梁職貢図の倭国、斯羅國、新羅

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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職貢図は、中国王朝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いてい…

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コメント

  • 倭国
    倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。
  • 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉。

    斯羅国=新羅です。「あるいは韓に属し、あるいは倭に属し、国王は(中国に)使者を派遣することができなかった」のところが騒ぎになってるらしい。
    梁の「普通二年」は西暦521年。「その王の姓は募、名は泰」ということで、法興王。521年に新羅の法興王が百済の先導ではじめて梁に遣使したってことですね、たぶん。言葉は百済の通訳がないと通じなかったということ。
  • 翰苑は、編纂されたのが660年と古く、古代の蕃夷(ばんい)部のみが奇跡的に太宰府天満宮に残ってます。現在、国宝に指定されています。

    a.憑山負海鎮馬臺以建都
    b.分職命官統女王而列部
    c.卑弥娥惑翻叶群情
    d.臺与幼歯方諧衆望
    e.文身黥面猶太伯之苗
    f. 阿輩雞弥自表天児之称
    g.因禮義而標秩即智信以命官
    h.邪届伊都傍連斯馬
    i. 中元之際紫綬之栄
    j. 景初之辰恭文錦之献
     
    現代訳(古田武彦氏による)】
    a.倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置き、そこを「馬臺(またい)」と称して都を建てている。
    b.官職を分って任命され、女王に統率されてそれぞれ「~部」という形に分けられている

    c.卑弥呼は妖(あや)しい術によって民衆を惑わしている、とわたしたち中国人に見えるが、それはかえってこの国の民衆の心にかなっているようだ。
    d.臺与(たいよ)は、まだいとけないうちに即位したが、ちょうどそのとき多くの人々の(内乱終結)への望みをかなえ、やわらげた。

    e.倭人は全身に入れ墨をしていたようですが、ここで驚くべきことを言います。
    「自分たちは、呉の太伯の子孫だ。」
    呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男です。紀元前12-11世紀頃の人物で、呉の祖とされます。父である古公亶父が、跡継ぎを末子の季歴の子の昌(のちの文王)にしたいとの意向を知り、弟虞仲(ぐちゅう)とともに荊蛮の地(長江中流域の原住民に対する別称)へと向かいます。
    後になって、周の者が二人を迎えにきたが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るのに相応しくない人物だとして、断りました。
    そこで太伯が興した国が呉で、荊蛮の人々は、多くこれに従いました。(wikipediaより)

    f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
    g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。

    倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」とは、隋書倭国(原文は俀国 (たいこく))伝に出てくる多利思北弧(たりしほこ)のことです。
    「自ら天児の称を名乗って上表した」とは、有名な「日出ずる処の天子」より、607年、隋の煬帝に国書を出したことを指しています。
    「日出ずる処の天子」とは、推古天皇ではなく、まして聖徳太子ではありえないという話は、

    徳目によって官職名をつける話も、隋書俀国 伝にありました。


    h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。

    さて、ここで倭国の都の位置、すなわち邪馬臺国の位置を示しています。
    原文の「邪」は、「斜めに」の意味です。また、同じく原文の「連」とは、「間に国がある」ことを示しています。すると、現代訳に書いたように、
    「ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる」意味となります。

    斯馬国はどこにあったか
    かつては、糸島半島の北側が斯馬郡、南側が恰土(いと)郡だったことから、斯馬国、伊都国の位置が、特定できます。


    邪馬台国位置は、久留米あたりか

    邪馬臺国から見て、確かに斜めの位置に伊都国があり、その向こうに斯馬(しま)国があるのがわかります。
    翰苑の編者は、当然のことながら魏志倭人伝を念頭に置きながら、別の表現を用いて邪馬臺国の位置を示したわけです。
    もちろん文字の解釈の違いから、異なる考え方をとる方もいますが、少なくとも邪馬臺国は、伊都国や斯馬国の近傍にあったことは動かし難いでしょう。

    【訳】
    i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
    j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。
  • 〈副詞〉〈動詞〉〈傍国名〉
     邪   届    伊都
     傍   連    斯馬

     の対句形ですから、第二句の「傍」を副詞に読むなら、第一句の「邪」も同じく副詞に読みたいところです。
     「邪」には“ななめに”と読む副詞の用法があります。諸橋の大漢和辞典によると、
     「ななめ」、東北につづく。斜に通ず。
     「邪(ななめ)に粛慎と鄰を為す。〈注〉師古曰く、邪、読みて斜と為(な)す。東北に接するを謂う」(漢書、司馬相如伝上)  とあります。
     「じゃあ、“東北につづく”場合だけじゃないか」。そうおっしゃる方もあるかもしれません。わたしも、はじめそう思いました。ところが引用文の『漢書』司馬相如(しば
  • 古田武彦

    十一 歴代の倭都は「謎」ではない ーー『翰苑』をめぐって

    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/kanen41.html

    〈副詞〉〈動詞〉〈傍国名〉
     邪   届    伊都
     傍   連    斯馬

     の対句形ですから、第二句の「傍」を副詞に読むなら、第一句の「邪」も同じく副詞に読みたいところです。
     「邪」には“ななめに”と読む副詞の用法があります。諸橋の大漢和辞典によると、
     「ななめ」、東北につづく。斜に通ず。
     「邪(ななめ)に粛慎と鄰を為す。〈注〉師古曰く、邪、読みて斜と為(な)す。東北に接するを謂う」(漢書、司馬相如伝上)  とあります。
     「じゃあ、“東北につづく”場合だけじゃないか」。そうおっしゃる方もあるかもしれません。わたしも、はじめそう思いました。ところが引用文の『漢書』司馬相如(しばしょうじょ)伝を見ると、判りました。詳しくは次にのべますように、ここは、斉地(せいち 山東半島付近)とその周辺の海(渤海ぼっかい・黄海など)を中心の視点において、東北の海の彼方にある粛慎国も隣みたいなものだ、と、斉の国の讃美者たる「烏有うゆう先生」(司馬相如の作中人物)が、いささか“大風呂敷”をひろげているところ。
     それに対して後代(唐)の顔師古が「これは、この地帯(海陸)に対して粛慎国が東北方に接しているという地理状況をしめしたものだ」と注記しているのです。すなわち、このケースが「東北方に接している」場合なのであって、「邪(ななめに)」と言えば、すべて「東北方」というわけではないのです。この点、諸橋の大漢和辞典において、この言葉自体の意味を「東北につづく」意味と限定してしるしたのは、いささか顔師古注に“密着しすぎた”もののようです。
     もっとも、反面から考えれば、張楚金(ちょうそきん)がこんなむずかしい“ななめ”の「邪」字をなぜわざわざ使ったのか、と言えば、やはり「邪馬臺」の「邪」字の連想からだろうと思われます。従ってイキナリ「邪が」と主語にとるのも、実体としてはまちがいではないと思いますが、修辞上いささか温雅でなく、対句の妙を欠くように思ったのは、わたしの“僻目ひがめ”でしょうか。
  • March 2017 編集されました
    胡蜜檀国についての記述
    西域の胡蜜檀国について北宋模本では「来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主[」という箇所が、張庚模本では「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主」となっている。揚州天子が梁の武帝に対し「日出処大国聖主(日出る大国の聖なる主君)」と上表している。梁は東南アジアや西域諸国との交渉が盛んで、諸国の武帝宛国書では仏教用語を用い武帝を菩薩扱いし、梁を礼賛していたといわれる。武帝は仏教信仰でも高名であった。

    駒澤大学の石井公成は、遣隋使によって隋煬帝に届けられた倭国(俀國)王に阿毎多利思北孤よる国書のうちの「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」[という表現との関連について、百済仏教と梁の仏教との密接な関連や、聖徳太子によるとされる三経義疏は、梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』、同じく梁の吉蔵(549年 - 623年)による『維摩経義疏』に基づいていることなど関連性の研究がまたれると指摘している。

    斯羅国(新羅)についての記述
    新羅があるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記載されている。

    斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
    斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

    韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)という記述について、任那日本府(369年-562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における

    百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

    百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした

    という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。
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