛命、第2の一では春日県主大日諸の娘である糸織媛が綏靖天皇の皇后とされる。
1.弟磯城黒速 、父:大物主、母:不詳
神武の大和侵攻に功績あったとして、「磯城県主」を与えられた。
子供:磯城県主葉江?川派媛?猪手?
(紀)2綏靖天皇后一書第1:川派媛。磯城県主の娘。2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
本文の2綏靖天皇后・3安寧天皇の母は、事代主神の娘五十鈴依媛となっている。
(記)河俣毘売:師木県主の祖、2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
(紀)綏靖天皇后一書第1:川派媛。磯城県主の娘。2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
本文の2綏靖天皇后・3安寧天皇の母は、事代主神の娘五十鈴依媛となっている
(記)河俣毘売:師木県主の祖、2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
2.磯城県主葉江、父:弟磯城黒速? 母:不明
記紀記事:弟磯城黒速と親子関係であったかどうかは記紀には明記されていない。
磯城県主祖と記されているのみである。事績的な記事なし。娘の婚姻関係の記事のみ。
3.太真稚彦
父:磯城県主葉江? 母:不明
子供:飯日媛
(紀)4懿徳天皇后一書第2に磯城県主太真稚彦の娘飯日媛の記事あり。
記紀には父母の記事なし。葉江の後の磯城県主と推定。
4.磯城県主大目
父:(磯城県主?)不明 母:不明
子供:細媛
(紀)7孝霊天皇后の本文に磯城県主大目の娘細媛とある。
(記)7孝霊天皇后の記事に十市県主大目の娘細比売とある。
記紀で磯城県主・十市県主と表記が混乱している。この辺りで磯城氏から十市氏が派生siたものとも思える。「和州五郡神社記」の十市氏系図には大目は記載されていない。
『日本書紀』では「神渟名川耳天皇」、『古事記』では「神沼河耳命」
橿原市四条町にある桃花鳥田丘上陵
安寧天皇
『日本書紀』では 磯城津彦玉手看天皇、『古事記』では師木津日子玉手見
畝傍山西南御陰井上陵
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応神天皇の軽島豊明宮
都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町とされているが、
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。因みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
ーーー
長門国二ノ宮 旧国幣社 忌宮神社 由緒
忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下 この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑 紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御 代に神功皇后を奉祭して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして 豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災 の際中殿に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった 忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する忌みである。
当地に七年滞在した「豊浦宮」の跡。
その後、九州で崩御され、武内宿祢によって、モガリされた。
聖武天皇の御宇、神功皇后を奉祭して「忌宮」とし、
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」を追加。
「豊浦宮」「忌宮」「豊明宮」の三殿別立の古社であったが、
火災により中殿の「忌宮」に合祀し、現代にいたる。
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式内社 大和國高市郡 東大谷日女命神社
御祭神 姫蹈鞴五十鈴姫命
畝傍山の東側登山口。橿原神宮の裏にある。
神宮から来ると、「廃れた」印象があるのは仕方が無いか。
創祀年代は不詳。江戸時代には、熊野権現と称しており、祭神は、伊弉册尊だった。
明治二十年頃から、当社を式内社・東大谷日女命神社であるとし、祭神を、神功皇后へ変えた。が、その後、姫蹈鞴五十鈴姫命に再度の変更。明治三十五年、社名を東大谷日女命神社へ変更したという。
畝傍山東麓に鎮座。もと熊野権現と称していた。 祭神は姫蹈鞴五十鈴姫命。東大谷日女命神社は 「延喜式」神名帳高市郡の神社で、「大和志」 以来、現桜井市山田の同名社にあてる。しかし 大谷という地名が畝傍山西方にあることから、 畝傍地方に求める説が起り、明治三五年(一九 〇二)頃熊野権現の社名・祭神を変更したもので ある。なお当社をもって高市郡の式内社畝傍山 口神社とする説もある。
-大和・紀伊『寺院神社大事典』-
式内社 大和國高市郡 東大谷日女命神社
式内社 大和國高市郡 畝火山口坐神社 大 月次新嘗
御祭神 東大谷姫命 (稚姫命)
桜井から15号線を南下し飛鳥へ向う途中、山田寺跡の前を通過し、こんもりとした丘の上。
式内社・東大谷日女命神社について、『大和志』に、「在二山田村一今稱二八幡一有二石燈籠一鐫曰永和元年造式載在二高市郡一」
石燈籠は、拝殿横の簡素な囲いの中にある。重文らしいが、囲いが簡素すぎないか。
また、当社を式内社・畝火山口坐神社とする説もあるらしい。八幡社だったらしく、境内の灯篭にも「八幡宮」とあり、神紋も三つ巴。
奈良県桜井市山田にある神社。山田寺跡の南 の東大谷山に鎮座。旧高市・十市両郡の境付近 である。八幡社と称していたが、「大和志」が 「延喜式」神名帳高市郡の「東大谷日女命神社」に 比定。しかし鎮座地は旧十市郡に属するため、 畝傍山の西、現橿原市畝傍町とする説(「大和国 名鑑軌図」、度会延経「神名帳考証」)、畝傍山の東、 現橿原市今井町とする説などがある。(「五郡神社記」)。 祭神は東大谷姫。社記では稚姫命のこととし、 「五郡神社記」所引の「忌部氏記録」に稚日女命は 朝日豊明姫命の隠号と記す。社名の「東」につい て渡会延経は「夜末止」と訓ずるべきであるとし (神名帳考証)、東大谷日女命神社は東漢氏の祀った ものと解する。境内に永和元年(一三七五)の神前型灯籠があり、国指定重要文化財。
-大和・紀伊『寺院神社大事典』-
倭国香媛。
オオヤマトフトニの内侍。ハエ姫の姉。
ヤマトモモソ姫・ヤマトヰサセリヒコ・ヤマトワカヤ姫 の三つ子を生んで、ヤマト大宮姫と呼ばれる。
これにより、おそらくスケに昇格。
ホツマに出自の説明はないが、名前から大和国造 (シイネツヒコの子孫) の娘と推測する
ハエ姫。紐某弟。
オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) の内侍。ヤマトクニカの妹。
ヱワカタケヒコ、ヒコサシマ、トワカタケヒコの三つ子を生んで、若大宮姫と呼ばれる。
これにより、おそらくスケに昇格。
ホツマに出自の説明はなく、記紀によればシギツヒコの孫。
磯城県主葉江が三人の娘を皇后にしています。
安寧皇后 渟名底仲媛命(渟名襲媛) (一書云)磯城県主葉江女川津媛
孝昭皇后 世襲足媛 (一云)磯城県主葉江女渟名城津媛
孝安皇后 (姪)押媛 (一云)磯城県主葉江女長媛
また葉江の弟の猪手は懿徳に嫁がせています。
懿徳皇后 天豊津媛命 (一云)磯城県主葉江男弟 猪手女泉媛
さらに孝安皇后の押媛に関しては
孝霊母 押媛 蓋天足彦国押人命之女乎
となっています
孝霊皇后の細媛命は磯城県主大目の娘ですが、
孝霊の妃の亦名はハエ某姉(ハエイロネ)、亦妃の名はハエ某弟(ハエイロド)
ハエイロネ、ハエイロドのハエの字は糸偏に亙と書きます。
クロハヤ─┬ハエ────┬ワカハヱ─┬ナガハヱ─┬オオメ─ホソ姫
(弟磯城) │ │ │ │
├カワマタ姫 └カハツ姫 └ヌナギ姫 └ナガ姫
│
└ヰデ─────ヰヅミ姫
十市県主について、八一五年に編まれた『新撰姓氏録』は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載する。十市県主が、大目の後に磯城県主から別れたのであれば、大目が、磯城県主であり、十市県主の祖であろう。
磯城津彦と磯城津彦の子の和知都見は磯城県主であったと思われる。したがって、磯城県主であり、十市県主の祖である大目は、磯城津彦の子の和知都見を指すものと思われる
鳴門市北灘町 葛城神社摂社定水明神社
高松市西春日町 鶴尾神社摂社田村神社
大川郡大内町 水主神社
大川郡大内町 艪掛神社 大内町丹生に鎮座。百襲姫がヤマトより到着の地。
高松市一宮町 田村神社
高松市仏生山町 船山神社
岡山市石関町 岡山神社
岡山市一宮 吉備津彦神社
岡山市吉備津 吉備津神社
香川県大川郡大内町 丹生神社があったが現在は石清水神社と名前を変えている。
当地は大内郡入野郷で、昔は丹生郷、のち丹生村。古代の辰沙の産地。