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英賀神社 姫路市飾磨区英賀町 英賀彦神、英賀姫神 配 誉田別神、菅原道真 摂社 恵美須社「事代主神」 兵庫県の…
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由緒
『延喜式神名帳』に、讃岐国鵜足郡小飯神社とあり、讃岐二十四社の一。
鵜足郡は紀氏と同族の坂本臣が居住していた。五十猛命を祀ったか。
『古事記』の国生みの神話に、「次に伊予之二名島を生みき。この島は身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、伊予国(イヨノクニ)を愛比売(エヒメ)と謂ひ、讃岐国(サヌキノクニ)を飯依比古(イヒヨリヒコ)と謂ひ、粟国(アハノクニ)を大宜都比売(オホゲツヒメ)と謂ひ、土左国(トサノクニ)を建依別(タケヨリワケ)と謂ふ。」とある。飯依比古は讃岐の国魂神である。
『播磨国風土記』の揖保郡香山の里に飯盛山の項があり、「讃伎国宇達郡の飯神の妾の名を飯盛大刀自と言い、この神が海を渡って来てこの山を占めて住んでいた。だから飯盛山と言う。」とある。
岡山県の玉野市胸上の八幡宮に八幡神の他に飯依比古 飯依比賣が祀られている。この女神が飯依比古の摘妻(ムカヒメ)?
天正年間兵火に罹り社殿悉く焼失、別当某僅かに神体二躯を奉して火中より逃れ、元和八年九月社殿再興なり、遷宮を行ったと言う。
摂社に荒神社が二座記載されている。明治四十四年字高柳の荒神社と字山根の荒神社を合祀している。
古坂里山公園の散策路
播磨国風土記には「一つの 矢を発ちて、二つの鳥に中(あた)たりき。即ち、矢を負ひて山の岑より飛び越えし処は、鴨坂と号(なづ)け、落ち斃(たふ)れし処は、仍(よ)りて鴨谷と号(なづ)く。羹(あつもの)を煮し処ところは、煮坂 といふ」と書いてある。つまり、放った一本の矢が偶然にも二羽の鴨に当たり、鴨は飛んで逃げようとして、飛び越えたところが鴨坂で、落ちたところが鴨谷、羹(汁物など)を煮たところが煮坂という
傷ついた鴨は この峠を越えて今の鴨谷町に落ちたのね。鴨が落ちた谷だから鴨谷。
兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した寺院である。
この寺院については、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に記載された寺伝以外に根拠となる史料がない。『峯相記』は筆者は不明であるが、貞和4年(1348年)頃、鶏足寺に参詣した一人の旅の僧が、寺の老僧から聞いた話を書き記したという設定になっており、播磨地方の寺社の縁起などが記されていて、当地方の歴史を知る上で貴重な資料である。
同書によれば、神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は3世紀ほど後の敏達天皇10年(581年)に没したという。
伝承によれば、「皇后が新羅の王子を連れ帰ることにした。
王子は皇后に渡海を無事に終えて日域(日本のこと)に着けば、伽藍を建てたいと願い出たが、仏法の是非のわから ない皇后は明答しなかった。皇后は帰国後、西域の不安に備えて副将軍の男貴尊を播磨にとどめおき、王子を預けた。その後、王子は、峯相山に草庵をつくって、千手陀羅尼を唱えた」とある。
鶏足寺には空也や書写山圓教寺の開山・性空も来山したと伝わる。『峯相記』が書かれた1348年頃には寺勢はすでに往古にくらべて衰退していたという。
天正6年(1578年)、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちにあい滅亡し、廃寺となった。
したがって、オキツシマヒメではなくコノハナサクヤヒメを祭神とする古奈為神社の社伝も、あながち誤伝とはいえない。そうしてみると、小苗からすると南にある天狗山が、袁布山比定地だとすれば、古奈為神社は袁布山を神体とするもののようである。
ちなみに言えば、播磨国二宮の荒田神社(多可町加美区的場)は、祭神がスクナヒコナ(少名彦神)、スサノヲ、コノハナサクヤヒメであり、これも出雲神話の神々である。『古事記』によれば、スクナヒコナは天乃羅摩〔あめのかがみ〕船に乗ってやってきた外来神で、大国主命の国造りを助けたという常世神である。
この播磨国二宮・荒田神社は、播磨国一宮・伊和神社のほぼ東方向に位置し、その間に雪彦山や笠形山があり、その延長線上に黒田里の袁布山がある。この黒田里の袁布山が、伊和大神の子を孕んだ奥津島比賣が出坐した場所だとすれば、この直列分布状態には、何やら神話的意味もありそうである。
葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ、生没年不詳:4世紀末から5世紀前半頃と推定)
武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。
皇后:難波小野王(難波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)
『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。
天皇は即位すると すぐ 父の遺骨を探し求めました。殺された父・忍歯の王の忍歯おしは は 八重歯やえば のことです。(押歯おしはとも書く)
父の忍歯の王は 特徴的な八重歯があり 堂々たる容貌の 端正な顔立ちの美男でした。
その父は 殺害後 馬の飼い葉桶に入れられ 草叢くさむら に埋められてしまったので 目印となるものは無くその埋められた場所の盛り土さえも 探すことが困難な状況でした。
ところが そんな折柄おりがら 父の遺骨が埋っている場所を知っている ひとりの老女があらわれました。
「お父上さまの御骨が埋められている場所を 私は知っています。歯の形でお確かめ出来るでしょう」。
さっそく この老女の案内のもと 蚊屋野の草叢で 父・忍歯の王の遺骨を見つけることができました。
天皇は 蚊屋野かやの (滋賀県秦荘町)の東の山に 御墓を建てて弔いました。
そして 大長谷の王の部下だった 猪狩りを計画した韓嚢からぶくろ の子孫に墓守りを 命じたのでした。
同族の「置目老嫗」(おきめのおみな)が押磐皇子の遺骨の所在を知らせた功により置目老嫗の兄である「倭袋宿裲」に韓袋宿裲から剥奪した狭々城山君の姓を与えたとの記述がある