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秦の始皇帝の構築した長城が有名であるが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。戦国時代には外…
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秦の始皇帝が生きた戦国時代には、各国がみな、警戒すべき国境に長城を築いていました。その後、始皇帝は見事、中国を統一。そして、不要となった国内の長城は取り壊し、燕、趙、秦に元々あった長城を連ねて万里の長城を築き上げ、匈奴から攻撃に備えたのです。
ちなみに、当時の万里の長城は山では石を積み上げ、平地は、土を固めた簡単なものでした。今の立派なレンガ造りの長城になったのは、明の時代(15世紀~16世紀ごろ)になってから。
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戦国時代の万里の長城 (紀元前475年~221年)
領土と権力のために争いを起こすとき、周の王の影響力が衰えていました。小さな国は戦国時代の初めまでに7つの大きな国(楚、斉、魏、燕、趙、秦、漢)を築くため統治者によって吸収されました
それぞれの国は小さな長城のような自国の防護壁を作りました。秦、魏、燕、趙の城壁がこちらをごらんください。
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秦の時代(紀元前221年~206年)
戦国時代の結果、秦が最強の国として他国を征服し、全土を統一しました。秦の始皇(秦の時代、紀元前247年~221年の王)は始皇帝になり、秦によって最も短い期間、支配されました。
始皇帝は中国北部の長城建設に着手しました。特に北部は秦、趙、燕の国によって築かれ、北方モンゴルからの攻撃を防ぐため、一直線の壁が作られました。そしてそれが現在ある「万里の長城」です。100万人もの労働者と9年におよぶ歳月をかけ造られました。他の国の境界壁は統一した中国の中で廃れていき、のちには侵食、破壊されてしました。
北方の匈奴に備えた「趙長城」、東胡に備えた「燕長城」、西方の氐(てい)や羌(きょう)に備えた「秦長城」がある
周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。
その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だが、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。
燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思われる。
その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだろう。
『史記』蘇秦列伝
燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。
燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
『史記』匈奴列伝
燕有賢將秦開、為質於胡、胡甚信之。歸而襲破走東胡、東胡卻千餘里。與荊軻刺秦王秦舞陽者、開之孫也。燕亦筑長城、自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。
燕に賢將の秦開あり。胡(東胡)で人質となっていたが、胡は秦開を甚だ信用した。(秦開は燕に帰還するや、軍を率いて東胡を)撃破し、東胡を敗走させ、東胡から千余里の土地を奪う。荊軻(けいか)と秦王の暗殺に同行した秦舞陽とは秦開の孫である。
燕もまた造陽より襄平に至る長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東に郡を置いて、胡族の侵入を拒む。
秦国は昭王の時に長城を築く。昭王 (昭襄王)の在位は紀元前 306年-251年 である。昭襄王の母宣太后は義渠の戎王と私通して 二 人 の 子 供 を も う け た 。しか しあ る 時 宣 太 后 は 義 渠 の 戎 王 を 編 し甘 泉 宮 で殺し、兵を起こして義渠 (城)を伐ち滅ぼした。秦は朧西・北地・上 郡の地を得て、胡族の反撃を阻止するために長城を築 く。これが秦の長
城である。
趙国は武霊王の時に長城を築 く。武霊王の在位は紀元前 325年 -29
9年である。武霊王は北方民族に対抗するために自ら北方民族の服 (胡 服)を着て、騎射を習い、北方の林胡・楼煩を攻めて取り、長城を築い た 。長 城 は 代 か ら 陰 山 の 下 に 沿 い 高 閾 に 至 る と い う 。そ こ に 雲 中 。鷹 門 ・ 代郡を置く。これが趙の長城である。 燕国は将軍秦開を胡へ人質に出す。胡族は秦開を甚だ信 じたという。と ころが秦開は燕に帰ると逆に東胡を襲い敗走させる。東胡は千余里退 く。燕も亦長城を築き、造陽から襄平に至る。上谷・漁陽・右北平 。遼 西・遼東郡を置き、以て胡を防 ぐとある。これが燕の長城である。紀元 前284年頃のことであるといわれる
『三国志魏書』馬韓伝
魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。
魏略には、昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周に衰退が見えると、燕が自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言して止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。
後に子孫が少し驕慢で暴虐だったので、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗(まんばんかん)を国境とした。朝鮮は遂弱した。
ここにも秦開将軍が登場するが、魏略は、燕が定めた国境を「満番汗」だと言っているが、満番汗という地名が見当たらない。『後漢書』郡国志に次のような記述がある。
「遼東郡。秦が配置した。今は幽州に属す。襄平、新昌、無慮は西部都尉が治める。望平、房、候城は中部都尉が治める。遼隊、遼陽、險涜、居就、室僞山、高顯、安市、武次は東部都尉が治める。平郭、西安平、文、番汗、沛水を出れば塞外、西南は海に入る」
清朝を建国した女真族は文殊(もんじゅ)観音を信奉することから、満州(もんじゅ)族と改名した。従って、文と満は同音であることから、文(一説には、汶亭)と番汗が満番汗のことだろう。だが、満番汗は平壌市に近い大同江北岸にある。これでは一挙に遼東地方を突き抜けたことになり、それまでの遼東地方は朝鮮の領地だったということになる。
及秦并天下、使蒙恬築長城、到遼東。時朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死、其子準立。二十餘年而陳、項起、天下亂、燕、齊、趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方。
秦は天下を併合すると、蒙恬(将軍の名前)に遼東に至る長城を築かせた。
朝鮮王に否が立ったとき、秦の襲来を畏れ、秦に略服しようとしたが、朝議で否決された。否が死に、その子の準が立った。二十余年後に陳と項が起ち、天下が乱れると、燕、斉、趙の民は困苦から、次々と準のもとに逃れて往った。準は彼らを西方に置いた。
秦は秦長城、趙長城、燕長城を大々的に増改修して連結させた。新華社通信の新華ネットに、これに関する『長城修築工程(2003年9月19日)』という資料があった。(http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/ziliao/2003-09/19/content_1089531.htm)
「紀元前214年、秦は数万の労働者を徴用して、十余年の歳月をかけて戦国時代の秦、趙、燕三國が修築した長城を連結させ、修補を加えて、東の起点を朝鮮大同江畔とした。
漢時代、匈奴の侵入に備えて、武帝は師団を動かして新しい万里長城を築いた。この漢長城は中国古代史上の最大規模の軍事工程とされ、その規模と工程は遙かに秦長城を超えている。東は遼東の鴨綠江畔、西はタクラマカン大沙漠で、総延長は二万里を超える」
漢の武帝によって構築された長城からが「万里の長城」になったようだが、この資料では東の起点を大同江畔の満番汗にしたのは「燕ではなく、秦だ」とされる。そして、漢代には鴨緑江まで国境が撤退している。
及漢以盧綰為燕王、朝鮮與燕界於浿 水。及綰反、入匈奴、燕人衛滿亡命、為胡服、東度浿 水、詣準降。説準求居西界、中國亡命為朝鮮藩屏。準信寵之、拜為博士、賜以圭、封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多、乃詐遣人告準、言漢兵十道至、求入宿衛、遂還攻準。準與滿戰、不敵也。
漢(前漢)代に盧綰が燕王となり、朝鮮と燕の境界は浿 水(ばいすい)とした。
盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛滿は胡服を着て逃れ、東に浿 水を渡り、準に詣でて帰服した。満は西界に住み、中国からの流民を(結集して)朝鮮国の藩屏と為すことを求めた。準はこれを信じて寵愛し、博士と呼んで尊敬した、圭の百里を賜り、西辺の令守に封じた。滿が流民を誘導して結集した集団が段々と多くなるに及んで、満は使者を派遣して「漢兵がいずれの街道にも満ちあふれ、宿衛に入ることを求めています」と虚偽の報告をさせた。遂に準は帰還して攻めたが、準と滿が戦っても敵わなかった。
朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿 水為界、屬燕。
朝鮮王の滿とは、昔の燕の人である。燕は全盛期の初期から、真番と朝鮮を帰服させ、官吏を置いて、鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。
秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(異民族)を帰属させた。漢が勃興し、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕長城)を修復し、浿 水までを国境とし、燕に属させた。
この記述では、秦の修復は浿 水(清川江、または浿水県)までだとしている。
以上のように、史籍によって「襄平、満番汗、浿 水」と朝鮮との国境が異なるが、渤海に注ぐ朝鮮半島の河川は、北から遼河、東遼河、太子河、鴨緑江、清川江、大同江が流れている。
そして、襄平は東遼河、浿 水は清川江、満番汗は大同江に???
Wikipedia による。
漢代の遼東郡の番汗県は今の北朝鮮平安北道の博川(博川江西岸)に比定され通説となっており、満潘汗はこの番汗に似ていることから同一地と考えられる。また同じく遼東郡内の文県は今の遼寧省営口市と考えられており「満」はこの「文」ではないかともいわれる。ただ問題は文県と番汗県があまりに離れすぎており、満=文県は遼東郡の西方なので、朝鮮との境界というのにあわない。これをどう考えるかで説がわかれる。
「満」と「潘汗」は遠く離れていたとの説
文県は通説どおり今の遼寧省営口市にあったとした上で、「満」と「潘汗」との間に長い境界線を想定する説。これだとこの境界線によって遼東郡は南北に分断されることになるが、その北側が燕の領土、その南半(遼東半島の大部分)が朝鮮の領土だったという説。
「満」と「潘汗」は隣接していたとの説
長い境界線を想定するのは考えにくいとし、そこで、文県が今の遼寧省営口市にあったという説を誤りとし、文県は番汗県に隣接していた(平安北道内)のだとする説。
文県は関係ないとする説
「満潘汗」で一語とする説
もともと「満潘汗」という地名で、番汗県はそれが略されて出来た名であり、文県は関係ないという説。
鮮卑の檀石槐は、東へ向かい、魚をとるのが上手い「汗人」を、内陸の遼西郡の老哈河のほうへ数百戸も強制移住させてしまいました。この汗人、実は三国志集解という書物で、倭人の別名であると記されてます。汗人=倭人だったんです。
楽浪郡に「満番汗・番汗」という街がありました。檀石槐が汗人を拉致した現場に近く、この番汗は、汗人=倭人の居住地だったと考えられちゃいます。
桓霊の間(西暦147~189年頃)
韓濊が強勢となり郡県が制御不能となり、大量の流民が韓国へ向かいました。ここで変な記述だと思ったんですが、韓濊の内、「濊が韓へ向かった」であれば、地図を見て分かる通り、北方の濊や東濊から南方の三韓へ向かうという出発地と目的地は明確なのです。しかし「韓が韓へ向かった」だと、文脈がおかしいんです。出発地と目的地が両方「韓」なのが変なのです。