玉造、

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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櫛明玉神 別名 天明玉命:あまのあかるたま 天羽明玉命 天豊玉命 玉祖命/玉屋命 天櫛明玉命 羽明玉:はあかる…

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コメント

  • 日本のひすいの産地

    糸魚川地域(青海・朝日・小谷・白馬を含む)が最大の産地です。このほか、鳥取県若桜(わかさ)町、兵庫県 養父市大屋(おおや)、岡山県新見市大佐(おおさ)、長崎県長崎市三重、同市琴海、北海道 旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市(旧引佐町)、熊本県八代市などからひすい(ひすい輝石岩)が発見されます。宝石になるようなきれいなものが多産するのは糸魚川ですが、若桜からはラベンダーひすい、長崎市 琴海からは灰緑色のひすいを産し、宝石にはならないまでも、なかなかきれいなものがあります。
  • 姫川下流東岸にある長者が原遺跡と西岸青海町寺地遺跡からは、いずれも加工途中のヒスイがみつかっており、ヒスイ工房があったと考えられています。しかしこの二つは縄文時代、なんと約5000~4000年前の遺跡です。青森県の三内丸山遺跡からもヒスイの原石や加工途中の石が見つかっていますが、こちらもほぼ同時期の縄文時代。ヒスイは縄文人の宝石だったのです。
    今のところ、加工途中のヒスイが見つかっている最も新しい遺跡は、富山県朝日町の古墳時代の遺跡だそうです。しかしこの遺跡で見つかっているヒスイは川からではなく、朝日海岸に打ち上げられたものを採取したものだろう、とのこと(角がとれて丸くなっているということ?)。

    つまりヌナカワヒメがヒスイの女王として君臨したであろうと思われる時期に、糸魚川でヒスイ製品が作られていた形跡が無いのです。

    ヒスイの宝飾品は、奈良・東大寺三月堂(740年ころ創建)のご本尊・不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)宝冠に使われたのを最後に、以後1200年間、新しいヒスイ製品が作られることは無く、糸魚川のヒスイはいつしか忘れ去られていたのです。
  • (1)出雲風土記に登場する奴奈宜波比売命の御子は御穂須須美命だけ、この御子は能登に所縁はあるが糸魚川には無い。
    (2)建御名方命は古事記に大国主命の御子として登場するが、日本書紀には登場しない。そのため、大国主命とは関係ない可能性がある。
    (3)能登羽咋市・気多大社の祭神は出雲から来たと伝承のある大己貴命、気多大社の系列とされる富山県高岡市・気多大社の祭神は大己貴命と奴奈加波比売命、新潟県上越市・居多神社の祭神は大己貴命・奴奈川姫・建御名方命。一方糸魚川市・天津神社境内社・奴奈川神社の祭神は奴奈川姫命、後に“八千矛命”を合祀。
    (4)糸魚川のヌナガワヒメの伝承には、ヒスイも玉も出てこない。
    (5)糸魚川のヒスイ加工は数千年前の縄文時代のこと。富山県朝日町の古墳時代のものとされる遺跡のヒスイは川ではなく、海岸に打ち上げられた石を加工したもの。
    (6)奈良時代の仏像(古事記が出来たころとほぼ同じころの作)の宝冠に使われたのを最後に、あらたなヒスイ製品は作られなくなり、糸魚川でヒスイが採れることが再発見されたのは、昭和の時代になってから。
  • 布川とは、糸魚川の黒姫山(妙高の黒姫山ではありません)の福来口大鍾乳洞から流れ出る川で、その鍾乳洞に住んでいた奴奈川姫が機(はた)を織って織った布を川でさらしていたので、その川を「布川」と呼ぶようになった、という伝説のある川です
  • 『ヌナカワ』という名を持つ人
    まず、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと、=建沼河耳命)、日本書紀では神渟名川耳尊。神武天皇の皇子で二代・綏靖天皇です。もう1人は八代・孝元天皇の皇子・大彦命の御子、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)、日本書紀では武渟川別命。どちらも天津神の子孫。当然ヒスイの川とは無関係です。
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