西暦57年 倭の奴国か倭奴国が在った。

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
image西暦57年 倭の奴国か倭奴国が在った。

「後漢書倭伝」 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 「建武中元二年、倭奴…

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コメント

  • July 2016 編集されました
    常根津日子命

    後漢(東漢) 建武中元二(57)年、貢獻した奴国の王に、「漢委奴国王」と称して金印を授ける(後漢書 東夷列傳)。金印は、天明4年(1784年)に博多湾沖の志賀島から発見され、今も福岡市博物館に展示されている。

     金印を授けられたのは、第三代・安寧天皇(師木津日子玉手見命)の皇子・常根津日子命だった???

     金印は後世の偽作ではないかと疑うむきもあるが、古代の奴国の在ったとみられる福岡県糸島郡二丈町に在る一貴山銚子塚古墳近傍から常根津日子命の墓碑「丙寅年三月十六日 御年四十七歳」が解読、生存年はAD20~66年と比定され、後漢書の記述年代と合致する。

    http://www.syamashita.net/history/kodaishi/chugoku_haika.html
  • 光武帝劉秀

    劉秀は泰山封禅の儀式のちょうど一年後に死去する。
    このときすでに体の異常を感じ死を意識していたはずだ。頑強な肉体を誇った劉秀も、実はその中年の頃に二度、重病で倒れている。
    一度目は建武十七年(西暦41年)、四十七歳。郭皇后の廃后事件の年である。
    二度目は建武二十年(西暦44年)六月、大司馬呉漢が亡くなった翌月、五十歳のときである。

    劉秀はすべての儀式を公開して記録し、何の不思議なことも行わなかった。ただ天に天下のことを報告し、国家の安定を願って去っていったのである。

    泰山で天に捧げた文面
    まず自分が皇帝に至った理由とその正統性について、
    『河図赤伏符』、『河図会昌符』、『河図合古篇』、『河図提劉予』、『雒書甄曜度』、『孝経鉤命決』など予言書を挙げて述べている。自分が皇帝になったことを天に向かって言い訳している。
    それから今までの皇帝として歩みを述べ、何度も民衆の幸福を祈願する言葉が登場するが、自らについては何も述べていない。

    劉秀と始皇帝や漢の武帝は、その生涯が大きく異なる。
    始皇帝も武帝も自ら軍隊を率いたことはほとんどない。

    だが劉秀は全く違う。その生涯の前半期は戦いの人生である。戦場で自らの手で直接殺した人間の数だけでも数百人に及び、眼下に捉えた死体の数は数十万人に及んだだろう
    玉座で見下ろすだけの皇帝たちとは死生観が全く異なるのだ。

    劉秀はかつて匈奴国境から民衆を避難させ、南匈奴の帰順に従い人々を帰還させたが、その地がほとんど廃墟になっていたことを悲しんだ。土地調査にともなってたくさんの人が死んだときはそれを長く後悔していた。

    劉秀は民衆とともに一喜一憂して生きたのである。
    劉秀は人と共に生きた男、人と共に生きることがこの男の喜びなのだ。
     
    天上でなく大地こそ我が生きる場所
    劉秀は、封の儀式が終わると、劉秀は下山して霧に包まれた地上の世界に戻っていった。

    ふと劉秀は傍らに未だ十代の紅顔の少年少女の幻想を見て苦笑する。

    初老の域に達した二十八星宿の一位鄧禹と皇后陰麗華は、このときもまた劉秀の側にいて、大臣として皇后としてともに泰山に登っていた。鄧禹はこのときのために司徒代行となっていたのである。

     自らの死期を悟った劉秀は、ただ天意を問いたかったのであろう。自分が皇帝であることは正しいのか、その政治はうまくいっているのか、と。

    泰山は雨降りが多い地域で、始皇帝が泰山封禅をしたときは嵐や大雨に襲われたと記録されるが、劉秀の封禅では天もまた祝福するかのように好天が続き、随行員にも一人のけが人、病人も出なかったと記録される。
     
    東海の島国倭国より使者至る
     封禅の翌年、中元二年(西暦57年)一月、東夷の倭奴国王が大夫と称する使者を遣わして献上物を奉じた。

     倭国とはもちろん日本のことであり、中国の朝廷に日本人が来たのは史上初である。ここに初めて日中の外交の記録が始まる。劉秀は使者に印綬を与えたが、それが日本に現存している国宝、漢の倭の奴の国王という金印であるとされる。
     中国では古来より、遠方から帰服の使者が来るのはその徳を慕ってのことと考えられ、その政治のすばらしさをたたえるものと考えられている。史上初の遙か海を越えた遠方の倭国の使者は、まさにすべてを終えつつある劉秀への、天からの最後の祝福であると言えよう。
     
    金印真贋論争
     国宝の金印については、偽造説も根強く存在する。江戸時代に発見された経緯があまりに不自然であるためだ。
     それでも本物と考えられる理由は、江戸時代には、後漢時代の印章についての情報がなく、後漢時代の他の印章と特徴が一致するものを作ることができないからである。
     金印の印面の一辺は2.341~2.354cmであり、後漢時代の一寸とほぼ一致するが、江戸時代には後漢時代の一寸は知られていなかった。

    考古学者の石川日出志は、漢委奴國王の漢字の字形の特徴が、漢代の印章の字形に一致するとしている。さらにこの金印および後漢における金製品の金の含有率が95%前後なのに対し、江戸時代の金製品で最も高純度な小判でも85%前後に過ぎず、江戸時代には高純度の金が入手できないし、比率を知ることもできないという。

    福岡市埋蔵文化財審査課管理係長の大塚紀宜は、この金印は、つまみの部分がもともと駱駝の形だったものを、頭部を切り落として蛇に形成し直したものであるという。異民族に贈った印章にはつまみの部分が駱駝のものが多いが、このことも江戸時代には知られていない。

    これらの結果、考古学者には偽造と疑う人はあまりいないようだ。
     
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